*無法投区/紅染月*

〜遠距離のそうしそうあい実る秋〜


*竹内愛子先生、米寿の会の後に=砂太

 ワルツの曲が流れ、体育館ではフォークダンスの授業が行われていた。
竹内先生(すでに、バーチャン、と呼ばれていたことの不思議さには、気が付かなかったが、)のパートナーにに選ばれて、気分良くステップを踏み、授業は終わる。
近づいてきた先生に、「白川君、何か淋しいことでも有るの?」と聞かれた。
何と答えたかは定かではないが、とても暖かなものを感じたのは事実である。四十年を過ぎた今でもはっきりそのことを覚えているくらいに。
 昨日、『竹内先生、米寿の祝賀会』が小倉で行われた。参加者は福岡学芸大学、小倉分校四、五、六期生(昭和三十一年〜三十三年卒)である。
すでに還暦を過ぎた者、もう少しで手の届く者達三十名ばかりの会であった。
 先生の元気なお顔が良かった。歌も、身振り、手振りも良かった。ただお顔の色が少しばかり悪かったのが気になった。(当日風邪気味だった。)
同窓生諸君の挨拶も良かった。すでに退職している者、同窓生で結婚している者(相手が私の親友であったのは驚き)、相変わらず元気な校長先生、校長になれなかったものの嘆き、まったくの平教員で終わろうとする者、皆明るかった。
バァチャンの挨拶の中で、少しばかりくぐもった声があったぐらいが、涙らしいものであった。
 宴会は二時間、四十年の歳月が飛び去りたちまち少年時代に還った。最後の万歳の一言に、「四十年前、あの北方の校舎で学んだ二年間、種々とお教えを戴いたが、四十年過ぎた本日、再び貴重な教訓を下さった。
それは美しく老いる。健やかに老いるということの大切さである。バァチャン有難う、卒寿までも白寿までも元気で生きて下さい。」とあった。
私の前の二人の先輩が、同感とでもいいたげにうなずいておられたのが、印象的であった。
 二次会も計画され、実行されたが当然、竹内先生の御参加はなかった。それでも皆遅くなってしまった。

師は米寿弟還暦や五月晴れ  砂太

(*葱註:以前からお預かりしていたエッセイですが、残り2篇で季節が前後してしまいました。編集者の不手際です。砂太先生、読者の皆様には申し訳ありません。)  


*「百鳥」 初登場!=葱男

百鳥
半年前から会員となった俳句結社「百鳥」に投句したものが、この10月号に初めて掲載された。

●ほの明かり初折裏に蛍かな
●大守宮壁から壁へ飛び移る
●白シャツと渾名せし師の三回忌
●庭涼し条幅の書の余白かな

特に「蛍」句が主宰(大串章氏)に選ばれたのはすごく嬉しかった。
句会では評判の悪い、難解な句だと一蹴されたものだったのだ。

一時、俳句の深淵を覗きこんで、そのあまりの底なしの深さにびびって句を作るのが恐ろしくなってしまったのだが、最近、なんだかやっと以前のように句作が楽しくなってきた。

この変わり様は一体なんなんだろう?
自分という人間のあまりの浅薄さに気づいて、今度はそのほうが恐ろしい。
そうは言っても、もう取り返しのつくような事ではありません、のですが・・・。
仮にも『丘ふみ游俳倶楽部』部長たるものがなんたることでさんたるちーや!
誰にともなく、ごめんちゃい(>_<)なのである。


*紅葉山新夕張に標(しるべ)朽ち=喋九厘

夕張線紅葉山駅が石勝線新夕張駅に改称して幾歳月。駅前に残された旧駅名標が朽ち果てて行く…
次駅の楓駅も廃止されて久しい。大夕張炭田の名残りは今…
九月は北海道まで旅立てず、筑豊を始め福岡近郊の廃線跡を巡る事となる。

時は彼岸、彼岸花と一緒の道中であった。室木線、香月線、宮田線、添田線、上山田線、勝田線、矢部線に佐賀線と。 棚田に河原に里山に真っ赤な彼岸花の行列が迎えてくれる。

