*無法投区/雪消月

〜紫雲英綯ふ夢にあとさきあるごとく〜

*百萬遍七句=砂太

先月 二月四日 城南区の東油山西観寺(真言宗)で行なわれた百萬遍供養に参加してみました。
初めての経験でちょっとした刺激でした。
花園句会七人ばかり終わって句会 数句を得ました。 良い句はないのですが御披露します。

春立つ日南無不可思議と経に和す

鴉止まる水子地蔵に寒明くる

百万遍の念珠を繰りて春に入る

立春の誦経に和して素直なる

経本をめくる指先春灯下

紅を引く老師の笑まひ春の雪

直会に和して水子と菊菜和へ

※当日は先祖供養と水子供養の百万遍でした。


*ブルートレイン本が完成しました=喋九厘



2月号や丘メールをお騒がせ致しましたブルトレ本がようやく完成しました。
また今回も、資料官殿から貴重な写真を提供いただいております。
更に昭和46年当時の博多駅見送り風景も掲載でき、丘23の皆さまにもご協力いただきました。
游俳の皆さまも、葱部長を始め、数名の方々が登場です。
皆みな様、誠にありがとうございました。

タイトル『九州発 最後のブルートレイン』B5判176ページ税込み2940円
九州鉄道記念館の宇都宮照信さんとの共著で、また海鳥社からです。

今月3月13日のダイヤ改正で、ブルートレイン「はやぶさ」と「富士」が廃止となり、これで九州を走るブルートレインは全廃となります。
『九州 最後の…』では、「はやぶさ」や「富士」の他、先に廃止となったブルートレインも取り上げています。
九州を駆け抜けた全ブルートレインの、約50年の活躍の様子を網羅しました。

たぶん資料官殿から写真入りの紹介があると思いますので、こちらは簡単な御礼のみにて失礼させていただきます。
ありがとうございました。


*春宵また桃花のごとし=葱男

英世發東方  (英世 東方に発つ)
朋集地面下  (朋 地面下に集ひて)
語夢興俳界  (夢語り 俳界に興ずれば)
春宵如桃花  (春宵また桃花の如し )

林 英世

マキノノゾミ氏が主宰する劇団「M.O.P.」の女優さんである「林英世」氏が、勇躍、東京へ発つ決意をした。

「M.O.P.」はもともと同志社を中心に京都の大学で演劇をやっている仲間が集まってつくられた劇団だが、主宰のマキノノゾミはNHKの朝の連続ドラマの脚本等を手掛ける、今が旬の劇作家である。
座付きの役者も最近売れて来ていて、キムラ緑子、三上市朗、小市慢太郎などはテレビドラマのバイプレーヤーとしてひっぱりだこである。
英世さんも映画「パッチギ」や朝の連ドラの脇役としてよくお顔を拝見していたのだが、このほど関西方面を拠点にして活動していた芝居、ひとり語り、演劇塾の講師などの仕事に一旦ふんぎりをつけ、東京に出て「演劇」人生に勝負をかける、ということなのである。

女性の歳を云々するつもりはないが、私より10才年下といえども所謂「若さで勝負」という年令ではもうない。
それだけに彼女の決意のほどがうかがえる。

そんな彼女の生き方を応援するのに京大近くの名物パブ『MICK』に多くの友人たちが集まって彼女を送った。

もし彼女に興味のある方は、ラ・ムーブメントを御覧になって下さい。

写真は「壮行会」の書と、彼女を送る五言絶句(葱男作)です。


*壱岐への旅ー曾良の墓に参る=五六二三斎

2月18日は穏やかな晴天に恵まれた。壱岐市民病院で管理栄養士になるための実習をしている学生がいて、そのご挨拶に壱岐へと向かった。実習期間は2週間。2月9日月曜日から始まっており、2月13日に出かけるつもりでいた。ところが、当日は、南風の春一番がやってきた。まるで、台風のような大風の日。船は欠航になるかもしれない。案の定、フェリーは郷ノ浦の港を避けて、芦辺港に行くとのこと。壱岐行きは中止せざるを得なくなった。
 それから、5日後、10時発の壱岐郷ノ浦行きのフェリーの船上は静かである。船は気付かないうちに博多港ベイサイドプレイスを出港した。壱岐には、夏には何度も海水浴に卒論の学生たちと出かけたことがある。2月の壱岐は初めてである。壱岐に曾良の墓があることは、10年前に海水浴に来た時にも気が付いていた。曾良が芭蕉の奥の細道紀行のお供をしたことはあまりにも有名であるから、当時、何故ここに曾良の墓があるのかと少しは気にかかったのだろう。


