*無法投区/如月*

〜佐保姫の爆ぜて一草また一草〜


*佐保姫に会いにゆく=香久夜

モスリン橋…いろんな゛橋゛に恋して、渡れずに佇んでいる作者の姿が見えます…。
ところで、今回の季語「佐保姫」、予備知識がなく慌てましたが、ロマンチックで、探してみたくなりました。
雪の降る日でしたが、知らない寺を巡ってぶらぶら佐保路を歩いてきました。こんな楽しい散歩ができたのも俳句のおかげ。 もし不退寺の句に一票でも入っていたら、付け加えてほしいです。

不退寺=奈良・佐保路に佇む小さな古寺、業平椿などの花が。


*籠の鳥の五六二三斎雑感=五六二三斎

 今回もアテネオリンピックの時と同じく、金メダリストに捧げる川柳をと意気込んで いたが、蓋を開けたら、荒川静香の金メダル1個!これじゃ、この企画はあまりにも 寂しい!そこで、今回のオリンピックで印象に残った競技をピックアップする企画に 変更!

女子カーリング

この競技はほんとに面白い!寝るのを忘れて、ついつい引き込まれてしまった。小野 寺歩、林弓枝、本橋麻里の三人は特によかった。小野寺の2ストーンのパンチアウト は素晴らしかった!

●薄氷やハウスめがけて響く声

彼女たちの響く声に感動!ひたむきさには脱帽!

●雛壇やトリノの白き大舞台

彼女たちの白い顔にも魅了された。雛壇のお人形さんのようだった!

●氷解勝ち負けよりも感動を

強豪スウェーデンにもひけをとらなかった。勝ち負けはどうでもよい!感動ひとつひ とつに感謝!


*山尾春美さんからの便り=月下村

●風が来て君を知りぬる菫かな=月下村

去年の桜の頃、染谷みち子さんとふたりで桜舞ひ散る・同行二人展という展覧会を開いた。
それは書道暦10年足らずの僕にとっては無謀で稚拙な試みであった。
書の題材のすべての詩や文章は、埴谷雄高氏の「不合理ゆえに吾信ず」、そして山尾三省氏の「南の光のなかで」という2册の本から採った。
 三省さんは2001年の8月28日に61才という若さで亡くなられた。
以前、京都の法然院というお寺に、氏の「詩の朗読会」の席でお会いしてから、折りにふれては毎年の行事等に挨拶状を交歓させて頂いていた。
一度、御一緒させて頂いた酒席で、大切そうに大切そうに両手で椀を囲み、少しずつ少しずつお酒を呑んでいらっしゃった氏の姿を思い出す。
僕はこれまでの人生で、三省氏以上に優しい慈悲の眼差しを持った人を見たことがない。 2001年、亡くなられた年の年賀状にはこんな素敵な一句が添えられていた。

●梅一輪の銀河系です=三省

先日、奥様の山尾春美さんに、「南光屋久神名備老人」という文字を象形で表現したお軸と、「南の光りのなかで」の最後の一文となった「妻と子供達への遺言」を写経した巻き物を謹呈し、後日春美さんからとても丁寧なお手紙と、三省さんの御本を二冊(「祈り」「原郷への道」、ともに野草社刊)を送っていただいた。

『お礼がすっかり遅くなりました もう2月ですね。

寒中お見舞い申し上げます。
先日は立派な掛軸の書と巻物の書とお送りいただき、ありがとうございました。
もったいないものをお送りいただき、恐縮しておりますが、せっかくお送りいただいたもの 有り難くいただき、愚角庵(三省さんの書斎)に飾れたらと思っております、ほんとうにありがとうございます。
なにもお返しするものがありませんので、三省さんの本で昨年の夏と一昨年の夏と出版されたものをお送りします。 三省さんの新しい本はこれでおしまいと思います。
手のとっていただけたら嬉しいです。
屋久島は南の島といっても私達の住んでいる一湊は北西風が強く、寒く、アラレも時々舞います。もちろ奥岳は積雪があり、このあいだも九州第3の高い山である永田岳が真白になっていてヒマラヤのようでした。
2月半ばの”雨水”のころになるまでは寒い日が続くことでしょう。京都も寒いとききます。どうぞ、お体大切におすごしくださいませ。
遺言の書もうれしかったです。ありがとうございました。 山尾春美』




