*無法投区/師走*
〜折鶴は紙に戻りて眠りけり〜
*宴さり 窓辺にせめての 白桔梗=香久夜
9月に、長女が結婚しました。
式の感動と興奮とはうらはらに、寂しさがつのるものです。
式場の花束、母への花束すべて、家中に飾ると、少しは慰められた気が。
引越し前夜、抱き合って思い切り泣いたら、<前向きに東京へ行こうと、決心がついた>といってくれた。
●旅立ちに ひしと抱く夜の 流れ星
*蝶採り仲間忘年会=五六二三斎
12月23日(日)に、今年知り合った蝶採り仲間の忘年会がI氏のご自宅で開催さ れました。M氏、I氏と私の3人会でした。
M氏は周防大島のご出身で、牡蠣が大島 の名物とのことで、わざわざ地元から取り寄せて頂きました。天婦羅鍋で直に牡蠣フ ライを作って下さいました。
牡蠣フライは大好物です。亜鉛の含量が多く、お酒飲み にはたいへんいいんです。何故ならば、亜鉛(Zn)は、アルコールを代謝する酵素、 アルコールデヒドロゲナーゼの活性に必要な金属なのです。確かに、昨晩は悪酔いし なかったような?おっと、横道に!そろそろ俳句!
●島の母思ひ浮かべて牡蠣フライ
M氏のお母さまは島でご健在とのこと。
●お湯割りのすすみし宴牡蠣フライ
I氏はなかなかお酒がいける方です。
*師走の長州路/西から東=資料官
●関ケ原うつらうつらと時雨雲
(東海道新幹線の冬の難所は関ヶ原付近の雪。名古屋あたりまで晴れていても,ここから雪雲の中に突っ込んでいく。)
●生きタコを焼いて博多の年忘れ
(福岡市,天神大名は「花亭」名物海鮮七輪炭火焼。生きたままのたこやエビや貝類を七輪の上に乗せて焼く。しばし焼くことに夢中。)
●母の背の丸くなりけり冬座敷
●虎落笛幾度目覚めつ眠られん
(下関市の某ホテル。一晩中ヒューヒュー眠れませんでしたバイ。)
●短日や白壁の街店じまい
(柳井市は白壁の街。12月は日暮れも早く下校の高校生が自転車で通り抜ける。)
●潮の香の鳩子の海の日向ぼこ
(熊毛郡上関町。昭和49年の朝ドラ「鳩子の海(斉藤こずえ主演)の舞台となったところ。)
●小郡の名も消え広き冬の駅
(山口市。小郡駅は新山口駅という面白くない名前に変わった。)
●ひれ酒と長州行脚西東
(山口市ほか。)
●みぞれ降る萩の笠山明神池
(萩市)
●北風やひゅるるひゅるると旅の宿
(萩市)
●かけ布団重ねど寒し萩の宿
(萩市)
●まだ明けぬ松陰神社の冬紅葉
(萩市。早起きして松蔭神社参拝。西日本は7時近くなっても薄暗い。)
●仙崎や金子みすずの詩あふれ
(長門市。仙崎は蒲鉾で有名であるが,今は街中に金子みすずの詩が書かれている。)
*弟子屈の母子エゾシカに雪の華=喋九厘
厳しい自然条件の中でも暖かい愛情、美しさを表現したかったのですが、これじゃ伝わらないなぁ!
俳句は難しい!表現力の欠乏が原因ですが、この情景を説明すると以下のように長くなります。
弟子から弟子屈の連想…この地名を使うとして、以下の場面をどう表現したら良いのか?
