*無法投区/卯月*

〜人生、波乱万丈〜


●ドラコンを 狙って獲って 桜咲く=メゴチ

*怒ってみました よろしく=前鰤

●「寸分の狂いしかない」その頭 変な日本語使うな!バカモン!
●ちゃんと読め! スシ スシ スシって 素子は食えるか!
●聞き取れぬ電話の相手・会社名 「何様ですか?」そりゃぁねぇぜ!

*先日やったcolonoscopy(腸内視鏡)の顛末記です=平百合

友人に書いたメールの転用ですが・・・

「事前にサインさせられる承諾書に、「突き破って穴があくことがあるかもしれません」って書いてあった。
それに承諾せないかんかった。
鋏み付きの内視鏡で、疑わしいのが見えたらチョキン、これはなんだ?とおもったら採取,だろうと想像。
広げてみるために入れたガスが残っていて、終わった後おなかがごろごろいってました。
まあ、一回の絶食で何でもやってくれるほうが、楽かなあとおもいます。

これは2回目の挑戦で、最初12月に予定してたときは、腸内洗浄の段階で下剤を吐いて、死ぬ思いして、 検査キャンセルした。
今回もやっぱり下剤で気分が悪くなって、吐いてしまったので夜の8時ごろ電話したら、医者が、別の下剤を試そうということで、夫に24時間営業の店まで行ってもらい、ちょっと飲みやすい クエン酸マグネシウム下剤をひっくり返った胃袋に流し込んで1時間ほどしたら案の定また吐いたけど、同時に水様便がしゃーと出た(汚い話で失礼)。
こんなんでいいのかいなとまた電話したら(夜の11時)、「続けなさい」と言うことで次の朝また(予定どうり)下剤かけて、今度は吐かずにちゃんとしゃーっ・・・。
シャワーかかって身を清め、12時きっちり病院に行ったら、1時間待合室で待たされ、着替えてベッドに横になって心拍パッチ張られ、血圧のパッド巻かれ、機械が脈拍とオシロスコープ示し、静脈の針差し込まれて、待つこと2時間右隣のベッドが戻ってきたのでいよいよかな、と思ったらトイレ行きたくなった。
ホントは朝の9時から水飲んだらいかんやったのに、私、のんでましたん看護婦さんにトイレにいっていいかと聞くと、 不機嫌な顔(「なんやねん、2時間もまたされたら、行きたくなるわい」と、思ったが、ぐっとこらえて「すみません」)。

心拍のパッチから延びた2本のケーブル手に巻きつけて、ベッドを降りたら、看護婦さんに、「終わったらあの部屋に行ってください」と向こうに見える戸口を指さされ。
一人でトイレにいってまたシャーっとすいようべん、やっぱりやってよかった、(検査中に出なくて良かった)と、ほっとして、トイレを出て、とことこ歩いて(ちなみに、このとき真っ裸に手術用の割烹着と自分の靴を履いてるという情けない格好)、言われた部屋に入ると、私のベッドと、心拍測る機械が、先に運ばれていたのでよっこいしょとそのベッドにあがるなり横にならされて、お尻めくられて、静脈注射の管にしゅーしゅーと麻酔薬を注入。
なんかスクリーンに映ってるのを見たような気がしたと思ったら、もう終わって(30分ほど経過してた様です)、元のベッドに寝てて、看護婦さんが私に向かって、経過を話し、それを復唱させられているときに、旦那がきたので、 今言ったことをまた夫に繰り返すよういわれたけど朦朧としてて、とてもそんな気分じゃない(たぶん、麻酔を早くさますための知能運動だったのだと思う)。
着替えだけは自分で何とかやって、歩くときも、旦那のコートの裾をつかんで、雲の上を行くみたい・・・。

