*無法投区/睦月*

〜鳥雲にここはかつての遊び場所〜


*褌先生=砂太【特別寄稿】

 その日は、相当に暑い夏の始りの一日であったが、大の男が褌一枚になる程のことではなかった。
 私が中学三年、昭和二十四年の六月、京都郡中学校対抗体育大会が行橋中学のグラウンドで行われていた。私達、犀城中学バレー部は、監督のK先生にしっかりと鍛われ、郡内では屈指のチームに育っていた。
 一回戦楽勝、二回戦にも勝って、決勝戦に進んだ。試合前の練習時間になったが先生が見あたらない。その日は総合体育大会の形式で行われており、隣接のグラウンドでは教員の部の陸上競技が始っていた。
K先生が走り高跳びにエントリーしていることを思い出した。部員二十名、全員で応援にかけつける。バーの高さは一米二十糎、担当教科英語、柔道三田段のK先生、猛然といどんだが一回目失敗、二回目短パン姿になって成功、続いて一米二十五糎、これはランニング姿から上半身裸体になって成功、バーは一米三十糎に上がった。この時点で勝ち残っていた選手は、同じ中学のT先生と二名のみであった。
現在のレベルで考えると、一米二十五糎をクリアーした先生が郡内で二名だけとは、ちょっと信じられないことだが、(今私が勤務している高校の正課体育でも七割の生徒がクリアーしている)事実二名しか残っていなかった。
一回目、二回目二人共失敗、三回目の試技になって、K先生、やおら立ち上がると短パンを脱ぎ始めた。夢中になると何をしでかすかわからないK先生、「さあ、始った」と目を外らしてしまったが、「ワッハハ、・・・、これで軽くなったぞー」と大声、そこには越中褌一枚、仁王立ちの先生の姿が有った。呆気に取られるとはこのことであろう、声も出ない私達であった。それにしても、中学の英語の教師が越中褌一枚の姿で陸上競技の走り高跳びに挑戦する、それも生徒達の眼前で、である。何と楽しく、自由な時代であったことか。
結果は、必死の身辺整理の甲斐なく、バーは落ちてしまった。残念だったが。が心の中の隅の方から、「やれやれ」という安堵感が広がって来たのも事実だった。もしこの高さを成功したらどうなるのであろうか、何しろ先生は、もう身辺整理の仕様がないところまで来ているのであるから。

 T先生が優勝した。私達の優勝戦はそれから始り、これも又、宿敵勝山中学に敗れた。嘘のようで本当の楽しい思い出である。


*ひら百合@イリノイ=ひら百合

 去年の暮れシカゴの日本食スーパーマーケット内にあ る本屋で買った「俳句的生活」長谷川櫂の中から抜粋。

「俳諧はむやみに言葉を飾らず、小さな子供のように思ったことをそのまま口にするのが大事というのである。・・・
そして、『王様は裸だ』と叫ぶ子どもこそは俳という字のモデルになった古代中国の道化であり、芭蕉のいう三尺の童子であり、大群衆にまぎれた小さな俳諧師である。」
「俳という言葉は英語のクール(cool)という言葉に近い。英 語のクールには涼しい、冷たいという意味のほかに冷静な、落 ち着いたという意味がある。」

俳句とは、クールなものと見つけたり


*月、雪を詠む=月下村

僕のアトリエから歩いて10分、京見峠への登り口に光悦寺はあります。
周りにはいくつもの芸術村が(ソンソンと)点在し、この冬には珍しく、幾日も雪が降り続きました。
仕事の合間に時々散歩するのですが、鄙びた山合いに風花の舞う様子は、現代の時空間を一瞬にして飛び越えてしまうぐらい幻想的です。

●初茜ここそこに染む雪だまり
●咲くほどに幽き姿雪中花
●目で追ひし風花冬の蛍かな
●それぞれの哀切の上(へ)に雪は降る
●雪は絵に絵は雪になる寺の縁
●ソンソンと雪フリヤマズ光悦寺
●六つの花指でなぞりし夢の核
●雪女郎たとえあなたが・だとしても
●雪舞台雪女舞ひ雪激し
●惚れやすく泪もろくて雪の声
●雪々て鼻たれ小僧進軍せよ
●淡雪を頬ばるほほに手をあてて
●沫雪の水に戻りて佳句成れり
●傍に居て帰らないでよ雪解川
●都会とはかなしからずや雪解水


*東京御上りさん道中記=五六二三斎

  東京に初めて行ったのは、5才の時だった。
父の東京出張について行った。というより、無理矢理連れて行かされたと言った方が正しい。あさかぜかさくらの寝台車に乗って出かけた。当時としては大柄(175センチ)の父と狭い寝台に泊まっての上京であった。寝台車の中が暑かったのを思い出す。季節は冬だったように思う。母の兄の家が猿町というところにあって、そこに逗留させてもらった。田舎の子供がいろいろハプニングを起こしたようだ。
あれから48年の歳月を経て、まため組句会のために出かけた。
そこで、今回は東京御上りさんの昔と今をつなぐ句をいくつか紹介する。

