*無法投区/桜月

〜名画座の古りしタイルや花の冷〜

* 船岡山の桜=葱男

今月の26日に俳句喫茶店「つぶやく堂」のオフ会が京都で開かれることになった。
ご存知の方も多いと思うけれど、「つぶやく堂」というのは特別ゲストのコーナーのきっかけを作っていただいた「やんま.」さん(藤嶋務氏)がマスターをつとめるネット上のしりとり句会である。(トップページからリンクしてありますので一度覗いてみてください。) 10年ぐらい前、先月号のゲスト「香田なを」さんに紹介されて、面白そうだからとときどき覗くようになったのがきっかけで、それから約10年、私の句友は「つぶやく堂」を起点に「百鳥」へ「はるもにあ」へとどんどんと拡大してゆき、何を隠そう、「丘ふみ新メンバー」の白馬さん、ぼくるさんも実は「つぶやく堂」のお友達なのである。

そういう事情もあって、今年の春の「つぶやく堂」の「オフ会」は是非京都で開いてほしい、ということになった。関東から日帰りの人もいるので「京都」が近かろうと、私からみなさんに吟行地招致をしたのだ。

地元開催の「京都吟行句会」、世話役をかって出た私は吟行地の候補である「船岡山」の視察に出掛けることにした。折りしも桜が満開のこの季節、西陣の北にちんまりと位置するのは標高100メートルほどの、けれども清小納言に「岡は船岡」と言わしめた歴史ある小高い丘である。

船岡山の東側の中腹には明治2年(1869)、明治天皇の御下 命により創建された織田信長公をお祀りする建勲(たていさお)神社がある。神社入口の大鳥居をくぐって百段ほどの石段がつづれに登っている。半分ほど登ると、もう視界は広がり、東には比叡山の威容がはっきりと見ることができる。

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中腹にある神社の南側丘陵に添って続くゆるやかな林の小道を辿ると100メートルほどで小高い船岡山の山頂広場に出る。
山頂には小さな四阿と記念木の老桜が数カ所に植えられており、そこからは京都市内が一望に見渡せる。

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* *

山頂から東側にゆっくり坂を下ると東に展望の開ける場所があり、ここからは比叡山と大文字山がつながる見事な稜線が臨める。京都の街では四季それぞれにどんな季節でも、朝日はこの比叡山と大文字山(如意が岳)の間から顔をだす。

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さらに北側へ坂道に添って下ると、今度は左大文字山が見えて来る。そこには野外音楽堂と一大きな子供広場が並び、さらにゆっくりと降りると北大路通りに面した船岡山公園のもうひとつの入口に続いている。

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私は音楽堂の桜の木の下に座って「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」という、村上春樹の文庫本を開いた。
この本は村上春樹がシングルモルトウイスキーの聖地、スコットランドのアイラ島と対岸のアイルランドを旅したときの短い随想が書かれていて、村上さんの奥様が撮影した島の風景写真がふんだんに盛り込まれた、とてもオシャレで軽い本だ。その内容は徹頭徹尾、シングルモルトウイスキーに関わる話ばかりなのだが、これが不思議なことに「ウイスキー」というキーワードを「俳句」という言葉に差し替えて読んでみると、いろんなことが見えて来るとても勉強になる一冊なのであった。少し引用してみよう。

『アイラ島にはぜんぶで七つの蒸溜所がある。僕はこの七つのシングル・モルト・ウィスキーを、地元の小さなパブのカウンターで同時に飲み比べてみた。〜中略〜
という具合に、こんな小さな島で、いくつもの蒸溜所がそれぞれの個性的な「棲み分け」をしていることに僕はまず驚かされる。もちろん理論的に言えば、樽の選び方や、それぞれの川の水の質や、ピートの使い方や量や、倉庫での寝かせ方の加減で、かなり大きく味の特徴がかわってしまうわけだが、そのような具体的ファクター以上に、どの酒にもそれぞれの生き方があり、哲学があるのだろうという気がする。どのメーカーも〈まあ、だいたいこのへんでいいだろう〉というような安逸な考え方をしていない。横並びではなく、それぞれが自分の依って立つべき場所を選びとり、死守している。それぞれのディスティラリー(蒸溜所)には、それぞれのディスティリングのレシピがある。レシピとは要するに生き方である。何をとり、何を捨てるかという価値基準のようなものがある。何かを捨てないものには何もとれない。』