どなたか教えてくださいな。
釧網本線の列車は釧路を発車し、釧路湿原を抜けて、これから流氷に覆われる厳冬のオホーツク海を右そばに見て網走へと向かいます。
雌雄阿寒岳、斜里岳、羅臼岳も遠く近く、車窓に丹頂も湖沼も丸ごと楽しめる全長169.1キロの絶景眺望路線です。
途中、知床半島の付け根を横断する峠の入口に弟子屈駅(てしかが・現在は近くの湖にちなみ、摩周駅に改名されています)はあります。
ある冬の事です。外はマイナス15度、辺り一面白銀の世界です。
弟子屈駅を出発すると、すぐに人家は途絶え原生林が線路を取り囲みます。
ここで遭遇したのが8頭程のエゾシカの群れで、線路の真ん中に。
山も深い雪に埋もれ食べ物を探しに来たのでしょう。その一群にまだ幼な子がいました。
雪の壁で線路以外に逃げ道はありません。群れはこの子をかばって線路伝いに逃げて行きます。
ゆっくりゆっくりと、約20分の気動車とエゾシカ一群との追い掛けっこでした。
話は外れて、先月の赤林檎の句。
あれは大好きな五能線からです。
青森県弘前近くの川部と秋田県東能代とを結ぶ147.2キロの日本海スレスレを走る絶景路線です。
津軽富士は岩木山の麓、津軽平野の五能線藤崎駅付近の情景です。
ここら辺は線路のすぐ脇まで一面のリンゴ畑で、秋には真っ赤な林檎が車窓を彩ります。
撮影中に仲良くなった林檎農家の方からプレゼントされた虫喰いのリンゴを想い作りました。
売り物にならんでも、甘かった事!
数十個の林檎をかかえ列車内に。食べ切れず、配りまくり。
反対ホームに顔見知りとなった駅員をみつけると、汽車の窓を開け、線路を飛び越え5メートルの林檎のトス。
まだすれ違い駅には必ず駅員がいて、客車の背ずりは板だった時代、20年位前のハナシです。
今、今まで撮影のフィルムを大整理中です。
高1には一年に僅かモノクロフィルムで13本だけの撮影だったのが、今じゃ一ヶ月で200本もザラ(総て36枚撮りです)。
それが30ウン年経つと…総数は?ウン万本!愛着があって捨てられません。
先の釧網本線に五能線でも蒸気機関車が走る35年前のカラーポジフィルムが出て来ました。
記憶が鮮烈に蘇ります。
過去を振り返る歳になってしまった…今年はどんな年になりますやら…
皆さまのご指導、ご感想をお待ちしております。
*師匠と弟子/鑑賞=月下村
●折鶴は紙に戻りて眠りけり
・・・そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、 羨ましいくらいに安らかに眠っている。
これが、死というものだろうか。 露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。
清水哲男「増殖する俳句歳時記」より
※この句の作者は
高橋 修宏(たかはし・のぶひろ)氏。
昭和30年12月27日生まれ(49歳)。東京都出身。富山市在住。
著作:句集「夷狄」、詩集「呪景・断章」「夏の影」「水の中の羊」
現在、現代俳句協会会員、俳誌「豈」同人、詩誌「大マゼラン」同人。
(有)クロス(企画デザイン会社)を経営し、クリエイティブディレクターとして活動中。
●夕鶴も聖夜に羽を紡ぐのか=月下村
●むつび月初折裏に鶴のこゑ=月下村
高橋氏の無季俳句に触発されて詠んだ私の句である。
この折り鶴は不思議とクリスマスにもお正月にも似合う。
その理由はこの句が生と死を穏やかに去年今年(こぞことし)と繋いで、「永遠」を物語っているからだろう。
何故か私には「死」が「生」の師匠、先生に思えてならない。俳句も連歌も、勿論仕事や家族、恋愛といった諸々の精神世界もまた、同様である。
師は遠く彼方にも、すぐ傍にもいてくれる。それもかなり多くの師が私の周りには存在してくれているようで、大変にありがたいことである。
