*無法投区/弥生*

〜さくらさくらひとりぼっちはきらいです〜


●今日明日と 今開かんとふくらみつ 短き命知るよしも無く=前鰤

*鉄道写真集出版=栗原&中楯

(1枚高木さんにも手伝ってもらった)
 4月に高校時代の鉄道写真仲間と 「鉄道写真集」を発行することになりました。これは「海鳥社」という地元の出版社から 出版する「九州の蒸気機関車」(鉄道少年探偵団編)という写真集です。当時の鉄道写真 仲間8人(修猷館1名,城南2名,筑紫丘2名,大濠1名,その他2名)でまとめたもの で,PART−1としてまず「九州編」を,PART−2として5月に「西日本編」を出 す予定です。
【注】海鳥社は栗原が「九州・鉄道の旅」「九州・花の旅」を出した出版社です。
定価2415円ですが,B5版で130P,写真点数200枚ほどの,これまでにない写 真集となっています。この中で栗原&中楯で約100点ほどの写真を出しています。
『あの昭和40年代の鉄道のある風景が、モノクロ写真で今ここに甦る。遥か昔の同級生 が山笠の夜35年ぶりに再結集し,作り上げた懐かしの写真集。仲間たちと蒸気機関車た ちを追い掛けた日々…少年の頃…』
蒸気機関車だけではなく,国鉄の特急電車,西鉄大牟田線,廃止になった路面電車で福岡 市内線,北九州線,大分別大電車なども含まれています。
また,4月16日(土)〜30日(土)まで博多駅前の交通センタービルの紀伊國屋書店 福岡店で,海鳥社20周年記念フェアの記念企画としてパネル展にこの写真集の写真パネ ルを22枚展示しますので,お近くの方,そばまで来られた方はどうぞお越しください。
私ども「これで一儲け」などは,まったく考えておりませんし,その可能性もありそうに ないため,是非お買い求めをお願い申しあげます。
栗原隆司&中楯潔

*BIJOU = スライトリ・マッド

ある日ユウはタカシに「ドライブしないか?」と誘われた
タカシからのメールに1.スカートはくな2.ヒール厳禁3.軽装のこと4.何も持ってくるなとあった
「何なの?せっかくお洒落しようと思ってたのに」と何を着ていくか悩んだ挙句、結局いつもの白シャツ、パンツルックにスニーカーのユウ
同窓会で30年ぶりに出会ってから、タカシとユウは磁石のN極とS極のように引かれ合う
今いるのは磁場の中だ
とは言っても、若さに任せて無茶をするような歳はとうに過ぎていた
一緒にいると何かほっとするような感覚だ
心を許せる親友の延長線上で、それがたまたま男と女だったというだけのような・・
このまま何も起こらず、今まで通りの生活が続くだろう
1人の友達にすぎず、何事も起こるはずもないのだ
「まるで、ミステリーツアーね。今日の行き先は?」
「さあ、着いてのお楽しみだよ」
取り留めのない話をして、しばらく、車に揺られている間、ユウは不覚にも眠ってしまう
「ユウ、起きて!ここからはしばらく歩きだよ」
「おはよ。ここどこ?」
「ここはね、高隈。今から登るのは標高870くらいの山だよ。海沿いに来たんだ。あんまり気持ち良さそうに寝てたから、起こさなかったけど凄くいい景色だった。夕方までにはちゃんとユウを家まで送り届けるよ」
中腹の登山口に車を停め2人は歩き始める
ひんやりとした木陰やくねくねとした山道を、小1時間ほど歩くと突然、視界が開けた
風が下から吹き上げてくる
「うわあ、すごい!」
「ほら、君に見せたかったのはここさ。この山何度か登ったことあるんだけど、一度君を連れて来たかったんだ。あんまり知られてない穴場だよ。取って置きの秘密の場所さ」
「寒くない?これ着たら?」とタカシは自分が着ていた上着を脱ぎユウの肩にかけてやる
「ありがとう、でもタカシは?」手の出てこない袖をぶらぶらさせながらユウは言った
にこにこと微笑むタカシ
岩場の崖で、大小のさまざまな形の岩がごつごつと組み合わさっている
そして眼前には少し霞がかかった空ときらきら光っている下界
遠い向こうには海、島、対岸の半島も見える
思わず、ため息の出るような光景だ
この偉大な自然の中でなんと人間はちっぽけな存在だろう
幸せな家庭がありながら人を好きになるなんて身勝手だという謗りは免れ得ないに決まっている
しかし2人は今この瞬間確実に恋に落ちた
若き日の美しい肉体もいつかは滅びる
塵の芥となって宇宙をさまようのだ
肉体より確かなものは想いだ
タカシは慣れたように先に進む
「ユウこっちにおいで」差し伸べられた手に躊躇しながら足場の悪い場所をよろけそうになるユウ
タカシの両腕がユウの上半身をつかんだ
今この空に一番近い場所にいるのは、たった2人だけ
後ろから抱きすくめられ立ち尽くす
空がぐるぐる回っている
ユウの頭に家族の面影が浮かんだが、フェイドアウトする
小学生の娘が学校から帰ってきてピンポンピンポンとチャイムを鳴らし続ける
「はい、お母さん」と水仙の小さな花束を渡してくれた、そんなこともあった・・
しかしユウにはこの一瞬が続くのなら悪魔に魂を奪われてもいいとさえ思えた
背中に感じるタカシの体のぬくもり
「ユウ、僕はいつまでもこうしていたい」
「バカね。そんなことできるわけないでしょ」