●早春の曾良眠る島青からん

そんな句を詠みつつ、2時間半の船旅は始まった。船は既に、志賀島と能古島の間にさしかかっている。



陸を見渡せば、宗像から福岡市そして糸島へと連なる山々がはっきりとしている。犬鳴、若杉、砥石、三郡、宝満、九千部、背振、金山、井原、雷山、羽金、女岳、浮岳、十防と福岡の山並みは優しく目を和ませてくれる。

●早春の海彦となる志賀と能古


俳句も順調に詠める。船上の景色の素晴らしさは、俳句にならないはずがないものだ。

船は既に博多湾を出ていた。沖ノ島が見えてきた。宗像大社の海の社、海の正倉院とも言われる謎多き島。



●浅春の天使や光る沖ノ島

遠く離れているものの光り耀いている。断崖絶壁の島で人を寄せ付けないことが遠目でもわかる。

壱岐が見えてきた。俳句を詠みながらの船旅はあっという間であった。郷ノ浦に入港。バスで郷ノ浦市街に向かう。昼ご飯は、海水浴で二度お世話になった寿司屋さんに行こうと決めていた。寿司屋さんの二階が民宿になっていて、料理が素晴らしいという評判の民宿であった。五年ぶりに、ご主人と再会。私よりも四才年上。白髪が多くなっていた。壱岐は観光客が激減し、地盤沈下が激しいようである。ご主人が居ない間に奥さんに伺ったのだが、ご主人が持っておられたハーレーのバイクはすべて売りに出されたとのこと。さすがに、ご主人にハーレーの話題はできなかった。

●春寒や島の沈みは殊の外

暗い句になったが、昔の民宿客の再来に、少し元気を出してくれたらと心の中で念じて、寿司屋を後にした。

さて、壱岐市民病院である。タクシーで10分、市街の病院に着いた。立派な建物である。主任の管理栄養士が受付に迎えに来て下さった。何と卒業生だとのこと。Aさん、旧姓Yさん。そう言えば、記憶にある顔。実習の学生も緊張はしているものの何とか元気でやっているようである。実習生は一人。もう一人の栄養士の先生を交え、四人でしばらく話をした。卒業生の管理栄養士のAさん、今日は休みを取っていたが、私が来るので病院に出てきてくれたとのこと。「先生、帰りの船まで時間がありますから、観光されますか?車で案内しますよ。」との申し出。 思い切って、俳句をしているので、曾良の墓に行きたいと申し出た。地元のAさんも行ったことがないと言う。こうして、思いがけずも曾良の墓を訪れることになった。壱岐市民病院から、車で30分、勝本の勝山城跡の公園の勝本の曾良の句碑の前にやって来た。地元のAさんもこれが曾良の墓だと思っていたらしい。



行き行きてたふれ伏すとも萩乃原
曾良

奥の細道も終焉に近い福井、石山寺で病気となり、芭蕉にお供できなくなった時の句である。

曾良は、信州諏訪の出身である。そのために、壱岐市と諏訪市は姉妹都市の関係となり、諏訪神社の御柱が、句碑の横に聳えていた。



この後、Aさんの案内で、曾良の墓を探す。確か、どこかで観光案内板を見たことがあるという。私が見た観光案内板の場所もここではなかった気がした。二人で歩いて城跡を降りて、50mくらい道を歩くと、観光案内板をみつけた。



車の通れない細道を50m歩くと、さらに看板がある。遠くには、勝本港の海が広がる。



●草萌ゆる細道海へ曾良の墓

私は、やっと曾良の墓の前に立った。



賢翁宗臣居士・・・

と刻まれている。曾良の墓が何故、壱岐にあるのかは、下記の文を読んでもらえば分かる。
対馬の句友に会うために、江戸幕府の巡見使の家来として応募して、対馬の句友には会えずに亡くなったのである。Aさんによれば、天気がよければ、写真の海の向こうに対馬が見えるとのことであった。

