*無法投区/雪待月


〜去年今年ひろごる脈のようなもの〜

*京都十句=砂太

茶の蕊に佛のませる京都かな

握り飯京の外人着ぶくれて

光悦垣覆ふ紅葉の鮮(あた)らけし

ドイツ人と同じ朝飯神無月

冬の京女人和服をさりげなく

冬麗本坊僧と花談義

亡き父に羅漢は似たり冬木立

角々にお香を聞けり冬の京

鷹三峰裾(すそ)に紅葉を鏤(ちりば)めて

霜月や畑のもの皆引抜かれ


*闇夜のライダー=葱男

 もう20年以上も前の話、30代の頃の私の交通手段は「KAWASAKI−Z250」という、排気量250ccのややコンパクトなアメリカンバイクだった。

これが人馬一体とでも言いましょうか体にぴったりのサイズで、フォルムはいっちょまえにアメリカンしていて、ちょっとイージーライダー気分にもなれて、とにかくとても気に入っていた。
そんな訳だから通勤もツーリングも、どこへ行くにもいつもこのバイクと一緒。

或る夜のこと、家の近くのBARでかなり呑んでから、さあ帰宅しようと颯爽と馬(Z)に跨がり、エンジンをふかして意気揚々、裏道を走りだした。
バイクというものはみなさんご存知だろうか、自転車なんかよりもよほど安定性の高い乗り物で、特にアメリカンタイプは長距離用に仕様されているから、初心者でもすぐに「両手放し」ぐらいなら運転できるようになります。
さほどに安全な乗り物なのだが、いかんせん、その夜はアルコールがガソリンの量を遥かに超えていた。 したがってこれがまっすぐに進んでくれない。(笑)
おかしいなあ〜と、考えれば分かりそうなものだが、自分では何故まっすぐ進まないのか合点がいかない。
「何故だろう?」と考えている間に、我が愛車は私鉄電車の線路脇に張られた金網をこすりながら、そのまま100メートルも走ったところで、とうとう転んでしまった。

  馬鹿である。当たり前の話である。酔っぱらい運転なのだ。
今ではとても考えられないが、当時(80年代)、バイクは車ほど規制がきつくなかったような気がする。(言い訳ですが・・・。)
歩道を駆け抜けて行く50ccもよく見かけたし、何処に駐車しようが誰も文句を言わなかったような気がする。(これも言い訳。)いわば「自転車に毛が生えた」ような代物だというのがおおかたの認識ではなかったか。(ほんまか?)
「無茶もええ加減にせえ!」っちゅう話である。

私はところどころ破れたジーンズの間に、うっすらと血の滲む足をぼんやり眺めながら、バイクを起こすこともできずにただ夜空にかすむ冬の月を見ていた。多分、先のことは何も考えていなかったように思う。

どれくらいの時間そうして座っていただろう? 体に染み渡っている酔いが冷たい夜風に気持ちよいほどで、痛みは全然感じなかった。
ふと気がつくと、目の前のアパートからひとり、同年輩の男が下りて来て私に近づいてきた。
「大丈夫?、怪我はない? 家は何処? 近くじゃないか、それならちょっと待ってて! 送って行ってあげるから!」彼はそう言ってみずからのヘルメットを取りに部屋へ戻った。

昔のライダーはみんな男気があり仲間意識が強かったのだろう。彼は見ず知らずの私をバイクの後ろに積んで、なんと、自宅まで無事に送り届けてくれたのです。

E10ライダー。
次の日、私はそれらしい場所に戻って彼の部屋を探してみたが、ついに分からずじまいで、気がつけばもう20数年の時が流れた。

●聖夜あたりヨッパライにも主は来たり 葱男

(※この文章は、某俳句誌に依頼され、あまりにも公序良俗に反する為「没」になった原稿を大幅に改稿、修正したものです。 活字印刷になるという事はさほどに責任重大なものなのだと、編者に教えられた次第です。)