結局、ポリープ切って、バイオプシーもするんだとか・・・。
まだ結果は出てません。

*かごんま日記:GUIDE ME HOME=スライトリ・マッド

2005年4月9日(土)
 春の一日。半袖シャツで過ごせるほどの暖かさ。夕方隣家の壁一面に咲くむべの花の香りでいっぱいの屋上で洗濯物を取り入れていたときのこと。何台ものパトカーがサイレンを鳴らして走る。水上坂(みっかんざか)を上り武岡方面へ向かっている。ひっきりなしのサイレンに尋常でない雰囲気を感じる。下におりてニュースをつけながら夕飯の支度をしていると、第一報が流れる。鹿児島市武岡1丁目の防空壕跡とみられる洞窟で男子中学生4人が意識不明の重体という。その最中に、2人死亡のテロップが入り、最後には一酸化炭素中毒で4人とも全員死亡という知らせに変わってしまう。朝「遊びに行ってくるよ」と元気に出かけ、夕方、変わり果てた姿で帰ってくるなんて・・・。まだあどけなさを残した13歳の息子さんを突然亡くされたご家族の気持ちはと考えただけで胸がしめつけられ苦しくなってくる。そう言えば家の近くにも黒い穴をぽっかりとのぞかせた防空壕跡がたくさん残っている。テニス部で仲良しだった中2の男の子たちが、日もうららな休みの日に冒険ごっこでもしていたのか。
 夜いつものように近くの銭湯の温泉へ行く。初めて会うおばあさんだが、服を脱ぎながら、今日の事件の話をしている。背がもともと小さいのに腰がすっかり曲がってしまい身体が二つに折れ曲がっている。ますます小さく見える。顔も身体も胸も足も手もしわだらけ。思うように身体が動かないのか、動作も緩慢だ。年をとるということはこうなるということか。おばあさんは言う。「切ないねえ。なんで私みたいな年寄りが生きてて、あんなこれからという子どもたちが死ぬんだろう。できることなら私が代わりに死んであの子たちを生かしてやりたかったよ。子どもは、宝だよ。」赤の他人である子どもたちの早すぎる死を心から惜しんでいるのだ。このおばあさん。心の美しさでは、ぴかいちではないか。彼女にも若く美しいときがあって、きっと素敵な恋をしたに違いない。自分は体裁や格好ばかり気にしてる感じがして恥ずかしくなる。
 竹やぶの中にその洞窟はあった。竹の精が現れ、4人の魂をネバーランドまで運んでくれたのだ。今頃鼻の頭を黒くしながら4人で仲良く遊んでいるのだろう。魔法の粉を振りかけてもらい、空を鳥のように自由に飛ぶのだ。おなかが空いたら、呪文を唱えて、好物のものを出して食べるのだ。ホームシックにはならない。なぜなら彼らの記憶は完全に消え、永遠の少年として生きるのだから。たくさん仲間もいるよ。さびしくはない。でも、もし、魔法が解けて家に帰りたくなったら、いつでも帰っておいで。みんな待っているから。明日も柔らかな風が竹を揺らす。きらきらした太陽の光が高い天上から笹の葉の間をすり抜け、差し込んでくる。

Now the wind has lost my sail
Now the scent has left my trail
Who will find me, take care and side with me
Guide me back safely to my home
Where I belong, once more

Where is my star in heaven's bough
Where is my strength, I need it now
Who can save me, lead me to my destiny
Guide me back safely to my home
Where I belong, once more

Who will find me, take care and side with me
Guide me back safely to my home
Where I belong, once more