句暦10年の私はまだ何も捨て切れていないのかもしれない、だからいつまでたっても「俳句のなにごとか」が分らないままでいるのだろう。


* 雨のち晴レルヤ=五六二三斎

3月14日の卒業式の後、18時半より学部の謝恩会が行われた。場所は西鉄グランドホテル。

実は、この謝恩会でハイジャン男にカラオケを歌ってほしいとの要望があったのは、12月くらいだったと思う。謝恩会の係のOさんが研究室を訪ねて来た。最初は、学部で1番カラオケの上手いN教授、2番手のK教授にお願いしたらと言っていた。3番手のハイジャン男が1人だけカラオケをやるのは僭越至極だ。

ところが、N教授、K教授ともに恥ずかしがり屋さんなのか、固辞されたとOさんがやって来て報告した。仕方ない。3番手が引き受けようということになった。

さて、何を歌おうか?ハイジャン男のレパートリーと言えば、藤山一郎の東京ラプソディー、井上陽水の少年時代、郷ひろみのお嫁サンバ等々。しかし、どれも古すぎる。新曲で行きたいものだ。朝の連続テレビ小説のごちそうさんは視聴率絶好調だ。そのテーマソングの雨のち晴レルヤは、ゆずの歌。今時だ。しかも、卒業式の後の謝恩会の雰囲気にもぴったりだ。よし、これにしようということになり、ネットで歌詞を覚えて口ずさむように努めた。

とにかく、この曲だが高い。ハイジャン男は、小学生の時にはボーイソプラノで女子生徒たちをうっとり?させていたものだ。小学校の5年生の時に行われる音楽会で1人だけ選ばれて独唱をやるのが目標だった。しかし、一つ先輩の年に、男子生徒のMさんが務めたので、ハイジャン男の年には、女子のNさんが選ばれて、その大役は回って来なかった。小6から中1になる辺りで声変わりが起き、中1の時に、音楽の悪魔先生ことF先生から、「低い音に変えて歌いなさい。」と指導された。

正月1日に、ガラ携が故障し、スマホに変えたが、これも良かった。雨のち晴レルヤをダウンロードして聴けるようになった。1人カラオケにも2回行った。とても、ゆずの原曲のキーでは歌えない。何度か音を下げなければ裏声になってしまう。後になって考えてみれば、1人カラオケでカラオケに行くのでなく、音楽に詳しいどなたかについて来てもらい、何度下げたらいいか?指導を仰ぐべきであった。

段々上手に歌えるようになると、キーも少し下げれば歌えるのではないかと過信するようになってきた。歌は、原曲のキーが1番聴きやすいと聞いたことがある。謝恩会の係のOさん、そしてI君を呼び出して、雨のち晴レルヤを歌うこと、無謀だったのだが、キーを半音下げてくれと頼んでしまった。

*

さて、当日の、7時15分。いよいよ登壇し、歌い始めた。高い!最初の低いところは、何とかこなせたが、誰の心も雨のち晴レルヤのところはいっぱいいっぱいだった。これは、変曲する2番はとても覚束ない。3半音下げなければ歌えない。しかし、間奏は短い。係の人に頼み損なった。

さあ、苦しい2番が待っていた。声が出ない。これは、昔取った杵柄のボーイソプラノの裏声で凌ぐしかない。「それは奇跡」の所が1番苦しかった。
漸く長いドボルザークの新世界の二楽章のラルゴの間奏。此処ぞとばかりに壇上から降りて、係の人に3半音下げてくれるように頼んだ。

しかし、無理に裏声を使ったせいか?喉はガラガラヘビ状態。3半音下げてもらったにも拘らず、声が渇れて、最後の雨のち晴レルヤの美声?を披露出来なかった。

卒業生にキーが高く失敗したことを詫びると大爆笑。最後に、「皆さん!雨のち晴れて下さい!」と言い残して降りようとしたところ、お礼のプレゼントがあるという。有難う。ずっしりと重い。何だろう?このプレゼントは、後で歌った男子学生のS君にあげた。プロ級の上手さ!君には負けたの意思表示だった。

