*無法投区/如月*

〜宇宙清浄・天命無常〜


●夕映えの木立つづけり斎場の遺影のまなざし 深く優しも= 入江葉子

●天の泣く声やと空を見上ぐれば 弧鴨群れ飛ぶ恩師もそこに=前鰤

※原田千善先生に

●聞かせてよ闘ひし後のサキソフォン澄みに澄みたる音色やすらむ=君不去

※森永君に

●いそかぜの長門海岸春も見ず=喋九厘

今回は鉄道ネタです。
3月1日にダイヤ改正があり、往年の名列車達が消えて行きました。
夜行寝台特急『さくら』『あさかぜ』と九州と山陰地方を結んでいた『いそかぜ』の三列車です。A部門三部作にしようかとも思いましたが、さてさてバレバレだったかな?
かつて東京駅から九州をめざしたブルートレインは6本ありましたが、 今回でついに一本だけになりました。
正確には門司まで『はやぶさ&富士』として二つの列車がつながって一本の列車として走り、ここからそれぞれの終着駅、熊本、大分へと向かいます。

これらも九州新幹線博多延伸まで、最長6年の命でしょう。

●虚ろかな桜待たずにさくら散る

*葱男の短連歌三昧=月下村

●薄紅の哀しき色の恋情ぞ おとめごころのさくら/櫻よ
●風吹きつ銀河の果ての悲しびよ 光年の背に二星耀く
●ぐれごぉるざむざの恋に帰幽する プラハの伽藍石に刻まれ
●言の葉を指折り数へ明け染めて けがれもなくにあらたまのあさ
●嵯峨野路の酒舗に隠れしかぐや姫 せめてひととせ現し身のまま
●さびしさに由良の水酌む石叩 飛び散るしぶきひかりみつけん
●さむ風に氷柱となりて鎖(とざ)したる かぎろひもまた明日にほどかむ
●床に臥す彼のひとに添ふ沈丁花 ひがなに交わす一日の春
●はごろもを透かしてゆかし隠れ里 天の使いといざ戯れん
●花の客雅ひとつを携えて やよひのそらに懸けるきざはし
●文机(ふづくえ)の傷に秋思の論を読む  古(いにしへ)人のまほろばの夢
●山笑ふ両手ひろげて深呼吸 ハグするがよし危惧するもなし

*PLAY THE GAME=スライトリ・マッド

Open up your mind and let me step inside
Rest your weary head and let your heart decide
It's so easy when you know the rules
It's so easy all you have to do
is fall in love
Play the game,
Everybody play the game of love

観覧車のスピーカーから流れてくる音楽にユウは耳を傾けた
昔聴いたことのある曲だ
歌詞を思い出し、小さな声で口ずさんでみる
「ユウ、やっぱりいいね。この景色。昔一緒に見たこと憶えてる?」とタカシが言った
「そう、あのとき見たのは夜明け前だったね。とってもきれいだった」
2人は失うものも何もなかったが、飛び込む自信もなかった。若さだけがあった頃だ
大学を出たユウは東京へ行き数年後に結婚、去年夫の転勤で故郷へ戻ってきた
タカシは大学に残り、今では教える立場となっている
先日高校の同窓会が開かれ、30年ぶりの再会をした2人
互いに好意を持っていなかったと言えば嘘になる
しかし友達以上恋人未満のまま、2人はそれぞれの道に分かれ、自分の居場所を見出した
同窓会場でもう1人仲の良かったマサと3人で話がはずんだ。次の日に元気に再会できたことを記念してもう一度会い、3人で観覧車 に乗ろうと約束したのだが、約束の場所に彼は現れなかった
携帯に連絡を入れても通じない
そのときメールが入る「二日酔いでダウン。済まないが2人で楽しんで!マサ」
「しかたない奴だな。2人で乗ろうか」
「そうね。マサには私から報告しとくわ」
狭い観覧車の中に入り扉が閉まったとき、少し居心地の悪さをユウは感じた
海に浮かぶ島を見ていると少し気分がほぐれてくる
「今は幸せなんだね。よかった。僕なんかと一緒になってたらひどい目にあったかも」
「ふふふ、そうだね。タカシもきれいな奥さんに可愛い子どもさん、言うこと無しのはずだよ。昨日見せてくれた写真、素敵だったもの」
ゴンドラが天辺まできたとき、タカシと向かい合わせに座っていたユウの目に次のゴンドラの若い男女が見えた
抱擁するカップル
思わず目を反らし、海を眺める
何も気づかずおしゃべりするタカシの話に相槌を打つユウ

My game of love has just begun
Love runs from my head down to my toes
My love is pumping through my veins
Driving me insane