2人で大きな岩の上に並び腰を下ろす
タカシは背伸びをして岩の上に寝転がる
その頭をユウは膝にのせる
タカシの髪の毛をくしゃくしゃにしながら
「あーあ、なんで人を好きになるんだろ」とつぶやくユウ
少年のような笑みを浮かべながらタカシがポケットに入れているi-Podのヘッドホンをユウの耳につけようとするが上手くいかない
「やだ。くすぐったい」
「これ、聴いてごらん。『bijou』って・・宝物って意味だってね。ユウはね、僕の『bijou』だ」
ヘッドホンからギターの泣いているような音色が続いた後、静かで美しいボーカルが響く
とても哀しい歌だ
涙が一筋流れ、それがタカシの頬を打った
「ユウ、今度は言うよ。待っててくれって。でもいつまで待たせなければならないのか、僕にはわからないんだ。しがらみが全て消えるときかな?そんな日はもしかしたら来ないのかもしれないけれど、僕はずっとユウのこと想い続けていたいんだよ。そんなこと迷惑かい?」
ユウはかぶりを振り、手の甲でタカシの頬にそっと触れた

You and me, we are destined
You'll agree
To spend the rest of our lives with each other
The rest of our days like two lovers
For ever- yeah- for ever
My bijou…

* "BIJOU" (1991) by Queen より引用

*「五六二三斎の高校3年生」(2)=五六二三斎

(4)北九州大会の火ぶた切られる
 6月の第4土曜日、日曜日がいよいよ北九州大会であった。長崎県、佐賀県、福岡 県、大分県の4県の各6選手24名による戦いで、毎年、会場が変わる。その年は、 大分市営陸上競技場が戦いの場所であった。金曜日の午前中に、楠先生の車−軽自動 車で行く者と汽車で行く者に別れて、いざ大分へと向かった。梅雨の真只中で、雨が しとしとと降っていた。私は楠先生の車に乗せてもらって、大分へ向かった。コース は、甘木、日田を通り、湯布院を通って、別府に行き、大分に向かうコースだった。
旅館は、大分陸協が世話してくれた繁華街の旅館であった。しかし、何と、いわゆる 温泉マークの連れ込みホテルであった。しかも、主人が留守で閉まっていた。楠先生 は烈火のごとく怒り、すぐに宿を変えると言い出した。そんな今から空いている旅館 などあるのか?みんな不安になってきた。楠先生は、公衆電話であちこち電話して、 新しい旅館を探した。幸いなことに、西大分の温泉センターを探し出し、そこが急遽 の我々の旅館となった。ここから、大分市の陸上競技場は遠くて、練習に行くには不 便であった。近くの大分女子高校のグランドを借りて、練習を行った。雨は止まない 。本格的な練習はできず、軽い調整で済ませることになった。私の走り高跳びは土曜 日の第一日目に行われる。緊張していたのか?落ち着いていたのか?よく思い出せな い。高橋英樹が主演のNHKの「鞍馬天狗」が夜放送されていたことは覚えている。
当時、五六二三斎は、自分で言うのもおかしいが、高橋英樹に似ていると言われてい た。確か、小林俊夫がその時に、「原はほんと高橋英樹に似とうね〜。」と言ってく れたような覚えがある。その晩、果たしてよく寝れたか?旅の疲れで、ぐっすり眠っ たようであった。
 土曜日の朝が来た。車で競技場に向かう者と西大分駅から汽車で向かう者に別れて 、いざ競技場へ向かった。私は高跳びが朝一番に始まるので、車組になった。後輩の 吉松浩二も高跳びに出るので、車組であったろう。その日は、朝から雨がどしゃぶり 状態だった。こんな中での陸上競技の試合は初めてのことであった。走り高跳びの最 初の高さは1m60から。どしゃぶりで、アンツーカーのグランドはもう水を吸い込 むこともできずに、泥沼状態であった。しかし、競技はやらなければならない。1m 60を威勢よく「パスしま〜す!」と言う者が多かった。これは、相手を威圧するよ い方法なのだ。昨年、唐津でこれをやられて、すっかり気落ちしたことを思い出した 。私も大きな声で「パスしま〜す!」と言った。