*無法投区/長月*

〜わが祖国は緑なりき〜


●彗星や日向路を駆け星となれ!=喋九厘

民営化で不採算の列車は消えて行きます。
第三セクター鉄道の状況はもっと深刻です。
がんばれ高千穂鉄道!


*秋の蝶句(2)=五六二三齋

先月からさらに3種追加しました。現在101種になりました。今年33種追加しま した。

○タイワンツバメシジミ
小さい瑠璃色の蝶で尻尾が後翅にあります。呼子の名護屋城跡の草むらにいました。
当日はあいにく雨で採集に苦労しました。
●南より渡り来たるや秋の蝶

○タテハモドキ
元々沖縄の蝶です。表の翅には茶色地にいかにも南方系の大きな目玉のような紋があ ります。だんだん北上を始め、ついに佐賀県まで定着しています。佐賀の神崎のクリ ークのある公園で採りました。秋に生まれた成虫が越冬して翌春卵を生みますが、福 岡県では寒くて死んでしまうようです。いずれにしても、地球温暖化のせいで南方の 蝶が本土にまで進出しているようです。
●この惑星(ほし)の行く末知らず秋の蝶

○ルーミスシジミ
アメリカの宣教師のルーミスさんが千葉県の鹿野山で初めて採集したことから、この 名前がついています。日本の蝶で唯一外国人の名前入りの蝶です。山口県の長門峡と いうところで採りました。カシの高い木の梢にいるので9mの長い竿の網で捕まえま した。表は茶色の中に鮮やかなブルーの蝶です。
●秋蝶や梢の様はうつろひて


*2005年 残暑放生会・関門海峡秋景色・琉球の白い風=資料官

【私の秋の三都物語】 (福岡,下関,那覇)
開通後半年も経過してやっと乗った福岡市営地下鉄七隈線
ちょっと小ぶり,短い編成
地元の人なら許せるが,関東のおばさんたちが乗った乗ったと騒ぐのは我慢出来ず,とにかく全線制覇
お客さんもさほどなく,この公営鉄道の行く末を案じております
有名な筥崎宮の放生会(ホウジョウヤ)にはひょっとして初めてではないかと
やうやくこの年になって行ってみた
9月17日の晩が中秋の名月,かたちだけの敬老日の前夜祭でした

下関といえば小学校の社会科見学のコース
関門国道トンネルを歩いて渡った記憶鮮明
ちょうど大河ドラマの壇ノ浦合戦の翌週でした
下関駅は特急・急行がほとんど走らずローカル列車ばかり
長いホームが寂しげでして,学生サラリーマンばかりがうろうろ
初めて知った。下関から新幹線のぞみに乗るには,ローカル線で一度九州に戻り,小倉から乗るんだ。東京に帰るのに反対方向なんて

台風シーズンの沖縄行きは天気予報が心配でしたが,台風17号は首都圏めがけてやって来た
沖縄の予報は快晴で気温30度。案ずるより早く行けと土曜日に出発
おかげさまで那覇の町をゆっくり徘徊する事が出来ました
なんといってもゆいレール(モノレール)が良い
最後部座席にかぶり付きで30分の空中散歩
首里の街めがけて山登りするところが最高であります
常夏の島に1週間もいると頭がぼーとしてしまい
ただいまリハビリ中であります

●敬老日ただ付け足しの帰省かな:博多駅にひかりレイルスターで降り立つ。シャベ栗待ち合わせ30分前,親の顔より小柳栗原高木の顔が先
●七隈線となりは化粧をする人ぞ:ガラガラの薬院大通り
●七隈線なかなか混まんと人の言ふ:福大前
●七隈線都心に秋風運びけり:終着駅橋本
●祭りへは一日券が良しと老駅員:橋本駅
●終着駅山近くして稲穂揺れ:橋本駅地上
●参道の残暑かき分け放生会:地下鉄「箱崎宮前駅」から
●何もかも放生なりき秋の空:筥崎宮本殿付近
●蔓珠沙華線路の脇に赤く揺れ:西鉄大牟田線雑餉隈−井尻間,JR鹿児島本線立体交差。窓から見えた彼岸花
●名月や宝満の山から出しかな:大野城市自宅2階
●壇ノ浦七盛之墓や蝉時雨:下関市赤間神社
●海峡の街ただ一人良夜かな:下関市下関駅前
●名月や潮の流れも照らしをり:下関市
●秋彼岸古きホームに潮の風:JR下関駅山陽線上りホーム
●海峡のトンネルタイムスリップなり:関門鉄道トンネル
●海峡を戻って通過のぞみの人:JR小倉駅18時42分
●朝夕に夏の終わりの忍び寄り:那覇市國際通り
●長き夏ハイビスカスの花ひとつ:沖縄県名護市
●国家とはなんぞ沖縄の夏終わり:沖縄県あちこち
●晴れ那覇の白き街にも秋の風:那覇市首里城
●石畳風駆け抜けて夏終わる:那覇市金城町石畳
【注】首里秋風坂だんだらの石畳(小熊一人)
●おきなわの短き秋をしみじみと:那覇空港朝8時35分