「ごめん、この前は。でも少し2人に遠慮したのもあったんだよ」と電話のマサ
「それでね。タカシとはいつも冗談ばっかり言い合ってたでしょ。大学卒業する前の頃の随分昔の話なんだけど、タカシと2人であの観覧車乗ったことあるんだ。あの頃はね、2人きりでもタカシに異性感じなかったんだよ。でもこの前乗ったでしょ。変なカップル見たせいかもしれないんだけど。急に・・・」
「ドキドキしたってわけ?」
「私、今の生活に不満があるわけじゃないし、旦那や子どもも一番だと思ってるのに・・」
「ユウちゃん、あのさ、観覧車というものは誰が発明したのか知らないけど、2人で乗る時には、それ相応の信頼関係が必要なんじゃないかな。例えばバイクの後ろに女の子を乗せるようなもんで、男の側からしても物凄く選ぶものなんだよ。車の後部座席に親戚のおばさん乗せるのとは訳が違う。だからその昼間っから愛し合ってたカップルにとって、閉じられた空間に2人で入るってことは、意味のあることなんだよ。ドキドキしないほうがおかしいんじゃないの」
「友達や子どもと観覧車に乗るくらいの気持ちで乗った私が軽率だったのかも・・」
「大丈夫。タカシは女好きだけど、いい奴だし、ジェントルマンだからね。ただし酔っ払っていないときだよ。酔っぱらってる時はただの『寂しがりや』だからね!」
「私さ、自分の気持ちが何だか、わかんなくなっちゃってさ。タカシとのことも友情だよね。男と女の間にも友情って存在するよね」
「まず友情が成立してないと男女間も何もないんじゃないの。恋愛って一般に言われてる関係は友情の中の1パターンであって、友情無しに恋愛はありえないよ。セックスと恋愛は違うと思うんだ」
「そうか。すべては友情から始まるんだね。タカシともマサともこのまま友情という名の愛情関係を保てたら最高かな?」
「うん。今の幸せをわざわざ壊したいって思う人はいないよ。でも男は生涯狩人だと思う。『釣れなくても糸たれているだけで嬉しそうにしてる釣り人』と同じ。結果は問題じゃない。そのポイントには魚はいそうにない。でも大きいのが釣れるのを夢みてるんだよ」

* "Play the Game" by Queen(1980)より引用

*「五六二三斎の高校3年生」=五六二三斎

筑紫丘高校の3年生の時から、35年の月日が流れようとしている。今回から、高 校3年生の時に五六二三斎に何があったかを、このページをお借りしてお話ししてみ たいと思う。皆さんの感じ方と共通のものもあるかもしれないが、一人かけはなれた 高校生活であったかもしれない。思い出す限り、どんな高校生活であったかを語って みることにした。これから、数回に分けてお話しすることにしたい。文中では、敬称 略で話しをすすめていくことをご了解いただきたい。

(1)3年8組の決定
4月の始業式にクラス決定があったのだろう。あまり、その頃の記憶は定かではな い。ただ、進学希望を理系にしたことで、男女クラスに行くことは、ぼぼあきらめて いたのか?淡々たる男子クラス8組がスタートしたように思う。クラス担任は、原田 千善先生であった。原田先生は2年9組の担任で、9組の生徒みんなから、慕われ尊 敬される心やさしい先生で、そういう点では幸運であった。2年9組は、生徒が原田 組と自ら呼び、それを誇りにしていた。私は、隣の10組にいたが、よく小競り合い を繰り返していた。一度、2年9組の大畠徹也を10組の生徒たちが10組の教室に 連れ込んで、可愛がってやってたことがあった。私はそのことには、一切関与してい ないことをお断りしておく。その次の休み時間、何と、藤道也、蜂須賀徹、八尋信明 、溝上澄生をはじめとする原田組9組のつわもの供が10組に殴り込みをかけてきた 。10組のみんなは、うろたえるばかり。終に、詫びを入れて、一件落着となった。
それ以来、2年9組の力は強まるばかり。それに引き換え、あっさり9組の軍門に下 った10組の威信は衰えるばかりであった。その原田組に入れることは、幸運であり 、素直に喜んでいたように思う。しかし、2年10組で、女子生徒からいちばん遠く に離れた生活を経験しただけに、いざ、男子クラス8組のスタートに、内心では少な からず失望感をもってのスタートであっとようにも思う。(この小文をしたためた後 の平成17年2月6日に原田千善先生がご逝去された。新ためて、先生のご冥福をお 祈りしたい。合掌)

