*無法投区/神無月

〜神有月ワープしかかる同窓会〜


*misstery 同窓会=入鈴

 906号室のドアが開いた。「ふは〜ーい」桂。
度、怒、ドライヤー、、、。松子はぐーっと堪える。(以前の彼女なら、そのコードで桂をぐるぐる巻きにしていたかもしれない。年の功。)
「タクシーにすべさ、少し遅れるくらいなら大丈夫だン。」松子。既に5時20分。

「ああよかったあ。なんだか頭洗ったりしてたら、こんな時間になってたのよォ。」桂。

「とにかくあまり遅れんようにせんと、シャベ栗には偉そうに教えといて、 ばつ悪いだっきゃ。」松。
「ヴ〜」押し殺す。
908号室で待つことにしたが、 待つこと30分近い!松子は慣れない人間愛に、 頑張っているせいか少し吐きそう。
もう行かないと、と桂の部屋の前に立つ。 ちょうど彼女が扉を開け、鬼瓦のような相貌で立っている松子を見ることになる。


ワイングラス タクシーはすぐに拾うことができた。
「東のトーインを行ったところの、オモヤという レストランをご存知?」松。 久ロードのメールをあれほど暗記したはずが、 いざ口をついて出たのは、たったこれだけ。
「うーん、わかりまへんな、住所を言っておくれやすか?」
「住所?あら、メールには付いてこなかったですね。とにかく東洞院を上る、そして、蛸薬師を過ぎ左手のフランス料理店なんですけど。」松。 鶴クーとも鳴かず。
後に彼女は、松子がその運転手さんの首でもしめかねない目つきだったから、と言い訳。
「住所っちゅうのが、、」ドライバー。
「なんか大丸の手前の道ですって。それ上ってくださる?」松子も食い下がる。
「上る下るより、住所のほうが、確かですねんけど、、」ド。
「あらこれだと、お池のほうでしょう?タコ、蛸薬とあそこに、タコが、、」松。
「一方通行なんですう。」タコ。 しーん。 「東のとーいんを下がってますが、、」タコ。 しーん。

「思い出したわ、なんとか公園の前だった!」桂。鶴の一声?、、、。
「それ、はよゆうてもらわんと。とにかく住所が大事。上ル入ルはあてに なりまへん。」タコ。
「(そ〜かよ〜(-。-)y-゜゜゜)その公園の名前ですが、オン、御射、おいて山公園ですかね?公園ってそれ一つでしょうね。」と詰めよる松。 「さあ、名前はようわかりまへーん。」タコ。
「あそこ、そこ、そのお向い、、ったらあ、過ぎちゃってますよ!」松。 料金のお釣りの10円をドライバーがごそごそ小銭を取り 出すのを、(いつもならおつりいいです、の一言が出ない。)ジーっと待つ。

  京に着くまでに暮けり あやめぐさ  田中裕明

6時をまわっていた。ああ、やっと二人は懐かしき麗しき面々に、対面 できるであろう。 桂も松子も、還暦を過ぎてからは髪を染めるのを止めた。 果たして、皆認知してくれるだろうか、、。 それだけが気がかり。

  なにとなく髪の白さに冬構  入鈴


*筑高同窓会/京都番外篇=葱男

■その1
11月8日、高校(県立筑紫丘高等学校第23期同級生)による同窓会が京都で開かれた。
通常は福岡で開催するのだが、2年前に一度、東京で開催して好評だったので、今年は関西でやってみたらどうだろう?という話しが「同窓会幹部」から持ち出されていた。
6月ぐらいから、どうせ関西でやるならやはり秋の「京都」が風情もあって、前後の休日に観光するにもいいだろう、というおおよその話しが出来上がった。
京都在住の同級生は私ひとり、「秋の京都」は観光シーズンのまっただ中、会場にしても宿にしても早くおさえておかないと大変だぞ!と夏ごろから思っていたのだが、なかなか本部からのゴーサインが出ず、こちらは身動きができずにやきもきしていた。
結局、はっきりとゴーサインがでたのが2ヶ月前の9月始め。
そこから会場を探し始めたのだから大変だった。(宿は個人個人で確保し、関西支部には迷惑をかけない、という話しなのだが、それで全員が宿泊施設を確保できるとはとても思えなかった。 なんせ秋の紅葉の京都である。その実態は地元でないと分からないだろう。)