How can I go on?
How can I go on this way…

* "GUIDE ME HOME" by Freddie Mercury ( 1988 )より引用

*「五六二三斎の高校3年生」(3)=五六二三斎

(5) 母の死とインター杯

インター杯出場を決めると、すぐに7月になった。7月には、県選手権大会中部地 区予選などもあった。また、サッカーのクラスマッチもあった。私は、これがごろに ゃんさいかと言われても仕方なし。サッカー部の櫻井に執拗なるタックルに行って、 足を捻挫するというドジな事もやってしまった。それでも、中部地区予選は何と か走り高跳びに出場して、2位となり、事無きを得た。楠先生から、「あんまり、ク ラスマッチで頑張るな!」と言われていただけに、捻挫するとは、情けないことであ った。中部地区予選の成績が悪かったら、インター杯には連れて行けんと 脅されていた。
ところで、五六二三斎の家では、母が病床に伏して、早二年を経過しようとしてい た。高1の時に、リンパ肉腫となり、九大病院の入退院を繰り返し、その頃は、九州 中央病院の内科に入院していた。私の母は私を生んだ時は40才であったから、58 才になっていた。家の家族構成は姉4人に末っ子の私である。男の子を生む一心で、 最後に生まれたのが、私である。こんな、ごろにゃんさいが最後に期待されてた男で は情けないか?まあ、丘ふみ游俳倶楽部でAB両部門で特選一席も取れたし、母も私を生 んでよかったのだろうか?母の病状だが、暑い夏を迎え、決していい状態ではなかった。
 あっという間に7月も終わり、8月1日になった。遂に、インター杯の出発の日を 迎えた。和歌山に向けて、出発である。一行は、顧問の楠先生、それに、人数が多い ので、もう一人体育の先生、白川先生も同行下さることになった(白川先生こそ、 俳句の句評を送って下さっている白川砂太先生である。)。それに、選手9名であった。 選手は主将の小林俊夫、野中次郎、萩原辰作、原孝之(五六二三斎)、森山善彦、柳 原芳文(以上3年生)、川口健二、八田光典、吉松浩司(以上2年生)であった。8 月1日の夜、特急あかつきに乗り込んだ。博多駅で、応援団長、三井義弘をはじめと する応援団の応援歌合唱の中、特急あかつきは、大阪をめざして出発した。蒸し暑い 夏の夜であった。
 翌朝8月2日に、大阪駅着。環状線で、難波をめざし、そこから、和歌山に南海電 鉄を使って、移動した。旅館は、和歌の浦という風光明媚な海岸沿いの旅館が 我々の 宿舎となった。その日の15時より、開会式が行われた。当時の皇太子殿下、美智子 妃をお 迎えして、いよいよ選手入場である。修猷舘高校のバスケットボール部は、三池工業 高校とともに、インター杯出場を決めており、中学の同級生2人とともに、福岡県代 表として、選手入場行進を行った。感激ひとしおであった。自分の力で、入場行進を しているのである。高校時代の目標が達成されたことが嬉しかった。
 その日は練習も少しは行ったような気がする。疲れて、旅館に帰ってきて、いざ食 事である。カレーライスだけであった。まずかった。萩原や野中が腹が減ったと文句 を言い出した。食べ盛りの高校生には、明らかに不足なのである。風呂に入ろうとし ていた頃、原に電話が福岡からかかってきたと知らされた。私は、「家族がテレビ中 継を見たよ!」という他愛無い話で電話してきたのだろうと思っていた。私の1 8才上の長姉であった。「お母さんが、もう今日か明日の命だとい言われている。イ ンター杯出場をあきらめて、帰って来なさい。」と言う。こちらとしては、自分の力 で掴んだインター杯出場!そう簡単にあきらめるわけにはいかない。大分しぶって 考えさせてほしいと言った。私は楠先生に事の内容を話し、インター杯に出場した い旨を述べていた。その時また姉から電話があり、楠先生に代わってほしいと言う 。楠先生が電話に出られ、かなり姉と話しをしておられた。そして、結論が出た。楠先生 は「母の危篤では、原帰るしかない。」との命令を下された。
 それからが大変であった。白川先生に引率をお願いして、大阪まで行くことに なった。頭の中は真っ白である。せっかく掴んだインター杯出場は吹っ飛び、しかも 、母が危篤!まさに、ダブルパンチである。和歌の浦から、和歌山駅までタクシーで 向かった。南海で難波をめざし、大阪駅へ。1970年は、折しも、大阪万博で大阪 駅は大にぎわいの最中であった。深夜に大阪を出発する寝台特急で帰るしかない。だ が、空席はなかった。さくらが、大阪駅に着いた。白川先生は車掌に乗せてくれるよ うにと交渉をしてくださった。車掌は、空席がないの一点張りで、なかなか乗せてく れようとはしない。白川先生は激怒されて、「母が危篤だというのに、何でそんなに 冷たいのか?乗せてあげてくれ!」と車掌につかみかかって頼んでくださった。この 白川先生の姿に感激したのと、母の事を思って、もう涙があふれんばかりに流れ落 ちた。遂に、車掌も折れて、寝台の一等席の空席に案内してくれた。後で、わかった 事だが、その当時の国鉄は国会議員などの要人を乗せるために、必ず空席を持ってい るとの事であった。
 汽車に乗り込んでからは、母が生きていてほしいという気持ちでいっぱいになった 。普段、あまり涙もろい方ではないのに、泣けて泣けて仕方なかった。いつの間にか 、疲れでうとうとしながらいたのであろうか?岡山、広島などガタンと汽車は止まり 、目を覚ましながら、さくらは西へ西へと向かった。枕元に、夢の中で、仏様の顔が 浮かんできた。もう、母は死んでしまったのだろうか?生きていてくれ!と心に念じ ながらの夜行列車の中であった。

