*無法投区/紅染月

〜山ひくくして迎えけり豊の秋〜


*柳人葱の地口洒落口=葱男

二六斎宗匠から川柳の話題がありましたので、今回は(喋九厘さんに対抗して)川柳と俳句のジャンル越境の試み(?)としまして俳諧味、洒脱な短詩型に挑戦してみました。

●真つ裸ふたりのボブの歌を聴く
●変幻の月詠むひとの顔の月
●秋意充つシオンよ紫苑・詩音・私怨
●スポルタスさて屋根付きの野球とは
●泥酔の雲水眠る枯山水
●真実や語りえぬとも絶句せず
●万物はギリシャにありて水の秋
●赤・青・白・龍鵬(おおとり)も国の技
●雅び寂び粋も越えゆく妙技かな
●食欲も性欲も失せ入浴す
●ぬらりひょんなんじゃもんじゃとちりとてちん

顰蹙買ったらごめんなさい。


*見晴らせば温故知新の水の秋=喋九厘

温故知新とは大仰なお話を一席!
早い話が、物持ちの良い話です。
我が家には昭和39年、私が小学6年生の時に作った本立てが未だ現役で使用されている。
昭和39年は東京オリンピックの年で、下手な彫刻で五輪のマークが刻まれている。
あれから43年。かれこれ引っ越しも8回経験しているが、つい処分出来ずに、今も活躍中。
実はこの他にまだ有りで、高校時代からの机上には中学時代の引き出し付き本立ても未だ現役なのだった。
こちらは中学時代の作としてはガッチリで、やや自慢の本立てである。



写真はその昭和39年に制作の本立て。
私の唯一のデジカメ、携帯カメラでの撮影です。
銀塩フィルムが刻々と部屋を占領して行き、生活スペースが次々と占領されて行く…
40年分の鉄道雑誌、書籍が積み上がり、その重みで床が抜けるかもとそろそろカウントダウン状態…
さあ、これからどうする?と言う、ハイ、お粗末サマでした。

どこか露天風呂付き温泉ログハウスに引っ越したいなぁ。
夜な夜な星空を愛で酩酊す。
現世は甘くはありませぬか!

最後になりましたが、鉄道少年探偵団写真展及び『鉄道再発見の旅』本のご鞭撻、ご支援、誠にありがとうございました。


*2007年 豊後路へ久大線の九州横断特急=資料官

豊後路へ久大線行く横断特急 

9月に大分県へ。東京から,のぞみ乗車,小倉,博多経由でぐるっとまわって,久大線で大分入り。久しぶりの久大線全線制覇でした。特急列車の車内は由布院を目指す渋いカップルが乗車していた。定年後は奥さん孝行して由布院へ。

●曼珠沙華燃えて彼岸のこの暑さ
●柿の実をかすめて一輌列車行く
浮羽郡は柿の産地。線路のそばにもまだ青い柿の実がちらほらと。筑後吉井駅では特急ゆふいんの森号と交換。大分県に入ると今度は梨畑の中を走る。



●満員のトロッコ列車や鳳仙花
由布院ではかなりの乗客が下車して車内はガラガラとなりました。おりから,由布院南由布間を走るトロッコ列車が到着して,若い乗客たちがぞろぞろ下車していった。



●杵築てふ街はずれの駅秋暑し
目的地国東町には結局大分からバスで出かけたのですが,当初は国東の入り口杵築から行く計画を立てました。当地ご出身の方の話を聞くと,駅降りても町まで遠いし,何もないよと言われたのでこのルートはあきらめた。八戸(青森県)とか倉吉(鳥取県)とか玄関の駅が町から遠いところも他にありますが,看板駅の周辺に何もなく,町までの交通機関がさびしいのはなかなか珍しい。それでもまだ特急が停車するからまあいいかぁ・・・・・

●国東のただ平らなる秋の海
 国東の宿舎,窓を開けるとそこはまっすぐな静かな秋の海。毎朝6時過ぎには日の出を眺めることが出来た。丸い形が残る2日目の日の出が一番印象的でした。