●冬の草父と添い寝の寝台車

●思い出の丹那トンネル日脚伸ぶ

●父母の句を重ねつつ春を待つ

●丸の内線のすすけし寒の雨

●大江戸の恵み果てなし初句会


*丘23交遊抄 ゆく年・来る年=資料官

17年12月2日(金)
●金妻らあふれて冬の神楽坂
●小夜時雨止みだんだらの神楽坂
既に12月号に投稿したものですが,マツーラの尽力で9名(松浦,ダブルあそー,橋本,結城,小野J,浜田,中尾,舟越)の丘23と神楽坂にて歓談。私は二次会としての参加でしたが冬の神楽坂は熱気ムンムンでした。

12月30日(金)
●ミレナリオ酔って灯に入る冬の虫
仕事納めの夕方ミレナリオの行列に参加。所詮電灯の固まりと思いつつも,しばし工事の関係で見られなくなると思えば,寒さも堪えてひたすら並ぶのです。東京に出て来て早くも20年,ラーメン屋,美術館等々並ぶことには平気になってしまいました。たかがミレナリオ,されどミレナリオ。

18年1月4日(水)
●歌かるたふりゆくものは我が身なり
●明神様詣りて仕事始かな
●初仕事神田明神朝集合
仕事始めの朝は早出してお参りを済ませて出勤。商売繁盛の神様神田明神には背広姿のサラリーマンの団体が朝からウロウロしていました。湯島天神・神田明神・湯島聖堂の三社をはしごして,ニコライ堂の坂を下って会社に向かったのです。

1月14日(土)
●朋来たる楽しからずや小正月(自遠方朋来楽小正月)
●寄せ鍋にぽんた鉄馬の笑みあふれ
ちゅん部長&原副部長上京,南長崎「ぽんた」での新年会。久し振りの雨でしたが夜帰るころには雲の合い間に満月が顔をのぞかせておりました。お二方年にもめげず明け方まで痛飲,そして句会へ。実りある初旅,初句会,初二日酔い?だったようです。

1月21日(土)
●初夢や富士乗りはくたかなすの撮る
●小雪舞う銀座のカフェーに笑顔十
栗原ブルトレで上京。初夢は「富士・鷹・なすび」が定番らしいが,テッちゃんの初夢はRailway。優しい丘23のメンバーは雪にもかかわらず数寄屋橋の写真展会場に集合しました。たまたまその日の朝帰国した蓮尾も参加,懐かしい顔ぶれ(栗原,小林茂幸,品川,浜田,蓮尾,中西,橋本×2,梅根×2,松浦,麻生)合計13名でした。

1月25日(水)
●外套の襟立て集う立ち飲み屋
●マフラーを巻いて立ち飲むガード下
今度は小柳(高宮中)が上京,飛行機の出発までちょっとだけ新年会となりました。東京駅で待ち合わせて,地下中央通路の立ち飲み屋で20分間ビール2杯飲んで,浜松町まで送って別れました。わずか30分の逢瀬,朝まで飲むのも良いが,立ち飲み屋の短期決戦も「俳句」のように凝縮されてなかなか味がありますね。


*かごんま日記:”IF MY FRIENDS COULD SEE ME NOW"=スライトリ・マッド

2006年1月26日
●去年今年群像劇やアヴァンティ
今日、天文館の鹿児島東宝で映画「THE有頂天ホテル」を見た。現在売れっ子の脚本家、演出家である三谷幸喜のメガホンによる3作目。前作は見てはいないが、面白そうで前から要チェックと思っていた作品。平日の朝の映画館なのに結構お客さんが多いのにびっくり。彼自身「映像作家ではないので映像の美しさで見せるような作品は作れない」と述べていたが、たしかに散る櫻や、海の青、美しいラブ・シーンなど一切ない。普通の映画は複数のカットを撮って編集して一つのシーンに見せる方法がとられるらしいが。彼の場合、舞台出身だけあって、暗転無しのノンストップすなわちワンシーン・ワンカットの多い映像になっているとのこと。言われたら、そうなのかと思う程度で、観る側としては別に違和感は覚えない。大晦日の午後9時50分から新年のカウントダウンまでの2時間10分がリアルタイムで描かれる点がユニーク。ストーリーはホテル・アヴァンティを舞台に繰り広げられる、さまざまな人間の群像劇。誰が主人公というわけではない。25名+1羽(アヒル)の登場人物が交錯する。徹底したリアリズムでもなく、ファンタジーっ ぽいところもあり、ほんわかとした雰囲気。随所にほろりとさせたり笑わせてくれたりするところがちりばめられている。最後のカウントダウンパーティの場面でYOUが歌ったジャズもよかった。ミュージカル映画「スィート・チャリティ」で、シャーリー・マクレーンが運に恵まれない女を演じ最後に夢が叶って歌ったという曲。さえないシンガーが燦然と光り輝く瞬間。それは誰にでも訪れるもの。そう考えると少し生きることも楽しみに思えてくるような気がしてくる。なかなかの出来の映画だった。★★★★☆!
●夢はじめ破顔一笑歌ふ女(ひと) 