●母危篤夏の夜汽車で見し仏[丘ふみ游俳倶楽部*第二号(九月)]は、その時の句 である。

   8月3日の早朝に博多駅に着いた。姉が迎えに来てくれていた。まだ、母は生きて いた。タクシーで、九州中央病院をめざした。病室に着いて驚いた。もう、母は、人 工呼吸器をつけられ、意識もなく、昏睡状態であった。出発の前日、見舞った時との あまりの違いに驚いた。その日は、家で昼寝をしたように思う。良く眠れなかっ たように思える。家の中は、父をはじめ、姉4人、叔母、その他親戚の者の重苦しい 雰囲気に包まれていた。翌朝8月4日未明に、つききりの姉から、母が危篤の知らせ があり、皆、飛び起きて、タクシーを呼んだ。タクシーはなかなかやって来ない。夜 が明けようとする暗がりの中で家族一同はタクシーを待った。ようやく、タクシーが やって来て、九州中央病院をめざした頃には、空も白みかけていた。家は 南大橋なので、タクシーで10分もかからない。九州中央病院の門に着くと、そこに は、泣き崩れた長姉の姿があった。走って、病室をめざした。あんなに、泣いたこと は、これまでに経験したことがない。人が死ぬということを、しかも身内の死を 初めて直に経験した。母の最後の言葉は、手を合わせて 「有難うございます。」だったという。ガンで体を冒され、苦痛に耐えた最期であった が、安らかな死に顔であった。それから、父をはじめ、家での葬儀の段取りが始まった 。積善社に葬儀のお世話を頼んだ。がっくりしている私に、夕方、父がこう言い出し た。「孝之、明日、密葬を行い、翌々日8月7日に、葬式をするので、6日の走り高 跳びに出場してきたらどうか?」とのことであった。私は、考えた末、父の申し出を 受けることにした。
 翌朝の急行で、大阪に向かい、その日の夕方にまた、和歌の浦の旅館に到着した。
同級生の皆は、私に丁寧なお悔やみを言ってくれた。主将の小林も「よくお前帰って きたな。」と言ってくれた。萩原辰作が飯が少なくて、腹が減ってしょうがない!と 相変わらずこぼしていた。その翌日、8月6日朝に走り高跳びの予選が始まった。最 初の高さは1m75である。北九州大会の始めの高さより15cmも高く、私のベスト 記録と同じである。私は、旅の疲れか、体に張りがなく、簡単に3回とも失敗し、イ ンター杯挑戦は終わった。福岡往復の疲れは、試合に大きく影響した。しかし、こう やって全国大会の場に立てたことに大きな意義があったのだ。
 筑紫丘高校は、一人の入賞者も出ずに、全国大会は終わった。ただし、野中次郎が 三段跳びで、ベスト8に残ったようだ。私は、残念ながら皆の試合内容を見ることは できなかっ た。その日の大阪発の夜行に皆は慌ただしく乗り込み、福岡へと帰った。翌日の8月 7日に母の葬式が自宅で行われた。担任の原田千善先生(本年2月ご逝去)や、楠先 生もご参列くださった。白川先生は和歌山に柔道視察のために残られた。
 こうして、五六二三斎のインター杯挑戦は、母の死という忘れられない思い出をク ライマックスに包含して、終わったのであった。(完)

■編集後記
ひとまず第10号の発刊を終えた。
今月からひとり新しい仲間が増えた。メゴチ浜田君である。「ちめんかのや」で御会いして以来、密かに俳句デビューを考えてくれてたのでしょうか? 地面の下で祝入会/歓迎会でもやりたいところだけど東京までは年に1回行けたらいいほうかな? 入鈴、君ちゃん、資料官殿、そこらへんのところよろしく。
話しは変わるけど、春っていつもこんな風だったっけ? 春ってもっとうららかな感じじゃなかったっけ?
なんだか今年の春はシナプスに桜蕊降り、チャカチャカするなあ、そんな風に感じるのは私だけでしょうか? 
なんかほっとできるような話がどこかにないものか?あ〜あまだ春愁だぁ・・・
03/MAY/2005(中島、文責。)
無法投区

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