●どっすーんと羽田着陸野分晴れ
出張中に台風9号が首都圏を通過して結構交通機関が乱れたことはテレビのニュースで見ていました。幸いなことに帰京の日飛行機はほぼ定刻に羽田着。悲しいかなローカル便,小さな飛行機はターミナルからはるか遠くに止まり,バスへ(場末)案内するアナウンスが流れたのでした。羽田空港は台風が去って晴れ間も見えていましたが,タラップを降りると横殴りの風にあおられたのでした。

●ゆふいんの森待つをとこ櫨紅葉=資料官  丘ふみ游俳倶楽部16号
11月になると久大線沿線は櫨の紅葉がすばらしい。高校1年の11月,早起きして田主丸まで久大線を走るD60の旅客列車の写真を撮りに出かけたことがあった。快晴であったが結構冷え込んおり薄着を後悔した記憶がある。
シャベ栗こと栗原プロは今年もまたこの界隈で「ゆふいんの森号」を追いかけていることでしょう。彼の久大線の近作は先般発刊した「鉄道再発見の旅」の102P〜105Pを是非ご覧いただきたい。




かごんま日記:"I WANT TO BREAK FREE"= スライトリ・マッド

2007年9月26日(水)

*鳳仙花唱歌をうたふ帰り道

I want to break free
I want to break free
I want to break free from your lies
You're so self-satisfied I don't need you
I've got to break free
God knows God knows I want to break free

今日は、県立図書館に返却のついでに、近くのかごしま近代文学館へ。市立美術館の裏手にある。1階と2階に28人の鹿児島ゆかりの作家、歌人、俳人のコーナーがあった。常設展示の2階に目を引いたものがある。杉田久女だ。久女は、信州出身の官吏であった父赤堀廉蔵、母さよの三女として、鹿児島は城山のふもと、平(ひら)の馬場で生まれ、4歳まで鹿児島の地で過ごしたそうだ。後年、出生地鹿児島と題して、望郷の念を好きな果物に託し、ザボンや橘の句を詠んでいる。以後、父親の転勤に伴って、岐阜の大垣、沖縄、台北、東京と暮らすことになるが、両親や家族の慈愛に包まれ、伸び伸びと幸せなときを過ごす。久女の強い意志や自由な気風は沖縄や台湾という外地で培われたものかもしれない。東京時代に、当時の女性としては高等教育を受ける機会が珍しかったころ、お茶の水高等女学校で学ぶ機会も得ている。久女19歳のとき、画家としての才能を有望視された東京美術学校西洋画科卒の杉田宇内に嫁ぐ。

*菊枕ゑみをください俳の神

I've fallen in love
I've fallen in love for the first time
And this time I know it's for real
I've fallen in love yeah
God knows God knows I've fallen in love

It's strange but it's true
I can't get over the way you love me like you do
But I have to be sure
When I walk out that door
Oh how I want to be free baby
Oh how I want to be free
Oh how I want to break free

久女は夫に貧乏でも絵を描いてもらいたかったらしいが、宇内は地方の旧家の出でよく言えばおっとり。ガツガツしたところがなく、小倉の中学校の終生真面目な美術教師として勤務する。しかし宇内にも芸術家としてのプライドがあったのだろう。久女と宇内の間には長年軋轢があったが、その逆境の生涯を全うする。久女が26歳のとき、俳人であった次兄の月蟾より俳句の手ほどきをしてもらい、ホトトギスに投稿するように。虚子を師と仰ぎ、熱心に句作に励む毎日。めきめきと腕を上げ、句誌の巻頭を飾り、42歳でホトトギス同人となる。が4年後突然のホトトギス除籍社告により、日野草城、吉岡禅寺洞とともに突然同人を削除される運命に。同人削除の原因については明らかにされぬまま、一般にはヒステリー、精神分裂病のうちに死んで行ったとの噂が定着してしまう。松本清張の「菊枕」、高浜虚子の「国子の手紙」、吉屋信子の「私の見なかった人」、横山白虹の「一本の鞭」などによって作り上げられ歪曲された久女像だろう。「菊枕」を読んでみたが、モデルは明らかに久女。好奇と可虐性に満ちた内容でショックだった。いくつか別の本を当たっていくうちに、、平畑靜塔、増田連、田辺聖子など、中立的な見方をしていることもわかり、ほっとする。久女の長女の俳人石晶子は母親の名誉と尊厳の回復のために一生を費やしている。俳人であり医師でもあった平畑靜塔は、直接の死因は栄養失調であると推測している。終戦後の混乱した時代に筑紫保養院という名の精神病院の個室に入れられ・・。自由を奪われ食べ物も充分に与えられず、生前に1冊の句集も出せぬまま、56歳の生涯を閉じた。

*墨のあと息づいてをり胡桃割る

But life still goes on
I can't get used to living without living without
Living without you by my side
I don't want to live alone hey
God knows got to make it on my own
So baby can't you see
I've got to break free

I've got to break free
I want to break free yeah

I want I want I want I want to break free....