「元禄7年芭蕉が客死したとき曾良は46歳の働き盛りでしたが、その後の人生は師の足跡を追体験する旅をするなどその生涯は終始芭蕉とともにありました。宝永6年(1709)、61歳の曾良は幕府の巡見使(ジュケンシ)に採用され、翌年3月江戸を立った一行は大阪・北九州を経て、肥前国呼子(ヨブコ)から5月7日壱岐国(壱岐の島)郷ノ浦に上陸しています。江戸時代、幕府は将軍が代る度に諸国に30人ぐらいからなる巡見使(ジュンケンシ)を派遣し、土地の産業、交易、兵力、民心などを調査し為政の参考としていたようでした。
曾良が巡見使に選ばれたのは諸国の地理に明るく豊かな教養を持ち合わせていたからにほかなりません。上陸地点の郷の浦は壱岐の南端で、一行はやがて対馬側の島の北端勝本へと移動しますが、5月22日病についた曾良は勝本浦の海産物問屋中藤家で客死してしまいます。ときに62歳。遺体は中藤家の墓所の一角に葬られ、墓石の正面に「賢翁宗臣居士」その右に「宝永七庚天」左に「五月二十二日」右側面に「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」と刻まれていました。」
上野信好氏 



曾良の句をもう一句

春にわれ乞食やめても筑紫かな
曾良

この句は、巡見使として江戸を旅立つときのもの。曾良にとって、筑紫を旅するのが、初めてであったかは、知らないが、何だか辞世の句にも思える。 曾良の墓の前には、俳句投句のポストがあった。



2010年が三百回忌となるらしい。1990年の二百八十回忌の石碑もある。



こうして、私は、曾良の墓の前に立つことができた。お願いしたこと、芭蕉様、曾良様、どうか、私に素晴らしい俳句をお授け下さい。

曾良の墓は、地元の名士の中藤家の墓地の入り口にあり、まるで曾良の墓を持てることに誇りを持つように手入れが行き届いていた。

芭蕉の墓は、義仲寺にある。奥の細道を旅する間に、芭蕉は、義経よりも、義仲が好きになり、遂に、木曾義仲が眠る義仲寺に墓を建立してくれるように遺言し、それが現実となっている。それに、引き換えると、曾良の壱岐での客死は、寂しいものがある。ただ、中藤家の手厚い保護の下に、三百年を迎えようとしている。曾良の俳号は、木曾川と長良川に由来している。預けられていた伯父の寺が岐阜にあったためかと言われている。芭蕉と曾良は、いずれも木曾川と縁があるようだ。木曾川、長良川、揖斐川が並行して流れる場所が三川である。今の季節、三川には、芭蕉、曾良の俳句の天使がささやいていることであろう。

●三川にささやく天使草青む


曾良の墓に参れた感激覚めやらぬままに、Aさんの車で、郷ノ浦港へ向かった。Aさんのご好意で実現した曾良の墓参り。Aさん有難う。帰りのジェットフォイルの中で、この旅の感慨にふけりながら、私は一句を得た。

●春動く大鬼跨ぐ志賀と能古

今回の丘ふみ遊俳クラブの兼題の「鬼」。曾良の墓に詣でたことで成った句と信じている。(了)


*白川の合掌造りや雪解川=資料官

初めて旅行会社のツアーに参加して世界遺産白川郷・五箇山の合掌造り集落に出かけました。メンバー41名の人間模様,女同士(オバサン,OL風夫々)・母娘(きっと母親が旅費負担)・中年夫婦等々で圧倒的に女性が多い組み合わせでした。
長野新幹線あさまに上田まで乗車し,そこからバスでひたすら走る行程です。松本から北アルプスを越えて飛騨高山へ,ここで昼食と散策のため2時間滞在し,それから白川郷の荻町合掌造り集落へ向かいました。盛り沢山のツアーゆえ白川郷での滞在時間はわずか40分程度でして,駆け足で集落内を散策し合掌造りの建物を見て回りました。前日までの降雪で集落には結構雪が残っていましたが,さほど寒くなく春を告げる水音がいたる所から聞えます。水をたたえた田に写る合掌造りがすばらしく,建物の三角形と水に写る三角形がひし形そのものを描き出しているのです。田んぼの道沿いには向こうからSLがやってくるかのようにカメラマンが列をなしていました。集落を俯瞰できる荻町城址展望台まで行きたかったのですが,とてもそんな時間がなく今回はあきらめました。