まず、クリアーしなければならない問題の一番目に30名以上が集える、「京都らしい風情のある」会場を5〜6000円(飲み物込み)の予算で確保せよ!という本部からの指令である。
毎年がそのぐらいの予算で開催しているから、言わば「慣習」なのだが、福岡と京都では全く環境が違う。
おそらく、福岡で5000円の店なら、京都中心部の、交通の便が良いエリアから「町家風情」のお店を見つけるとなるとおそらく8000円は下らないだろう。
仕方なく、その程度の予算でいろいろと心当たりを探してみたのだが、やはり「ここはおすすめ!」という店は大抵予算をオーバーしてしまう。
仕方なく、行ったことのない店をそれなりの予算と風情を考慮しながら探したら、幸運にも「フレンチ o・mo・ya」さんという町家レストランがコース料理4200円、ワインとビールの飲み放題2時間で2100円で見つける事ができた。
次に、宿の情報を流し、京都で見つからない場合には高槻、新大阪、大津あたりまでのホテルなら、夜遅くなっても帰りの電車を確保できる事をお知らせする。
事実、東京なら最終21時34分京都発で23時45分東京着、博多なら21時13分発、博多着23時57分の「のぞみ」で日帰りする事も可能なのだ。
結局、最後、どうしても宿がとれない恩師と友人には自宅附近の超穴場的な(ネット上には見つからない)町家改造の和風ホテルを予約して、私と3人、師弟、仲良く一緒に泊まることにした。

●天体は動ぜず揺るる冬燈


■その2
「筑紫丘高校第23期卒業生」の集まり、通称「丘ふみ」同窓会は11月8日の午後5時半に始まる。
が、私の同窓会は、実は前日の7日の午後にすでに始まっていたのである。
高校時代、60年代後半はフォークソングの全盛で、クラスの男はみんながみんな、YAMAHAのフォークギターを持っていた。
ご多聞に漏れず、私も親にねだってYAMAHAを購入、早速ギターの練習を始めた。 少しコードが弾けるようになって来ると、これまたご多聞に漏れず、グループを結成する。
「カルピス」という甘ったるい名前の下手なバンドはもっぱらY君の自宅の家で少数の女の子ファンを前に歌った。
一番の晴舞台となったのは、(高校の文化祭のライブで自信をつけ、少し受けたものだから調子にのって出演した)RKB毎日放送のラジオ番組「レッツゴー フォーク!」という音楽番組だった。
私達高校生は番組のはじめのほうで2曲だけ歌った。その時の「トリ」が当時まだ西南大学の学生であった財津和夫氏の率いる「フォーシンガーズ」というバンドで、全曲英語で「ブラザース.フォー」や「キングストントリオ」「PPM」といったバンドのコピーをしていた。

そんな事が一回あっただけであえなく「カルピス」は自然消滅したのだが、どっこい、女の子ファンとバンドマンの関係はそれからもひそかに続いていたのである。
つまり、Y君はその後、「カルピス」のファンだった女の子と結婚をして、ふたりの女の子を産み、その娘達が5人の孫を産んで現在、若いおじいちゃん、おばあちゃんになっているのである。
そのY君が嫁さんと連れ立って7日の日に京都は遊びに来てくれたのである。
Y君は地元博多の市役所に勤めているので、毎年福岡で開かれる同窓会にはもうすでに飽きているらしく、翌日の8日は甲府の友人を訪ねるというのだから少々変わり者である。