* かごんま日記:"THE MILLIONAIRE WALTZ" = スライトリ・マッド

2006年2月25日
* 庭櫻栄枯盛衰眺めつつ
ここ数日の陽気で鹿児島は一気に花がさす(かごんま弁で咲くの意)。通り道の原良(はらら)の花岡屋敷跡にも満開の花々。花岡屋敷前という市バスの停留所名にもなっている花岡屋敷とは京都の師団長であった鹿児島出身の人物が建てた邸宅。戦後没落して現在は地元の土木関係の会社社長のものに。塀の向こうにたくさんの桜や辛夷の大木が見える。広大な敷地内に四季折々の花が咲き、いかにもお大尽のたたずまい。門から長い道が続き家が見えない。門から数歩で玄関の我が家(おまけに借家)とは大違い。赤外線センサーまでついている。

Bring out the charge of the love brigade
There is spring in the air once again
Drink to the sound of the song parade
There is music and love ev'rywhere
Give a little love to me
Take a little love from me
I want to share it with you

* 山笑う清き泉の湧き出でし
家の近くに伊集院に続く道がある。水上坂と書き、かごんまでは「みっかんざか」と読む。昭和14年刊行の「常盤町の史跡」によると、水上坂ノ下ニキレイナ水ガ渾々トシテ湧キ出ズル所ガアル。其レヲ阿弥陀井戸ト呼ンデ居ル。昔此清泉ノ傍ニ阿弥陀堂ガアッタカラ斯フ曰フノデアル。水ノ湧出量モ相当ニ多ク質モ良イノデ昔ハ下町ノ酒屋ガ酒ヲ作ルノニワザワザ水ヲ汲ミニ来タソウデアル。阿弥陀井戸ノ前側ノ常盤町五七七番地ノ処デ大シタ建物ハナカツタガ大キナ黒塗ノ門ガ建ツテ居ツタ。此処ハ殿様ガ参勤交代ノトキ、一寸休憩サレテ装束ヲ改メタリ、行列ヲ直サレタリサレル処デアツタノデ、此ノ門ヲ御装束之門ト称ヘテ居ツタ。
常盤谷の人はこの御装束之門のあったお屋敷を「お仮屋」と呼んでいたそうだ。坂の上まで車で3分の距離。よく通るが、実は4年間ここに住んで、一度も歩いて上ったことがない。お天気も良いので、散歩してみることに!木瓜の花やスミレや雪柳など見たりしながら、ゆっくり歩いて片道20分ほど。最初はなだらかだが途中から急勾配の坂道だ。車はひっきりなしに通るが誰も歩いていない。
昔は恐らく舗装もしてない細い道で、道の両側からおいかぶさった枝の木洩れ日が路上にちらついていたのではないだろうか?今は無粋なコンクリートにおおわれた切り立った崖と広い道幅の舗装道路があるのみ。雑木林のさざめきも遠くて聞こえない。何百年も前に出水筋から鹿児島城下に入る旧道は、みな、このみっかん坂を下ったんだよ。こういう空間や環境のデザイナーって世の中にはいないんだろうか?もう少しこういうところにお金をかけて自然や歴史の重みを残しながら住みやすく便利にする方法があるんじゃないかなあ?等々思いながら上り詰め、桜島が見えるところまでと、さらに歩く。桜島の見える地点でしばし休憩。正面に桜島。左側に吉野台地。さらに遠くにうっすらと見えるのは霧島連山だろうか。桜島の右側には高隈山に連なる大隅半島の遠景。ここから見える景色は昔も今も変わらないはずだ。

* しあわせは見えない春の野にありて
畑で手入れ中のおじさんに、こんにちはと声をかける。ソラマメの花が咲いていた。少し話をしたあと、おじさんにさよならを言っての帰り道、沈丁花のいい香り。携帯で写真を撮ろうと花に近づいたら、画面に大きな犬の顔!「うわあ!」とびっくりして、思わず後ずさりする。が、吠えも噛み付きもせず、おとなしくかわいい日本犬だった。おいでと言っても欠伸して知らんぷり。シャッターチャンスを逃す。残念!坂を下っていると、道路わきの上に、野梅が見えた。まだ散っていない。上り道を発見し、探検!道路からは見えないところに畑が広がる。人家はない。コケコッコーのニワトリや鯉もいた。畑の周りには梅や桜、熊笹も。蝶が舞い鳥の鳴声が山から聞こえる。んー、こういうものを見るとなんだかラッキーって感じだ。途中、しあわせコロッケという名前のコロッケ屋さんで1個100円のコロッケを買って帰る。

Feel like a millionaire
Once we were mad we were happy
We spent all our days holding hands together
Do you remember my love
How we danced and played?
In the rain we laid
We could stay there for ever and ever
Now I am sad you are so far away
I sit counting the hours day by day
Come back to me
How I long for your love
Come back to me
Be happy like we used to be