近代文学館の陳列ケースの中に久女が編集した句誌「花衣」があった。表紙の中央に縦書きで「花ころも」と伸びやかな文字で墨書され、その文字を囲むような土筆に薄いパステルの水彩が施されている。すべて久女自身の手によるもの。「花衣」は5号で廃刊になったが、阿部みどり女、竹下しづの女、中村汀女、橋本多佳子、久保より江、本田あふひなど当時の代表的な女流の寄稿句が並んだというからすごい。2人の娘を育てながら、精力的に俳論を書き、橋本多佳子や中村汀女の才能を見出し、後進の育成にも努めたというから、その功績は大に違いない。自分の信じた道を突き進むしかない真っ直ぐな性格ゆえだろう。処世術に長けた橋本多佳子な どは自らホトトギスを離脱後、馬酔木へ移り自分の拠り所を見つけて行くのだが、久女にはそういう才はなかった。他の結社から誘いもあったが、移ることなく、失意のまま失速して行った。しかし、後世に残るいくつもの名句を残したことは誰も曲げられない事実である。

*"I WANT TO BREAK FREE" by QUEEN (1984)より引用


■編集後記
ケータイ小説なるものが巷で話題になっている。絵文字などを併用して、「新言文一致体」と言われているらしい。(ケータイで小説なんて、老眼鏡のいる我々などにはとても無理だと思われるので読んだ事はないけど。)
女子中高生の読者から口こみで全国にネットワークを広げ、アクセス1千万件を超す小説もあるらしい。
先頃、新垣結衣の主演で映画化された「恋空」等がその例である。

転じてインターネット俳句の隆盛が俳句界にも拡がっている。
高齢者の多い愛好家に於いて、ネットを介してコミュニケーションをとる俳句人の平均年令は、おそらく、彼等よりも大幅に若い人たちが中心となっているだろうと思われる。
また、ネット俳句に於いては、写真と句、イラストと句のコラボレーションというような新しい趣向も盛んに取り入れられていて、そういう意味では今までにない俳句の魅力を探り出そうとしているように思われる。
短冊に「書」で詠む句も棄てがたいが、肝心の字に精彩がなければただの、古臭いだけの手慰みだと思われても仕方ないだろう。どちらにしても美に対する感性が時代とともに変容しつつある事に間違いはない。
表現とはそれ自体が、おのずから「自由」を有している。 どんな方法で表現するかは(師弟間の「伝授」の方法が一冊のマニュアル本に編纂され、咀嚼される時代になってしまったとしても)、猶、各人の自由意志に任されているのである。

閑話休題。
またまた「週刊昭和タイムズ」なるものがシリーズ化されて出版されるようである。
第一回配本は「昭和39年」、東京オリンピックの年である。我ら「丘ふみ」23回生は12才。聖火ランナーが町中を走り抜けるのを道端から眺めていた記憶がある。
東京タワーが立てられ、新幹線が走り、高度経済成長が軌道に乗り、日本は将来におおきな希望を見い出していただろう。 今から43年前のその年がどんな年だったのか、よーく考えてみたいものだ。

そこから現在に繋がっている、その昭和39年の事が映画「三丁目の夕陽」の中の風景のように淡く、はかなく、美しく感じられるのは何故だろうか。
日本がそこから善く成長を遂げてきたのだ、とは決して思わない。
それはネット俳句やケータイ小説によって文学が善く成長するとは思わないのと同じである。
だが、そのネットワークのお陰で、この「丘ふみ游俳倶楽部」が成立している事を思えば、たとえ「善く成長する」事が人間社会の理想だとしても、現実とは、必ずしも理想通りに事が運ばないというのが実相だろう。
(文責 中島)


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