*二十年師走は博多へ二度帰る=資料官

師走に二回帰省しました。母が大きな家に独りになってしまい,色々な雑務が生じていることもあります。早々と年賀欠礼のあいさつも11月のうちに自分の分も母の分も投函してしまい,12月の仕事が減ったこともありますが,門司港の九州鉄道記念館での鉄道写真展が12月初旬から二ヶ月間開催されることになり,その写真協力をした鉄道少年探偵団諸氏全員集合の忘年会を福岡で開催することにしたこともあります。
そうこうしているうちに,田中政之さんから突然電話を頂き,もし福岡に帰ってくるなら忘年会に参加せんねとの話で,私の行動を見透かされたようでありました。おかげ様で,10月東京,11月京都,12月福岡の「丘ふみ会」三都物語を制覇することができたのでした。これはあの出ベソのシャベ栗すら成就できなかった今年を締めくくる快挙であると自己満足しております。平成20年はいろいろなことがありましたが,この師走は多くの方々と笑って過ごすことができまして,ご同席の皆様方には心から感謝申し上げる次第です。  

 
12月6日 福岡の丘ふみ忘年会 (句集参加メンバーが4人も参加) 

●まだ明日も予定表には年忘れ
●父上のジャケット羽織り年惜しむ 
●宅配の顔もなじみに十二月

12月19日に,21年3月のJR列車ダイヤ改正で東京から九州へ向かう最後のブルートレインはやぶさ富士が廃止になることが発表されました。今,門司港の九州鉄道記念館で「栄光のブルートレイン展」(写真展)を開催中でして,鉄道少年探偵団は全員で写真の協力をしています。中でも圧巻はプロシャベ栗の情緒ある大判カラー写真の数々でして,小生はレトロなモノクロ写真を少々展示しております。
またシャベ栗は50年余に渡り九州と東京とを結び走り続けたブルートレインのたくさんの思い出に感謝する『さよならブルトレ本』の出版の準備を進めているそうですが,各方面の事情もこれありで発刊は年を越すとのことだそうです。山陽新幹線博多開業前の昭和40年代がブルートレインの最盛期でしたから,大学受験や帰省に乗車した方々にとっては大変懐かしい列車ではないかと思われます。ブルートレインに思い出のある方は是非お買い求めいただきたいと思っております。

 
  「栄光のブルートレイン」のチラシ




この二度にわたる帰省の際,やるべき仕事もさておいて,シャベ栗さんたちと最後の写真撮影に出かけました。12月6日は吹雪,21日は快晴でしたが東京発熊本行寝台特急はやぶさはほぼ定刻に走り抜けたのです。筑紫野の面影を残す鹿児島本線原田駅付近通称「栗原スポット」には全国からの鉄道ファンがカメラの方列を作っておりました。

12月6日/丘23忘年会の朝/特急はやぶさ 12月21日/右の山は宝満山/特急はやぶさ



●ブルートレイン廃止のニュース蜜柑剥く

二度の帰省を終え東京に戻ってやれやれと思っていた頃に部長から締め切り通告メール頂戴しました。月末が締め切りと思い込んでいたので衝撃のメールでしたが,そのタイミングの良いこと。さすがわれわれの行動パターンを熟知している部長のなす業だと感心した次第です。師走連続の忘年会の疲れ,投句後の気が緩み等々ありで仕事納めの日には風邪の神に取り付かれておりまして,年内に選句を済ませて新年をという目論見は崩れ去ってしまったのです。

風のガーデン最終回
●老医師の最後のせりふ雪が舞う
●数え日やおっと今宵は締切日


かごんま日記:「烏百態」= スライトリ・マッド

2008年12月20日(土)

*大くしゃみ骨の恐竜動き出す

雪のたんぼのあぜみちを ぞろぞろあるく烏なり
雪のたんぼに身を折りて 二声鳴けるからすなり
雪のたんぼに首を垂れ 雪をついばむ烏なり
雪のたんぼに首をあげ あたり見まはす烏なり

ときどき、美味しいお蕎麦が食べたくなると、永吉の「ひら」という手打ち蕎麦屋に行く。今日のお昼はお蕎麦!出来上がるまで、南日本新聞の昨日の夕刊を読んでたら、『おやっとさあ』というコラムに、ひときわ目を引く美人の写真。愛場美和さん。48才。ずいぶん若く見える。鹿児島市の易居町生まれ。現在はロサンゼルス在住の美術評論家。八島太郎生誕100年展実行委員会委員長だそう。ふむふむ、2009年4月29日〜5月27日まで長島美術館で百年展ね?!絵画120点に俳句400点も展示するとのこと!絵を描き俳句も詠んだんだ。わが游俳倶楽部の葱部長みたいね?!宝山ホールに何故か恐竜の骨格標本があるのは知っていたが、なんと、八島太郎が寄贈したとも。聞いたことあるような、ないような名前の人だな。