●蕪村忌の風花として句を選む=二六斎
●ジンタもて師を逝かしめて師走かな=砂太(加冷先生を悼む)
●真赤なる夕焼の欲し冬の菊=砂太(同上)
●そそくさと別かるる駅の時雨かな=砂太(同上)
●披講せよ千年の鶴二六斎=月下村(小山二六斎氏に捧げる)
●年忘れ恩師の肩をがつと抱く=月下村(白川砂太先生に捧げる)
* かごんま日記:" SPREAD YOUR WINGS " = スライトリ・マッド
2005年12月7日
*雪冠(ゆきかむり)ぶるり震える桜島
今年のかごんまの冬は、例年より1ヶ月早く寒さが到来した感じだ。桜島の初冠雪も去年より24日早い今週の日曜日の夜だった。いつもは北岳の先っぽだけ白くなるのが南岳の8合目まで真っ白になる。雪の帽子を目深にかぶってくしゃみしそうだ。今日は友人のIさんと出水のツルを見に行く。昨夜の天気予報では、雨の確率30%だった。てるてる坊主をティッシュで作ってぶらさげたが、朝になってみるとやはり今にも降り出しそうな気配。延期しても、これからますます天候の悪い時期に入るし、2人の都合を合わせることも難しいので、行くことに決定!伊集院に住むIさんと郡山で落ち合い、私の車に乗り合わせて行った。途中、紫尾峠では道路沿いに、先日の雪の塊がごろごろとまだ残っていた。冬場は凍結しやすい箇所で通れただけでもラッキーだ。自宅を9時に出発し、11時20分に出水のツル観察センターに到着!出水のツルは初めてでわくわくする。
*冬干潟サンクチュアリに集ふ鳥
出水は八代海に面する鹿児島県の北端にあるまち。熊本県に近い。日本で最大のツルの越冬地として有名。10月から3月までは、国の特別天然記念物に指定され保護されている聖域。えさの小麦も充分にもらえ、鳥たちにとってはパラダイスなのだ。ツルだけでなくシベリアや中国からのカモやカラスもたくさん渡来しており共存している。見たことのない数のカラスが電線にびっしりとひしめき合って並んでいるのは、ヒッチコックを思わせ、ちょっと不気味だ。休耕田で一番の大所帯の黒っぽいナベヅルは、全世界の生息数のほとんどが(約9,000羽)、冬の間をここ出水にやって来て過ごす。ナベヅルのナベとは、なべ底の焦げた色から来ているとのこと。
その次に多いのが、やや大きくグレイがかったきれいなマナヅル。全世界の生息数の半数(約3,000羽)がやって来る。昔話の鶴の恩返しに出てくる白いきれいなツルはタンチョウだ。タンチョウは北海道で見られるが、出水にも時折1羽ぐらい迷いこんで来るらしい。迷鳥として他にアネハヅル、ナベグロヅル、カナダヅル、クロヅルなども数羽見られる。越冬地というので、暖かな土地をイメージしていたら、南国と言えど、相当の寒さ!そうか。シベリアはもっともっと寒いんだ!今日現在のツルの飛来数は1万と758羽。世界にいるツルは15種類。そのうちの7種が日本に渡来し、出水ですべて見られるという!これってすごいことではないか?数十年前は数百匹のツルの渡りにすぎなかったものが、年々その数を増やし、9季連続の万羽を越えている。となるとその前ツルたちはどこで過ごしていたのだろう?渡りのルートの環境破壊やえさの不足が原因で日本に来るようになったとも聞いた。だとすると、人為的に作った環境にツルが集まったものではないか?出水のツルを愛する人たちの善意や行政によって、守られているというのが現実だ。世間を賑わしている鳥インフルエンザが、万が一、出水に入ってきたら、どうなるのだろう?渡り鳥がウイルスを日本に運び込 むことも怖いが、鳥たちが一箇所に集まっているため、下手をするとその種が全滅しかねないという危惧もあるのでは?出水がいつまでもツルにとって安心して過ごせる場所でありますよう!