彼岸の中日の夕刻…上山田線熊ヶ畑駅跡には子供たちの溢れる笑顔。
右手の棚田には天へ昇る彼岸花が咲き誇る。
地元の人には毎年見慣れた風景なのだろう。
誰もいない。一人占め。

熊ヶ畑宙(そら)へ曼陀羅彼岸花
彼岸花棚田なぞりて彼岸花

彼岸花稲

添付は毎度画質悪しの携帯カメラの熊ヶ畑彼岸花とベランダ鉢植え稲であります。

この稲は7月の撮影地の田んぼで、間引かれ畦に打ち捨てられておりました。
持ち帰り育てましたら、見事出穂し実りました。
無農薬に有機栽培の天然モノです。稲の生命力もなかなかであります。
10月1日現在世間の稲たちには遅れをとっていますが、果たして無事収穫の時を迎える事が出来ますか?


*2006年  残暑残暑のかごんま紀行=資料官

●近江路や横一線の夏の雲
(東海道新幹線下り名古屋−京都間は飽きない。木曽川を渡り関が原を通過,短いトンネルを抜けると滋賀県。伊吹山が迫り,米原を過ぎると琵琶湖の姿が遠くに見える。近江鉄道の線路と交差を続け,彦根城を後追い,次第に湖の向こうの比良山やがて比叡山が近づく。湖のそばは走らないが近江路を走る実感をひしひし。やがて,一瞬の瀬田の唐橋を見逃さず,音羽山のトンネルに入れば京都は間近である。)

●福岡をひょいと素通り敬老日
(福岡経由の鹿児島行き。先輩との懇親会,ちゅん部長の展示会や栗原写真展を見て周り,敬老日間近の自宅には腰をすえて滞在した感なし。やがてやってくる台風13号が敬老の日の贈り物か。折れた庭木の後片付けをした両親に「老骨に鞭打つ台風一過かな」の句をプレゼントした。)

●秋団扇離さず九州新幹線
(9月になったとはいえ残暑厳しい南九州。旅行かばんに団扇は欠かせない。)

●つばめとは名ばかりもぐら新幹線
(昔の鹿児島本線を考えて,右が海ゆえ右の席なんて思って乗り込んだけど,海が見えるのは一瞬,川を渡るのも一瞬,平野を走るのはつかの間。だけど,やっちろからノンストップに乗ればわずか30分強で鹿児島着。このスピードはすばらしい。)


鹿児島中央駅

●終点の鹿児島中央残暑あり
(西鹿児島がなくなり鹿児島中央駅登場,もう定着したんですね。駅のコンコースから長い階段をてくてく下って行くと市電の乗り場が目の前です。バスも中央駅経由の表示が板についてしまい,あの三角屋根の西鹿児島駅は過去のものになってしまいました。)

●秋暁や路面電車の曲がる音
(悲しいかな,年とともに朝早く目が覚める,慣れぬ旅先では特に目覚まし時計が不要なほど。そろそろ外が明るくなりそうな頃始発の市電が高見馬場の交差点を曲がっていく音が聞こえた。)

●秋驟雨西郷さんを丸洗い


黎明館

●秋雨の城山遥か市電行く
(早起きをして市内を散策。照国神社で島津斉彬公の銅像を拝み,城山下の西郷ドンにご挨拶し,黎明館(旧制七校あと)を回ってホテルに戻った。黎明館にはありました,北辰斜めにさす所の銅像が。次々やって来る市電がカラフルになりました。)

●石橋の無き甲突川に秋の風
(かって,甲突川には5つのすばらしい石橋が架かっており,鹿児島勤務時代の2年間毎日そのひとつ高麗橋を渡って通勤した。平成5年8月6日の集中豪雨で2つの橋が流失し,残る3つの橋も市民の反対を押し切り,市内の公園に移設され,甲突川から石橋が消えた。久しぶりの高麗橋(残った3つのうちのひとつ)は二車線となり渋滞をすることもなく車は走り抜けた。)

●休暇明け市電乗り場の長い列
(ホテルの食堂から高見馬場の電停が見下ろせる。ああもう新学期,狭い電停には女学生の姿があふれていた。喋くり好みのシーン!!!!!!!)