●そそり立つ合掌造りや雪解風
●茅葺きの雪解しずくや白川郷
●雪解水合掌造りを写しをり

このツアーの宿泊地は白川郷からバスでおおよそ1時間の金沢市。夕食はカニと寿司の1時間の食べ放題付でしたが,時間よりもおなかのキャパで勝負は決まるのです。たくさん食べて満足する年ではありません。金沢市内はほとんど雪もなく,今回は毎回出かけた兼六園はパスして,妙立寺(通称忍者寺,あらかじめ予約要)を見てから,またしても近江町市場の海鮮丼を堪能して集合時間ぎりぎりにバスまでたどり着いたのです。
●ひたひたと足に余寒の忍者寺

最後に越中五箇山・相倉集落の合掌造りを見学。114戸の白川郷に比べて20戸のこじんまりとした集落なので,さらっと回ってから集落全体が展望できるスポットまで雪道を登り駆け上がる。この集落では懐かしい真っ赤な丸い郵便ポストに遭遇しましたが,観光オブジェではない一日一便の現役ポストだったのです。
●丸顔の郵便ポストや雪解道

 




ここから来た道戻ると思っていたのですが,遠回りだけど山越えがない北陸道で戻りました。富山・黒部・親不知を経て,大河ドラマのまさに御膝元である春日山城址の下をくぐって上越市へ,さらには長野・松本をとおり諏訪湖の先の茅野まで走って,ここから中央線の特急あずさで東京まで戻りました。 あの田毎の月の「姨捨」を二度通り,おまけに「親不知」までも通過するという,母には申し訳ないようなツアーでした。


かごんま日記:“ MR. ROBOTO ”= スライトリ・マッド

2009年2月23日(月)
*ドモアリガトオスカーの像春動く
Domo arigato, Mr. Roboto,
Mata ah-oo hima de
Domo arigato, Mr. Roboto,
Himitsu wo shiri tai
You're wondering who I am -- machine or mannequin
With parts made in Japan, I am the mod-ren man
I've got a secret I've been hiding under my skin
My heart is human, my blood is boiling, my brain I.B.M.
So if you see me acting strangely, don't be surprised
I'm just a man who needed someone, and somewhere to hide
To keep me alive-just keep me alive
Somewhere to hide to keep me alive
I'm not a robot without emotions-I'm not what you see
I've come to help you with your problems, so we can be free
I'm not a hero, I'm not a saviour, forget what you know
I'm just a man whose circumstances went beyond his control
Beyond my control-we all need control
I need control-we all need control
I am the modren man, who hides behind a mask
So no one else can see my true identity