*一列になりて飛びける親子ヅル
ツルはボスがいない。家族単位で行動する。たいてい、ツガイの2羽、家族の3or 4羽で飛ぶらしい。ツルは必ず卵を2個産む習性があるそう。自然淘汰で1個孵らなかった場合は3羽の家族になる。そういう家族が集まって大きなグループになることもあるが。孤独なツルもいる!観察センターのおじさんは、あれは、独身ですね、あれは単身赴任かな?などと面白おかしく説明してくれる。
ちょっと寂しげ、でも、首と背中をピンと伸ばした姿勢よろしく、羽をきれいにひろげ、飛んでいる姿は何とも言えず優美だ。ツルの両親のあとに続く子どもヅル。ツルの子は頭と首の部分が茶色でふわふわの毛が生えていて、子どもだとすぐにわかる。一列縦隊で飛んでいる。観察センターのおじさんに、ツルは千年と言うが、実際何年くらい生きるか?と尋ねてみた。今わかっているツルの最高齢は70年ぐらいだろうとのこと。
*舞ひ上がるツルの遺伝子風を読む
ツルのねぐらは水場。木には止まらない。眠っているときにも水の振動で外敵の侵入を知ることができるからだ。ツルは風の向きをいつも読んでいる。外敵に襲われそうになったときに備えて、寝るときもすぐに飛び立てるように、助走を少なくして風に乗れる位置が本能的にわかるらしい。また上空を旋回しているときに、数百キロ先の天候がわかるとのこと。すごいものだ。今日は昼間なので5〜600羽しかいなかった。朝ごはんを食べた後、出水平野のあちこちに飛んで行き、夕方ねぐらに帰って来るそうだ。したがって万羽が揃うのは夕方の5時ごろから朝の7時半ぐらいまで。さぞや壮観であろう。てるてる坊主が効いたのか、雨にもあわず、客も少なく、シベリア産まれのハンサムなツル君たちにも会え、まずまずのツル・ツアーである。春一番が吹く頃にもう一度来て、太陽の光を浴びながら万羽が飛び立つシーンを是非見てみたいと思った。帰りに食べたイワシ茶屋のいわし膳、900円なり。おいしかった!
Since he was small
Had no luck at all
Nothing came easy to him
Now it was time
He'd made up his mind
'This could be my last chance'
His boss said to him 'now listen boy
You're always dreaming
You've got no real ambition you won't get very far
Sammy boy don't you know who you are?
Why can't you be happy at the Emerald bar?'
So honey
Spread your wings and fly away
Fly away far away
Spread your little wings and fly away
Fly away far away
Pull yourself together
'Cos you know you should do better
That's because you're a free man
Come on honey
*"SPREAD YOUR WINGS" by QUEEN(1977) より引用
■編集後記
この2006年の正月三日、義理の父親の「米寿祝の会」を催した。
彼は昭和14年から丸3年、中国で機関銃士として蒋介石の国民軍と戦闘をくり返し、脇腹に4発の散弾を抱えたまま、17年の暮に兵役を終えて故里へ帰国した。
翌年、義理の母親である「浜田麻子」のもとへ養子に迎えられ、88才になるこの年まで、専業農家の百姓として働き、1男3女を育てた。名前を「久米蔵」という。
●米ひとすじ八十八年(やそはちねん)の初御空
軸に自作の祝い句を書して父に捧げ、アカペラの「君が代」を彼と、今年、ドイツワールドカップに出場するジーコ監督率いる全日本代表にエールを送るものとして歌った。
4年前に亡くなった実の父親形見の、「丸に梅鉢」紋のきものを着て、大きな声で国歌を謳おうと思ったのは、聖徳太子以後、中国とは異なった気質と風土の上にまとまった、仮の夢としての国「HINOMOTO」を偲ぶような気分があったからである。
新年にふさわしい淑気がひととき、この少々くたびれた体を取り巻いて、清々しく巻き上がったかのようだった。
(中島、文責。)
無法投区
創刊号
第二号
第三号
第四号
第五号
第六号.新年号
第七号
第八号
第九号
第十号
第十一号
第十二号
第十三号
第十四号
第十五号
第十六号