櫻島

●桜島眺めて冷やし中華喰ふ
(かって空港があった鴨池には県庁が移転しその14階には展望コーナーと展望レストランが出来ていた。高い展望レストランは敬遠して1階の大衆的な食堂で先ほど見てきた桜島の残像とともに冷やし中華を食べた。)

●天も地も燃ゆる鹿児島秋はじめ
(鹿児島は秋なのに炎天下,そうして活火山をそばに抱くゆえ街中の銭湯は温泉なのです。今回はホテルそばの「霧島温泉(西千石町)」にすら入る時間もなく素通りでしたが,燃ゆるかごんまを満喫したのでした。)


天門館

●風抜けて天文館も秋はじめ
(残暑厳しい鹿児島でしたが,夜は秋を感ずる風が流れる。焼酎のあとの鹿児島ラーメンを求めて天文館の賑わいの中を徘徊した。さすがにこってりラーメンが体にしっかりしがみ付いているようです。【注】「こむらさき」「くろいわ」「のり一」「豚とろ」)

●ビール干す間もなくつばめ着きにけり
(長かった仕事も終わりまたもや九州新幹線つばめの人。仕事帰りは缶ビール片手にゆっくり車内で一杯というのが定番ですが,やっちろまでわずか30分強,ゆっくり飲んではおられまっせん。ましてやホームには売店なく,車内も売店なし。改札付近まで戻って缶ビールを買い込み,乗車とともにあわてて飲み干し,新八代ではそそくさホームの向かいのリレーつばめに乗り換えたのでした。)

●夢一夜かごんま紀行残暑かな
(夢のような鹿児島の一週間は過ぎ,再び新幹線の人。鹿児島から東京まで通しで乗る人はさほどいないが,7時間半で東京まで着くこの速さは隔世の感ひしひし。かって,一番人気の寝台特急はやぶさは西鹿児島から東京まで21時間かかった。1/3も短縮しているのに・・・・・・)

●星好きも汽車好きもいて虫の声
(昔々,かろうじて見えるかもしれない南十字星とD51+D51の重連を追いかけて,矢岳の山に出張った高校生がいたらしい。季節は異なるかもしれないが,夜汽車のドラフトと流れ星に囲まれて至福の時を過ごしたのではなかろうか。何年たっても同じ夢をまた見る。)


かごんま日記:"WOMAN" = スライトリ・マッド

2006年9月30日

Woman, I can hardly express
My mixed emotions and my thoughtlessness
After all I'm forever in your debt
And woman, I will try to express
My inner feeling and thankfulness
For showing me the meaning of success.

●みずすみてたおやかなるやをみなたち
朝のNHKの連続ドラマ「純情きらり」が今日終了した。ジャズをこよなく愛したヒロインの桜子が、音楽と人々の心の中に生き続けるという設定ではあるものの、病気を患い亡くなるという、NHKらしからぬ意外な結末に、驚いたのは、私だけ?声がしゃがれ、病人っぽい感じが出てきて、なかなかうまいではないか!でも、結核ってもっと咳が出ないのかな??顔はメークでやつれた感じを出してはいるが、アップの手はやけにきれいでみずみずしい・・・ん???戦後の物のない時代に、あんなに小ぎれいに着物を着ている人たちがいたのかな????しかし、やっぱりもらい泣きしてしまうのだ。涙もろいタチなのだ。

先日見た映画「佐賀のがばいばあちゃん」でも、ハンカチが離せなかった。がばい(=すごい)ばあちゃん役を演じた吉行和子がいい。彼女にますます親近感を感じるようになったのは、実生活で俳句を嗜む女優さんだということを知ってからかもしれない。映画は昭和30年代の古き佳き時代を舞台にしていた。随所に出てくる、どこかでみたような風景。貧しさの中にあっても凛とした心の豊かさがある。かあちゃん・・とべそをかいてた少年もよかったな。笑って泣けた。