* " THE MILLIONAIRE WALTZ" by Queen (1976) より引用


*K先生の涙=砂太

 宇都宮信房の築城で後藤又兵衛も守ったことがあるといわれる、城井城の城跡は標高四百三十米の神楽山(カグメヤマ)の頂上にある。その神楽山の中腹を”牛切り”という峠が通っている。穏やかなカーブをくり返しながら、福岡県京都郡城井村から犀川町へ通じている。やっと峠を下りきって1キロ、そこに私の母校である犀城中学校がある。広い運動場を持った、木造ニ階建ての校舎であった。当時、一年生五クラスの編成であったから、田舎にしては規模の大きい、諸事に優秀な中学であった。西に逢坂山、南は本城池、北東に台ケ原という台地の連なる素朴な田園地帯であり、四季それぞれに美しい風景を見せていた。
 私はバレー部に所属していた。毎日毎日真黒になってボールを追いかけていた。昭和二十年中学三年次の話である。 小説を読むことが好きであったので、大人の世界の男と女の心の求め合いや、別れの痛みなどについても興味を持っていた。この季節の素晴らしい色彩の一つに、逢坂山に落ちる夕陽がある。大きくて、深紅で、一息ごとに身体がその色とリズムに染まってゆくような落暈である。練習が終わり、帰り仕度をして廊下へ出ると、バレー部顧問のK先生が、落ちてゆく夕陽を瞬きもせずに見ているのに出合った。私が横に立ったのも気付かぬげに見ていた。そっと盗み見をすると、目に涙が一杯たまっていた。大人の、それも夕陽を見て流す涙等見たこともなかったので、少々驚いたが、ふっとこんな想念が胸を走った。
「先生は恋をしている。」「相手はI先生だ。」
I先生はその年、京都の薬専を卒業されて赴任した色が白く大柄な美人の理科の先生であった。K先生、I先生、私三人共、前述の牛切峠を越えて学校に通っていたので、時には連れ立って帰ることもあった。勿論、貧しい時代であったので徒歩であったが、道すがら種々なことを話しながら帰った。御両人共に話題が豊富で実に楽しいひと時であった。将来、医師か学校の教師になりたいという私の夢を聞いてくれたり、引揚者であった私の下駄ばき、素足のスタイルをなぐさめてくれたりもした。そんな中から何となく、健康な大人の心の動き(リビドー)みたいなものを感じ取っていたし、私なりに二人の上に結婚の理想像を重ね合わせたりもしていた。そのためであろう、私の内部でK先生の涙は直接I先生に結びついたのだった。しかしその直感は見事に外れた。一年後、I先生は小倉の薬問屋にお嫁に行かれ、K先生も、村の郵便局長さんの所へ婿養子となってはいられた。
 K先生すでに六十七歳、現在なお矍鑠(かくしゃく)として村人の人望を集め健康な日々を送られている。先日この話をすると
「そんなこともあったかなー。」「欠伸をした後の涙じゃなかったのかなあー」
いってにっこりとされた。私のとんだ思い違いであったのかもしれない。だが私の胸の中には、否定したくない一つの事実として、いつまでも残っているのである。
 これは私が恋ということを知り初めた頃の思い出であるが、心の底に持っている美しいものに対する憧れ、美しいものを尊敬する心を培ってくれた、大切な過去の出来事の一つである。
 中学校、高等学校の六年間は美しいものや、楽しいものや、苦しかった思い出がたくさんつまった玉手箱のようなものだ。今その時を生きている人は、一刻一刻を大切にしてその箱に納めること、又すでに過ぎ去った人は、時折りその箱の蓋を開けて、見つめ直すことが、心を優しく、柔軟に保つ秘訣だと思う。
 だが過去は、少しずつではあるが、確実に遠ざかりつつあるのも事実である。


■編集後記

●春愁ひ心くすぐるトリノ姫
●美し姫よ勇気を学べ薄氷
●弓なりに一人静のアリアかな

このページのバックに流れている曲は、今や日本中で一番有名なアリア「誰も寝てはならぬ〜『トゥーランドット』より」である。
物語は伝説の時代の古代中国。
流浪の王子カラフと絶世の美女トゥーランドット姫のストーリーは「かぐや姫」や「眠り姫」のようなメルヘンの恋である。

トリノオリンピックが無事に終わった。
日本勢では、荒川静香が有終の美を、村主章枝が憂愁の美を飾ってくれた。
西洋も東洋、もキリスト教徒も仏教徒もあい集って素敵な祭典であったと思う。ただ、冬のオリンピックにイスラム圏の国々の姿は全くといっていよいほど見えてこなかった。懸念されていたテロの悲劇が起こらずにすんだ事こそ、今回のオリンピック最大の幸運であったかもしれない。
(中島、文責。)

無法投区

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