平成17年9月30日
中 楯  潔中 楯  潔


*かごんま日記:" LA JAPONAISE "=スライトリ・マッド

9月23日
*葛の花南洲翁の座禅石
7:00 am 花火が上がる音。決行の合図。お天気も上々だ。今日はセゴドンノエンコの日。明日が西郷隆盛の命日のため、毎年秋分の日にあるというローカルな催し。セゴドンノエンコとは、西郷ドン(ドンは殿が訛った言葉)の遠行、つまり、西郷南洲翁遺跡巡りの遠足である。鹿児島にはあいごと呼ばれる地域の子ども会があり、その活動がとても盛んだ。セゴドンノエンコもあいご関連の行事で、子どもが多く参加する。小学校の先生や父兄の参加も多い。今年は約2000人が歩いた。徳川幕府の封建制度を打破し明治維新を成就させた立役者、西郷隆盛と大久保利通は、下加治屋方限(ほうぎり)の出身。そこには郷中(ごじゅう)と呼ばれた青少年の育成を目的とした組織があった。幼馴染の二人は郷中で切磋琢磨して学び育つ。西郷と大久保は若い頃、毎朝未明に起き、甲突川畔を草牟田まで歩き、無参禅師と座禅石の上で禅修行をしたという。子ども3、4人が座れるくらいの大きな石。150年の時を隔てて、セゴドンらが座ったという石に自分も腰掛けてみる。明治の心が石から伝わって来る感じ。熱きこころだ!

*チェストーの夏蔭城址つゆ草や
現在城山観光ホテルや展望台がある城山の標高が約100メートル。城山ホテルの露天風呂から眺める錦江湾と桜島はまさに絶景である。それよりも20メートルほど高かったという城山裏手の高台に、四方の丘を見下ろすことのできる夏蔭城があった。西南戦争の城山攻防激戦の跡だったのだが、宅地開発で壊され、なくなってしまう。記念碑のみ見晴らしのよい現在の場所に移転された。チェストーとは、かごんま弁で、「行けー!」の意味。江戸時代頃から戦いのときに使われ始め、今もなお、気合を入れるときなどに、ここでは聞かれる言葉。

*秋草や維新の大志語り継ぐ
夏蔭城址から城山の本営地跡に続く尾根に名も知らぬ秋の草が生い茂っていた。各あいご会ののぼりを立てて、人が通るところだけ草の生えていない細い道を歩く。時はさかのぼり、愛弟子たちの暴発を抑えきれず、政府と闘う決意をするセゴドン。明治10年、熊本城攻略に失敗したあと、人吉・宮崎・延岡に転戦し、刀折れ弾丸尽きて行く。官軍の包囲網を突破しながら、彼らの心のふるさと城山に戻ってくるのだ。時は9月、秋風の吹くこの草道を、生き残った約370名の兵士たちはどんな思いで歩いたのだろうか?ふと西南戦争で戦った無名の若者たちのことを思う。また今のように電話や携帯もなかった時代に、どうやって短期間のうちに数万人の意思を結集することができたのだろうかと不思議でならない。おそらく末端の若者たちは一度もそのカリスマの顔すら見たこともなかったのではないか?しかし、そのセゴドンを信じ、命を預けた。セゴドンとともに国の礎を築こうという思いに燃えていたのだ。
城山陥落の前夜23日の夜は、月光の下で、寝起きをしていた洞窟前の広場で、訣別の宴が開かれた。6万の官軍に包囲されていながらも、詩や琵琶歌などを吟じたという。うーむ、何という粋を極めた最期!天を敬い、人を愛し、困難に際しては身命を捧げて義を尽くすこと。そこには小賢しい自我的な考え方や個人主義的な哲学は微塵もない。私たちのような中年族には理解はできても、おそらく実行は不能な考え方、生き方であろう。豊かな時代に生まれ育った現代の日本の若者には理解すら不能ではないか。

*秋彼岸離れ離れのみ魂かな
セゴドンの没年は満49歳。私より若い!自分とセゴドンとは比べようもないが、煩悩には目がくらむ。名声は別に望まないが、お金はそこそこには必要だ。たいそう自我的で個人主義的な自分ではある。富や名声を求めず、個としての幸せよりも後輩たちや国の行く末を思ったセゴドン。先祖代々のお墓は私の住む常盤町の西郷家墓地にあり、おそらく三度目に結婚した正妻の糸さんはそこに眠っているはずだ。二度目の夫人の愛加那さんは当時島から出ることが出来なかったため、奄美に残り眠る。セゴドンは家族とは離れ、南洲神社に烈士2007名とともに眠っている。