次の1m65はそろそろ跳ばなけれ ばならない。こんな泥沼状態では、何が起きるかわからないので、記録なしになった ら終わりだからである。しかし、雨は益々強くなり、状態はどんどん悪くなっていた 。何と、1回目、見事にズルリと滑って、踏み切りができなかった。2回目もまたし ても、滑って踏み切れない。3回目にバーを落としたら、記録なしでもうおしまいで ある。遠くで見ていたキャプテンの小林俊夫は、「原がまたあがっとう!」今年も無 理だと思ったそうである。その様子を見ておられた楠先生が、土を杵で固めて跳ぶよ うにと指示を出してくれた。吉松が土を丁寧に固めてくれた。そのおかげで、3回目 、どうにかクリアすることができた。次の高さは1m70。一回目は失敗したが、2 回目になんとかクリアした。もう、この状態でかなりの失敗者が出て、次の高さに行 ける選手は24人中半分くらいになっていたろう。私は、次の1m75が勝負だと思 った。全神経、全知全能をこの1回目にかけた。吉松に杵でグランドをよ〜く固めて もらった。見事、1回目に楽々クリアした。嬉しかった!1m75は威勢よく「パス しま〜す!」と叫んでいた他の県の有力選手たちも軒並み失敗しはじめた。吉松も1 回目失敗した。私は、もうこの高さをクリアしたから、吉松のために、杵で力一杯、 土をたたいて固めてやった。見事2回目成功!二人とも、1m75をクリアした。こ の高さをクリアした者は5人になっていて、私は遂に、インター杯出場をこの時点で 決定していた。さあ、これからは、1m80の勝負!優勝への争いが待っていた。し かし、そこが五六二三斎の甘いところか!インター杯出場を決めた時点で、少し戦意 が失われていたように思える。それに引き換え、後輩の吉松は偉かった。1m80を 一回目でクリアした。私は、後は全くいいところがなく、三回とも失敗してしまった 。結局1m80をクリアした者2人で、1m85は全員失敗。勝負は終わった。何と、 吉松浩二が優勝とあいなった。私は1m75を一回目でクリアしたから、3位だろう とふんでいた。ところが、無効試技が一番多かった関係から、1m75をクリアした 者の中で最下位の5位であった。しかし、こうして、私のインター杯出場は決定した のである。
 筑紫丘高校は着々と点数を重ねていった、110mジュニアハードル、走り幅跳び と点数を稼いでいった。2日目には、200mハードルで川口健二が優勝。三段跳び では、野中次郎が優勝。結局、福岡県大会と同じ点37点を獲得して、ぶっちぎりの 優勝であった。ちなみに、2位は佐久間を擁する唐津東高校で28点であった。この 大会で、今でも有名な選手と言えば、宗茂、宗猛の双児がいた。そのころから、宗茂 の方が少し早かったようだ。1500mで大会記録で優勝した。翌日の新聞は、また しても、筑紫丘優勝の記事が少し大きく書かれていて、にんまりしたことであった。 家に帰り着き、父が殊の外喜んだようだった。(次回へ続く)


■編集後記
個人的な話題で恐縮ですが、この4月1〜4日に『櫻舞ひ散る・同行二人展』というイベントを行った。
同行二人とは友人の「染谷みち子」さんとのことでもあり、一般的には民主党の菅さんが四国遍路をともにした空海のことでもある。
また、書の題材にした「山尾三省」氏と私。もしくは「埴谷雄高」氏と私のことでもある。
展覧会の前に、故三省さんの奥様、「山尾春美」さんにお手紙を出して展覧会のいきさつを説明したのだが、嬉しい事に彼女からも手紙でお返事を頂戴した。その中の一説を記します。
「屋久島は、どうもソメイヨシノなどの櫻には、気候が合わないらしくあまりきれいにさきませんし、時期もなぜかすごく遅いのです。華麗で豪華な櫻の花を楽しむことができないのですが、そのかわり山櫻の花がきれいです。照葉樹林の山が新芽を吹いて盛りあがりそのあちこちに山櫻の花が見える美しい・・・屋久島の春のひとつの風景です。」
展覧会の時に山尾三省氏に捧ぐ、と題し出品した軸を春美さんにもらって頂く事にしました。
(中島、文責。)

『南光屋久神名備老人』

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