Y君の奥様のことは実は私も中学校時代からよく知っていて、可愛らしくて大人しい、清純そのものといった感じの女の子であった。
それが今では5人の孫の面倒をみながら、市役所の事務と着物のアドバイザーという二股の仕事をこなす現役バリバリのキャリアウーマンになっているのだ。私が手描き友禅の仕事をしている事もあって、これまた不思議な御縁で、博多のきもの工房で一緒に仕事をした事もたびたび。私にとっては良いお客さまでもある、というわけ。
これが信じられないくらい若い!どう見ても30代半ばから後半ぐらいにしか見えない。
女性というものは量り知れないものである。体が小さい事もあって、今ではキュートでコケティッシュで頭の回転が早い、とても優秀で魅力的なきものアドバイザーとなっている、というお話。

Y君も歌では大成しなかったが、歌をきっかけに最高の伴侶を見つけることができたのである。

●進行性メロドラマ的冬鴎


■その3
さて、当日の8日。 お昼のランチに俳句倶楽部の9人が集まり、先生を囲んで俳句談義。ランチではさすがに後の事を考えて、みんな、ビールをセーブする。
3時からは三条通りの「京都文化博物館」で源氏千年紀にちなんだ、「染織工芸匠の技」という展覧会を見る。
ここは自分の専門領域なので、みんなにいろいろとガイドをしながらゆっくりと熟練の染織技法をこらした作品を拝見。


三人 本番の同窓会は六角堂近くの町家風フレンチレストラン。
関西組は十数名なのに、全国から集まってくれた同級生は総勢で42名、去年、地元の福岡での会よりも多い人数が集まった。
心安らぐ町家の風情、なかなか本格的なコース料理にビールとワインは飲み放題。これで会費が6300円なのだからみんな感激して一次会を終える。 8時過ぎから、そぞろ酔い加減も御機嫌にぶらぶらと河原町を下り、二次会のカラオケスナックへ。 ここに35名が参集したのだから凄い! 10名以上の人数確保という条件で貸しきりにしたお店のママはホクホク顔だっただろう。
とここまでで三軒、先生とH君とタクシーで「B&B」へ。途中のコンビニでつまみと吟醸酒の小瓶3本を買った。
「え〜〜〜、一体どんだけ呑むんや!」 と思いながら、宿に着いたらまたまた「俳句」の話に花が咲き、結局、午前2時まで呑みました。

●河岸から放つゆばりに寒月光
●冬立ちぬ宴の〆の吟醸酒


■その4
8日の同窓会の夜は先生とH君と三人で泊まり。

京都中のビジネスホテルが一杯なので、自宅近くの「B&B」を予約した。
京都は外人観光客が多いので、そんな外人向けの宿泊施設も多い。
インターネットには載っていない、裏京都の宿である。
「B&B」といっても、西陣の帯屋さんが町家を改造してホテルに仕立てた建物だから風情はあるし、高い吹き抜けの土間をまっすぐゆくと、玄関からは想像できないような広い裏庭がある。
秋明菊やら冬薔薇が咲き、いかにもイングリッシュガーデンをイメージした一面芝生の庭にはあちこちにベンチが置かれている。
私達の部屋はその庭を臨む一階の和室。一番人気の部屋である。
一室、朝食付きで11500円(ひとり4000円弱)。 この円高には外国の観光客にとっても嬉しい価格だろう。
二階は二段ベットが二つ並んだ洋室のドミトリー。こちらは3000円だそうである。 唯一残念なのは風呂がない事。
外人さんは「シャワー」があればそれで充分なのだ。

翌日、昨夜は2時まで起きていたので、普段早起きの私もさすがに6時半まで眠った。
それから少し経って先生、また30分ほどしてH君が起き出してくる。 三人で朝のイングリッシュガーデンを見てまわる。
俳人は大抵、花の名前に詳しいものだが、この三人はそうでもない。自然(他者)を己に取り込む客観写生ではなく、自己を自然(他者)に投影する主観写生派タイプにはこの手合が多い。あまりものの名前には関心が向かないのだ。