*冬ざれの故国を捨てるジュニとトネ

雪のたんぼの雪の上 よちよちあるくからすなり
雪のたんぼを行きつくし 雪をついばむからすなり
たんぼの雪の高みにて 口をひらきしからすなり
たんぼの雪にくちばしを じつとうずめしからすなり

八島太郎は本名、岩松淳。絵本作家。明治41年生まれ。鹿児島県は大隈半島の根占(ねじめ)町出身。父は医師。東京美術学校(現・東京芸大)在学中にプロレタリア美術運動に身を投じ、軍事教練をさぼり放校処分に。小林多喜二が特高警察に虐待され、命を落としたとき、太郎は多喜二の死に顔をスケッチしている。太郎自身も何度も投獄され、同じく活動家だった妻の八島光(みつ)も身重で投獄されている。その子どもが日系アメリカ人俳優のマコ・イワマツ。映画『砲艦サンパブロ』でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた人。んま、マコ・イワマツのお父さんだったんだ。母の八島光は本名、笹子智恵(ともえ)。造船技師の父を持ち、神戸のクリスチャンの一家の次女。淳も智恵も、共に裕福な育ちに入るだろう。絵画教室でこどもたちにジュニ(淳にいさん=太郎) とトネ(智恵ねえさん=光)と慕われていた2人は、日中戦争のさ中の1939年、6才の息子マコを光の家族に預け、横浜から貨物船に乗り込み、アメリカへ亡命する。太郎30才。太郎は日本兵に向けた反戦ビラを描き、光も反戦のためのラジオ放送に携わる。まさに波乱万丈。

*市民権なんぞ要らぬと冬木かな

雪のたんぼのかれ畦に ぴよんと飛びたるからすなり
雪のたんぼをかぢとりて ゆるやかに飛ぶからすなり
雪のたんぼをつぎつぎに 西へ飛びたつ烏なり
雪のたんぼに殘されて 脚をひらきしからすなり
西にとび行くからすらは あたかもゴマのごとくなり

戦争や政治という時代の波に揉まれながら、太郎はアメリカでの暮らしに根をおろしていくが、彼は終生アメリカ国籍を取らなかった。故郷に対する強い気持ちが働いていたのではないだろうか?彼は無類の子ども好き。生きることの美しさを子どもたちに伝えることが一番の願いであったと言う。1955年に「CROW BOY」を出版し、それがアメリカ児童図書界の芥川賞と言われるコルデコット賞次席となる。「クロウボーイ」を図書館で借りて読んでみたが、懐かしい日本の僻村、おそらく故郷の根占を舞台にしたものと思われる心あたたまる物語だ。絵本は好きで結構読んでいたが、「からすたろう」は初めて。
彼はまた「やからんだ乃会」という自由律俳句の会をこよなく愛した。ヤカランダは南カリフォルニアの初夏を彩る紫色の花の名「ジャカランダ」に由来するという。連休には長島美術館に行ってみようかな。

●やっぱり弟を連れた蝉とりがいる故里
●捨てて捨てて五十年また一握りの絵筆
●乾雑魚、まだある汚れない海を匂わせてくる 太郎

*「烏百態」 by 宮沢賢治 (1933)より引用


■編集後記
2009年がスタートした。

元旦、若水を汲んで恵方(今年は甲《きのえ》の方角)に向かって顔と手を洗った。 それから例年通り、近くの神社を四つ廻る。
これでは「四社詣り」にならないか?とも思うのだが、昔からのしきたりだから大人しくそれに従う。
まずは「八幡さん」、次に「おみたけはん(御岳はん)」そして「おしめはん(御神明はん)」、最後に「和田島(この神社の所縁はよく分からない)」とよっつの神社を車で回っても半径1キロぐらいの中にある。

「おしめはん(御神明はん)」の脇の杜には名もない、朽ちかけた祠がある。
以前、沖縄の「斎場(ウタキ)」に行ったことがあるが、この祠の周りには、ウタキと同じような古代の風と光が溢れていて、神秘的なフィールドを生み出している。

毎年の初詣だが、今年は特に意識して、心を込めて柏手を拍った。
二拝してから二拍手、最後に深く一拝。
この「二拍手」が、なかなか「横綱」のようには上手く決まらない。
「気」が定まっていないのだろう。
つごう、10回ぐらい(一神社に2〜3箇所の社があるので)柏手を拍ったが、良い音が鳴ったのは2回ぐらいだった。

●初松籟ウタキの杜を揺らしけり

(文責 中島)


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