Yoake kisetsu yume kibo
Umito hikariga yondeilu

Rising sun will bless my morning with a smile
A magic pearl from the seas
Born in a willow breeze
Loyal friend my guardian angel in the sky
You've served me well all these years
Greeting with both hands trusting with no fears
Till the end

Asaga hohoemikakelu
Itsumo kimi dakewa kokolonotomo
Toikimino omokage shinonde
Amalinimo utsukushii yumenoyo

"LA JAPONAISE "  by FREDDIE MERCURY(1988)より引用


*個人と国家/極私的鑑賞=月下村

●個人主義自由も痛し秋あざみ
日本人が戦後に手渡された個人主義とは、欧米の白人達が彼等の歴史から勝ち取ってきた個人主義ではなく、敗戦によってアメリカから無条件に与えられた子供のおもちゃのような個人主義である。目の前に人参をぶらさげられて、あれもこれも欲しい欲しいとやっと手に入れたおもちゃの数々が、今やゴミの山となって眼前に捨てられている。
●歌も旗も誇りも褪せて雨月なり

●国家とはなんぞ沖縄の夏終わり
沖縄や奄美に芸能の才人(祭神)が次から次と排出して来るには理由があるだろう。Cocco、BIGIN、UA、元ちとせ、喜納昌吉、ネーネーズ、etc。彼等が「癒しの音」を霊媒にしてヤマトンチュに問いかけたい、唄いたい、叫びたい言葉に耳を傾けるのが好きだ。
●一億の命照らさん月の秋

●祖国てふ文字が燃えだす野分かな
身捨つるほどの祖国はありや、と寺山修司は歌った。あの時代に初めて、国家ではなく、個人とは何かを模索しはじめた若者達が現われた。彼等は今、熟年から老年に向かって、マッチ擦るつかのまの人生の再出発を迎える。「国家」が何も変わらないとしても、「個人」を変えるのはその当の本人である。
●このGeneいつも世界に一つだけ

●空打つや国家思ひて秋茜
日本の花があり、日本の歌があり、日本の風景があり、日本人としてののアイデンティティーがあるはずなのだが、戦後のアメリカ文化支配下60年間で、それらの自己同一化できる象徴的な日本人固有の文化はどんどん色褪せていった。しかし、それは完全に消滅した訳でもなく、若い人達の中には自分達日本人固有の精神性を再発見したいという欲求も芽生えているようだ。また一方では、この国の偏狭で小さな精神風土の留まらずに、よりインターナショナルでタフなスピリチュアルを模索する若者達がいる。精神を純化するのか、グローバルに鍛えるのか。それは日本を意識するかしないか、という問題でもあるだろう。
ただ、さまざまな考え方、感じ方を持つ我々日本人皆に共通な意識がもしあるとすれば、それは我らがどこか他の国の属国にはなりたくないという心ではないだろうか?
●水清く稲穂の垂るる国ならむ

●地の上の国の上の月人の上の月
暗黒の宇宙ステーションには、数年に亘ってそこに留まって研究活動を続けているロシア人とアメリカ人がいる。
共同で生活する彼等はおそらく、お互いを否定する事ができないはずだ。もし彼等二人が仲たがいしたとしたらその宇宙ステーション自体の存在の危機は目に見えている。そこには国も宗教的対立も習慣や育って来た環境の違いもたいした問題にはならない。彼等にとってはステーション自体の存続こそが彼等の最重要課題にほかならないのははっきりとしている。なぜなら、彼等を生かしめているのがその宇宙空間に浮かぶ、「大地」の存在そのものだからだ。
●流れ星国の間を隔てなく


■編集後記
二六斎先生からは少し時代感覚がズレたお題だと指摘された「個人」と「国家」にしても、先の「戦争」と「平和」にしても、実のところ私は、今、日本で一番ヴィヴィットなテーマだったんじゃないかと思っていたのでした。
今回の衆院総選挙の本当は争点は、実は郵便局が民営化されるかどうかという事ではなく、大平洋戦争の責任問題、国家としてのプライド、「自衛」に関する日本国憲法のあり方について、小泉純一郎という政治家の覚悟を国民がどう評価しているのか、という事が問われた選挙のように感じていました。「戦争は嫌だけど、アメリカや中国や、ましてや北朝鮮の思うがままに国を左右されたくない。」、というのがおおかたの日本人の考え方ではないでしょうか。
その為には「戦争」とは、また「国家」とは何かを日本人自身がまともに考えなければならない時代が来た、それも政治的問題としてではなく、生活レベルの問題として、という実感がありました。

●マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや=寺山修司
しかし、俳句は最後まで「言葉の石庭」。単なる「石」に「詩」を見い出す事だと先生は仰言るでしょう。
(中島、文責。)

無法投区

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