「純情きらり」の主役を演じた宮崎あおいは、邦画「ナナ」(2006)にも中島美嘉と共演していた。マンガの世界を下敷きにした若者たちの恋、失恋、自立、友情がテーマ。中島美嘉は黒のイメージ。ミニスカが似合うクールなロックシンガー。宮崎あおいは色にたとえるならばピンク色。ぶりっ子ギャルからちょっぴり大人の女性へと成長していく過程を好演していた。秘めたる才能を見出されたのか、宮崎は、2008年1月スタートの大河ドラマ「篤姫」の主演を務める予定とのこと。大河ドラマ史上、最年少(放送開始時に22歳)での主演らしい。原作は宮尾登美子の「天璋院篤姫」。脚本は田渕久美子。がんばれ、女性たち!

Woman, I know you understand
The little child inside the man
Please remember my life is in your hands
And woman, hold me close to your heart
However distant don't keep us apart
After all it is written in the stars

●海の秋一子のいのち育みて
篤姫(1835―1883)は、薩摩・島津家の分家に生まれながら、島津斉彬の養女となり、江戸幕府の第13代将軍・徳川家定の正室となった女性である。しかし病弱だった家定は嫁いでからたったの1年半後に亡くなる。したがって篤姫はわずか23歳で未亡人になってしまうのだ。彼女は落飾して「天璋院」と号した。落飾とは身分の高い人物が剃髪し出家することだ。現在の指宿市の今和泉小学校内に島津武家屋敷跡が残されているらしい。今和泉家島津忠剛の長女であった篤姫は幼少名を一子(かつこ)と言った。一子は幼い頃に桜島を眺めながら錦江湾の浜辺で遊び、利発で男勝りな一面もあったと言われている。後年、嫁である和宮との確執や、将軍の跡継ぎをめぐる幕府内の抗争に巻き込まれ、また皮肉なことに篤姫の故郷である薩摩を中心とした反幕府運動が激化し、苦労も多かったようだ。がしかし西郷隆盛らの新政府軍に働きかけ、無血開城の実現に、大きな役割を果たしたというから、彼女も鹿児島は指宿の生んだ偉人の一人だろう。篤姫は大奥を預かるトップとして、明治維新の動乱の中、徳川家と、そして日本のために力を尽くした女性なのだ。大河ドラマ番組プロデューサーの佐野元彦氏は次のように述べている。「もし、江戸城に薩摩藩出身の篤姫がいなかったら、討幕軍は、江戸城を総攻撃した可能性があったのでは。もしそうなっていたならば、幕末はさらなる長い大混乱に陥ったのでは ・・・ そう思えてならないのです。」

土地柄が、人間を育てると言われるが、まさに天璋院篤姫のおおらかでかつ繊細さを持ったパーソナリティは、さつまいまいずみの海が育んだものかもしれない。

Woman, please let me explain
I never meant to cause you sorrow or pain
So let me tell you again and again and again
I love you, yeah yeah
Now and forever
I love you, yeah yeah
Now and forever
I love you, yeah yeah
Now and forever

*"WOMAN" by JOHN LENNON (1980) より引用


■編集後記
やはり倶楽部は「丘ふみ」が一番楽しい。
自分が編集やってるから、というだけでもなく、今回、たまたま我が拙句が一席に選ばれたたから、という訳でもない。
「め組」も楽しいけど、「丘ふみ」にはもっと違った心地よい気楽さがある。
もう、気心が知れたメンバーばかりだと、いうこともあるかもしれないだろう。投句した句の評価などにもそんなに一喜一憂しないでいられる。

それはやはり、この場所が「同窓会」的な性格を色濃く持っているからではないだろうか?
俳句を上手くなろうと思って入会した人のほうが少ないかもしれない。
しかし、それにしては皆さん確実に、それぞれに俳句を自分のものにしてきつつあるのではないかと思っている。
前鰤さんのように、先月やっと「歳事記」なるものを購入したが、まだ忙しくて一度もページを開いたことがない、といような、豪傑もいるが、それはそれでなんだか面白いなあ、って感じる今日、この頃である。
なんにしても俳句は愉しいのが一番である。(句会はもっと楽しいよ!) (中島、文責。)

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