(2)インター杯予選始まる
 高校生活3年目、私の目標は何としても陸上競技でインター杯に出場することであ った。2年生の時は、走り高跳びで、どうにか北九州大会までは出場はしたものの、 そこであがってしまって、全くいいところがなかった。それに引き換え、同級生の萩 原辰作、小林俊夫の二人は、1年生の冬に激しい冬期練習を行い、見事に2年生でイ ンター杯出場を決めていた。萩原は110mハードルで、小林は5種競技での出場権 獲得であった。北九州大会は、長崎、佐賀、福岡、大分県の1位〜6位の24名が出 場し、6位までに全国大会の出場権が与えられる。私の記憶が確かなら、2年生の時 に、萩原は5位、小林は4位で出場権を獲得した。特に、小林の場合には、混成競技 には3100点以上であることという、さらに制限のついた出場権をクリアしての出 場であり見事であった。自分も2年生の時の悔しさを晴らしたいという強い思いがあ った。
 陸上競技にのめり込むと、学業成績は落ちる一方であったように思う。1年生、2 年生、3年生と上級になるにつれて、成績は急降下、それでも、470人中100番 以内はキープしていたか?あんまし、記憶にないということは、もっと悪くなってい たのかも?
そんな、生活を続けながら、いよいよ陸上競技シーズン開幕!5月の第4土曜日、 日曜日が福岡地区予選である。走り高跳びは、1m75で2位に、三段跳びも13m4 3で3位になり、県大会出場を決めた。ちなみに、走り高跳びの優勝は、吉松浩二( 筑紫丘2年生)であった。このように、筑紫丘は短距離、フィールド種目上位独占で 、91点をたたき出し地区大会優勝を収めた。前年の福岡地区の新人大会も100点 以上でぶっちぎりの優勝であったので、この成績は予想通りで、あまり嬉しくもない みたいに皆も思っていた。ここで、陸上競技の顧問の先生のことを話さなければなる まい。楠(くす)喜博先生で、当時31〜32才であった。したがって、現在65〜 66才くらいか。明善高校出身で、陸上競技の110mハードル、200mハードルで インター杯出場。その後、福岡教育大学に進み、学生時代も活躍された。卒業後、久 留米の中学校に赴任されたが、筑紫丘の陸上部を強くするという、学校の方針でスカ ウトされて筑紫丘に来られたと聞く。事実、先生の赴任後、インター杯出場を果たし 、陶山芳久先輩という名選手を育てあげられた。

(3)県大会優勝
 陸上競技のインター杯予選は2週間毎に行われる。次は、いよいよ県大会である。
6月の第2週の土、日に平和台陸上競技場で県大会が行われた。私は、走り高跳びは 1m75で3位になり、北九州大会出場権獲得した。福岡県のレベルは高く、当時の 三瀦高校の陸上競技部は隆盛を極めている時であった。激戦であった。例えば、野中 次郎は三段跳びやっと6位で北九州大会へ。勿論、野中は多種目出場の疲れもあった のだろう。110mハードルでは、三瀦高校の下川が絶好調で、萩原と野中にプレッ シャーをかけていた。ところが、決勝で、先行する下川がハードルを倒して、転倒し 、萩原のコース妨害をしてしまった。楠先生の執拗なる抗議のおかげで、下川は失格 、翌日、再レースが行われた。野中が2位、萩原が5位となり、ともに、北九州大会 出場を果たした。2年生の川口健二と吉松浩二は絶好調であった。川口は200mハ ードル優勝。吉松も走り高跳びで2位、走り幅跳びで4位になった。こうして、点数 が入ってくると、三瀦高校との総合得点の勝負は手に汗握る接戦となっていった。
 残りの競技は400mリレーと1600mリレーだけとなっていた。筑紫丘が34点、 三瀦はエース鵤(いかるが)の活躍もむなしく、取りこぼしがあり、29.5点であった 。400mリレーには、両チームともに出場!1600mリレーには出場していない。 陸上競技の点数は、1位6点、2位5点、3位4点、4位3点、5位2点、6位1点 として計算する。三瀦高校はエース鵤がいるので、優勝は間違いない。したがって、 筑紫丘が5位以上であれば、優勝ということになる。すごいリレーとなった。結果は 、筑紫丘4位!したがって、筑紫丘37点、三瀦35.5点で1.5点差で、筑紫丘高校県大 会初優勝と相成った。嬉しかった。皆の努力が報われ、すごいことをやってのけた。
しかし、皆よくやった。点数を取った選手は、小林俊夫、野中次郎、萩原辰作、柳原 芳文(以上3年生)、川口健二、八田光典、吉松浩二(以上2年生)と原孝之(3年 生)の8名である。次の日の新聞には、進学校の筑紫丘が優勝という驚きの記事が小 さいながらも載っていた。(次回へつづく)


■編集後記
倶楽部のみんなが自由に無法投区のスペースを使って自分のやりたい事をやってくれるようになりました。ここは言葉のイーハトーブ。
「世上の得失是非に迷わず鳥鷺馬鹿の言語になずむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。」=松尾芭蕉。
人生、浮き沈みはどなたにも平等に訪れる。浮くも沈むも流れのままに、大河の一滴みな大海に注ぎこむ他はなしと心得よ。
(中島、文責。)

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