今日は米アカデミー賞の発表の日。朝テレビをつけるとロサンゼルスコダックシアター前のレッドカーペットを、有名、無名のさまざまな俳優さんたちや監督たちが歩いていた。「おくりびと」のチームの面々も写ってインタビューに「ここを歩けるだけでわくわくします」と感激の面持ちを伝えている。さて蓋を開けてみると、なんと日本2冠達成のニュースが!!「おくりびと」が外国語映画賞に。
「つみきのいえ」が短編アニメ賞を受賞したではないか!?日本の作品が同時受賞したのは初めての快挙。アカデミー賞はハリウッドの映画業界関係者が選考を行うため、各賞の選出については、アメリカの国情や世相などが色濃く反映され、必ずしも芸術性や作品の完成度の高さだけでは選ばれず、カンヌ国際映画祭等とは性質を異にするのだそう。でもやっぱりオスカーをもらうというのはすごいこと!受賞すると、オスカー像と呼ばれるトロフィがもらえる。賞金はなし。オスカーは愛称。なぜオスカーなのか?いくつか説があ るが、有力なのはアカデミー賞事務局の女性職員が事務局に届いた像を見て、「自分のおじさんのオスカーに似てるわ」と言ったことが広まったという説。十字軍の剣を持った騎士を表していて、金メッキなんだって。授賞式にはスピーチがつきものであるが、シンプ ルイズベスト+ユーモアのお手本を見せてくれたのが「つみきのいえ」の加藤監督。彼のスピーチについて、次のようなコメントがあった。 
He was having an issue with his English in his acceptance speech but with just one line he nailed it. Kunio Kato said at the end of his speech "Domo arigato, Mr. Roboto." It was a perfect ending to his speech. 
訥々とした英語のスピーチだったが、受けていたなあ。"Thank you, Mr. Roboto "は1980年代の米ロックバンドのヒットソングから。彼は高校時代にロックバンドを組んでいたという音楽好きの31歳。現在勤務する映像製作会社の名前がROBOTとのこと。うーむ、なかなかやるではないか!?

*2Bの鉛筆削る春逡巡
Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Domo arigato, Mr. Roboto, domo...domo
Thank you very much, Mr. Roboto
For doing the jobs that nobody wants to
And thank you very much, Mr. Roboto
For helping me escape just when I needed to
Thank you-thank you, thank you
I want to thank you, please, thank you
The problem's plain to see: too much technology
Machines to save our lives. Machines dehumanize.
The time has come at last
To throw away this mask
So everyone can see
My true identity...
I'm Kilroy! Kilroy! Kilroy! Kilroy!

加藤久仁生監督は、鹿児島生まれ。実家が花野(けの)にある。私がやってるジャザ(運動)の先生の郁ちゃんが花野に住んでいるので、尋ねてみたら、本人を見たことはないけど、彼のお母さんは温泉のサウナ友達でよくお喋りするのよ!とのこと。彼は小さい頃から絵を描くのが大好きで。小学校時代の教科書やノートには、イタズラ描きの漫画がたくさん。玉龍高校を経て多摩美大へ。大学時代に母親に世界に1つしかない手作りの絵本をプレゼントしたことがある。大学在学中にアニメの自主制作を始める。卒業後、映像製作プロダクション「ロボット」に入社し才能が開花して行く。CGが主流の映画の中で、彼の描く鉛筆のタッチはあたたかく新鮮だ。12分の映画を作るのに8ヶ月の月日を要したらしい。アイデアに煮詰まると、ステッドラーの2Bの鉛筆を削るのだそうだ。そう言えば、彼のスピーチの中に「ありがとう、鉛筆」というのもあったな。

*“MR. ROBOTO ” by STYX (1983)より引用


■編集後記
裕明は決して走らず葱の花  葱男

「葱の花」は晩春の季語なので、この句を詠むのは一月早かったかもしれない。

奥様の「森賀まり」氏の話によると、裕明さんは、どんな時にも決して慌てて走ったりしなかったそうである。
電車のドアが閉まりかけているときも、信号が変わりそうな時も、大人の風貌で悠然として動かない。
若くして大きな賞を採った自信からか、それとももともとそういう性格なのか、どんな大御所に会っても泰然自若として、相手に臆することがなかったようだ。

たはぶれに美僧をつれて雪解野は  裕明

揚句、最後の助詞「は」で喧々諤々、裕明ファンの俳人たちが彼の俳句を鑑賞するポイントであるが、私はこの「美僧」という言葉そのものが好きである。

今月、宗匠は「詩精神は因果律を離れて存在するもののように思えるのです。俳句は存在の意味を問題にすべきでしょうか。問題にすべきは存在そのもので、その意味ではありません。」と書いて下さった。
それから「若い頃に知り合った詩人のひとりが、『貴方はいつもなぜと問う、詩人には遠い』とうたっていました。理を支えているのは、無数の非理であるかも知れない、と考えると、彼の詩の意味が少し見えてきます。」とも。 心したい言葉である。

白魚のいづくともなく苦かりき  裕明

(文責 中島)


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