ところで、ハイジャン男のスマホを臨時助手を務めるN君に渡してビデオ撮影をしてもらった。これをある教育学部の3年生に見せたら、「泣いてる人いませんでしたか?」とのこと。ハイジャン男は歌うのでいっぱいいっぱいだったので回りの雰囲気まで見渡せなかった。もし、そうであったなら、ハイジャン男の役目は盛り上げ役として成功した部類であろう。

「卒業生涙のあとはきつと晴れ」

ハイジャン男のブログ

*寝台特急あけぼのラストラン=資料官

●あけぼのや夜汽車は春の夢の中

 上野から秋田経由の青森行きの寝台特急あけぼのが3月14日を最簿に姿を消した。いわゆる生活に密着したブルートレインはこれですべて消えてしまった。残るは乗る目的のカシオペアとかトワイライトエクスプレスなどの乗ることが目的のクルーズトレインだけである。残る北斗星とて同様。最近の風潮として最終日にはマスコミも騒ぎたて,チケットは瞬間蒸発,最後のホームは葬式鉄の人だかり,そしてその列車ゆかりの人々のお涙ちょうだい。昔は無くなる列車を追いかけることが一つのルーチンでもあったが,最近は最後に出かけてもろくな写真も撮れないし,ホームは危険な場になってくるのであまり熱心ではない。年の所為か?

*1 *2 

1:2009年5月2日
終着上野駅は間近 日暮里駅付近を通過する特急あけぼの
直流電気機関車EF64が牽引

2:2006年8月19日
鶯谷駅横を通過する特急あけぼの
この頃は交直両用電気機関車EF81が牽引

2月の東京マラソン応援のため上京を決断したシャベ栗はすかさず競争が高くなっているあけぼのの寝台券にチャレンジして見事に個室をゲット。おまけに,あけぼのの上野発21時16分まで近場で高校の同窓会を設営させて見事な時間つぶしまで演じた。一人個室でビールとタバコと雪景色の至福の時間を過ごしたという。最後は未乗車の北海道江差線まで足を踏み入れ,2泊3日のみちのく一人旅が終わった。

*3  *4  

3、4:2014年2月24日
あけぼの乗車直前の同窓会場
そろそろ上野駅に向かいますのでこの辺で失礼します
発車は21時16分

あけぼの歴史は九州行の寝台特急ほど古くはないものの,昭和45年10月に奥羽線経由の上野青森間の特急としてスタート。その後昭和の時代には三往復まで拡充したが,国鉄民営化ののちは衰退の歴史をたどり,平成9年の秋田新幹線開業で現在の羽越線経由の1往復になってしまった。山形秋田の両新幹線にルートを阻まれながらも,ルートを変えつつ平成の世の四半世紀を走り続けたことはすばらしいこと。

思い出ひとつ。会社の旅行を越後湯沢で開催した時,翌日朝までに秋田に帰らなければならない社員をあけぼのに乗れば十分間に合うと言って無理やり夜の宴会に参加させたことがある。ところが,あけぼのが越後湯沢通過とわかり,上越新幹線で高崎まで戻りそこであけぼのに乗車させることにした。酔客の乗り過ごしが心配されたが,無事高崎で下車できたと聞いてほっとしたものである。

*5 *6 

5:1971年4月4日
まだ東北本線奥羽線経由のころのあけぼの
EF65-1000に引かれて上野駅到着
走り出してから半年経過した頃

6:1973年6月26日
上野駅で発車待ちのあけぼの
まだ20系寝台車時代

●なはみずほさくらあさかぜ春の夢 50回記念句集
●ブルートレイン廃止のニュース蜜柑剥く 丘ふみ游俳倶楽部No53
●卒業式待たず夜汽車に揺られけり 丘ふみ游俳倶楽部No56
●春はあけぼの日本海ラストラン 丘ふみ游俳倶楽部No92


【編集後記】

砂太先生がこの16日でめでたく「傘寿」を迎えられる。
高校を卒業してから三十数年後に再び先生に出会えたこと、先生と俳句について語り合うことができるようになったこと、それが何よりも嬉しい出来事である。
傘寿にして尚も人生に餓えておられる先生の姿はとても愛おしく、いくつになってもそんな男でいたいと思う今日このごろである。

 (文責 葱男)


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