If they could see me now
That little gang of mine
I'm eating fancy chow
And drinking fancy wine
I'd like those stumble bums to see for a fact
The kind of top drawer, first rate chums I attract

All I can say is "Wow-ee"!
Looka where I am
Tonight I landed, pow!
Right in a pot of jam
What a set up! Holy cow!
They'd never believe it
If my friends could see me now!


1月28日
●冬の鳩若き薩摩の群像や
鹿児島中央駅前の広場に、若き薩摩の群像という彫刻が立っている。てっぺんの薩摩藩最後の家老であった新納刑部の天に掲げた両手によく鳩がとまっている。なんだかほほえましい光景だ。私の住む同じ町内にアトリエ付きの家がある彫刻家中村晋也の作品。白髪頭の優しそうなおじ様だ。甲突川沿いの大久保利通像も彼の手によるもの。松元町に大きなアトリエが隣接した中村晋也彫刻美術館がある。今日所用で西別府まで行った。西別府は山の上。峠の先は行ったことがなかったけれど、たしか松元に彫刻美術館があったなあと、突然行ってみたくなる。地図もなく、道を尋ねられるコンビニもない。どうしようかとまっすぐ走っていたら標識が目に入る。何かひかれるように美術館へ。鹿児島市のはずれにあるので訪れる人少なく私一人。住宅街に立つ3階建てのこじんまりした私設彫刻美術館だ。一通りゆっくり見る。40歳のときにパリに渡り、スペイン出身のアペル・フェノザに師事。フェノザの言葉に「彫刻は詩であり心である」とあるそう。芸術はみな同じなんだなあ。3階に奈良薬師寺に奉納している「釈迦十大弟子」の像もあり、思わず頭が垂れる。阪神大震災に触発されて制作が始まったという祈りのシリーズ「ミゼレーレ」もよかった。Miserere:救いたまえ。旧約聖書の詩篇51に出てくる言葉だそうだ。『神よ、御恵(みめぐみ)によって、私に情けをかけ・・』。私は仏様も神様も困ったときしか頼まない、いいかげんなやつなのだが。絵はがき買ったり受付の女性と話したりしていたら、収蔵庫見たいですか?と。もちろん見せてもらう。彫刻の原型がところ狭しと並んでいて不思議な空間を作っていた。しばらく眺めて、いい午後を過ごす。若き薩摩の群像も遠くからしか見たことがないが、その彫刻の原型をすぐ近くで見ることが出来、感激ものだった。若き薩摩の群像は全部で19名から成る。初代文部大臣、森有礼もその一人。今から141年前の1865年4月に、国禁を破り、串木野羽島を出航しイギリスに向かった、4人の外交使節と15人の学生たちだ。船に乗った翌日に必死の覚悟で、ちょんまげを切り、刀を捨て、本とシルクハットに持ち替えた洋装のジェントルマンたちの熱い眼差しや思いが、感じられる見事な彫刻だ。留学生たちの中の一人、長沢鼎は当時まだ13歳の少年。葡萄の実を一つ指に持ち、眺めている、まだあどけなさを残した顔の中に、将来の葡萄王の片鱗が窺えた。
●ブロンズの葡萄の先の冬の夢

♪"IF MY FRIENDS COULD SEE ME NOW" words by Dorothy Fields, music by Cy Coleman (1965) より引用


■編集後記
●鳥雲にここはかつての遊び場所
だんだんと厭な世の中になってくる。僕等が子供の頃、三角ベースを作って野球をした原っぱは、今では金網で囲われた更地になってしまった。拾って来た戸板で筏を作って、海賊船ごっこして遊んだ池のほとりには、今、禁止事項がたくさん書かれた看板が立っている。。電柱から電柱までじゃんけんで荷物持ちの罰ゲームをして帰った楽しい登下校、今はただ、父兄が付き添って周囲に眼を光らせながら並んで歩く。チヨコレイトもグリコもパイナツプルも、都会のあちこちにある階段の、どこを探しても見つからないだろう。
●都会とはかなしからずや雪解水
時々、沖縄や四国の田舎に還って穏やかに余生を送りたいような気持ちになることがある。田舎に引っ込んで、こうしてweb俳句なんかしもって、焼酎をちびりちびりやりながら、まぼろしのキジムナーやニングル、マックロクロスケ達ともう一度友達になろうかな?それもまた一つの楽しい同窓会かもしれませんね!
(中島、文責。)

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