「B&B」の「おにぎり&味噌汁」のシンプルな朝食を戴く。 同宿のフランス人、オーストリア人も食事に下りて来て、ジャパニーズスタイルの朝食を味わっている。 ここに泊まるような外国人は日本の文化に興味があるインテリが多いので、「味噌汁」ぐらいならへっちゃらだ。ただ「納豆」だけは食べられないことが多い、とまかないのおばさんは言った。
みんな長逗留して、この宿を起点に「広島」ぐらいまでなら日帰りで観光してくるそうだ。 フランス人に「次ぎは何処へ行きますか?」と訊ねたら「NAHA」と答えた。「沖縄」ではなく、「那覇」である。


光悦寺 なかなか話がすすまないのでそろそろ出かけよう。
自宅の駐車場までは歩き、車で「光悦寺」へ。7日にはまだ無料だった寺の駐車場でお金を取られる。 この土日から本格的な観光シーズンに突入したという訳だ。
公式に従ってひととおり、大虚庵の光悦垣を見て、本阿弥光悦のお墓を見て、そのあと、一番景色の佳い南向きの場所から鷹ケ峯三山を臨む。南から、鷹ケ峯、鷲ケ峯、天ケ峯とだんだん高くなる。やはり鷹より鷲のほうが高く飛ぶのだろうか?
最後にまさにただ今、特別公開中の「秘蔵」の御物を鑑賞する。いつもは閉ざされているの蔵の中には垂涎の御物、本阿弥光悦、尾形光琳、高村光雲らの作品群が置かれていた。

●綿蟲の守る御蔵や光悦寺
●三人旅三山三光冬晴るる 


■その5
「光悦寺」から徒歩2分、「血天井」とふたつの窓で有名な「源光庵」に向かう。
まずは山口雪渓の襖絵や屋久杉の屏風がある小部屋の清楚なたたずまいに心を洗い、廊下から庭の景色を愛でる。
本堂へと向かう廊下には「血天井」の由来や、皇族が訪問された時の写真等が整然とならべられている。
「血天井」とは伏見・桃山の戦いのあと、血痕の残る城の床板をはがして、そのままこの寺の本堂の天井に貼ったものであり、見上げると黒ずんだ、手形、足形がところどころに浮いていて、当時の戦いの凄まじさを想起させる。


その本堂の脇にふたつ並んで開いているのが円窓と方窓。
そのふたつの窓の前に座って、庭の借景を眺めていると、ひとときはふたときになり、いつしか自分が軽い瞑想状態にある事を知る。
円いほうが「悟りの窓」、四角いほうが「迷いの窓」と呼ばれている。
 
「源光庵」のあとは鷹ケ峯の私のアトリエに寄り、仕事や作品を見てもらう。 お昼はアトリエから30歩、常連の喫茶店「KEN’S」のランチ。この店の日替わり二種類のメニューから選べる定食と、これまた二種類のパンランチ、そしてまず、コーヒーが旨い! 豆は「ソニアコーヒー」という京都は玄琢下にあるメーカーのもの。サンドイッチは表の面だけを軽く焼いてあって、私のお気に入りはヒレカツサンドかハンバーグサンドである。 添えられるポテトサラダとコールスローにかけられた自家製ドレッシングがまた旨い! コーヒー付きで880円。
 
昼食を終え、自宅へ帰ってちょっとお茶の時間。
午前中はよく歩いたので午後は近くの銭湯へゆく。
「船岡山温泉」は昔、「今宮神社」や「建勲神社」参拝の人が泊まる旅の宿だったのだが、今は建物の、大浴場部分だけを残し「風呂屋」として営業を続けている。「肉弾三銃士」の欄間や浴室に貼られたタイルは国の重要有形文化財に指定されている。
ゆっくりと檜の露天風呂に浸かり、この二日間の疲れを癒す。
 
●師と弟子と檜の露天冬ぬくし
 
入浴後に缶ビールをひと缶。ほろ酔いで自宅に帰り、昨夜の残りの日本酒を呑む。それがなくなると秘蔵の黒糖焼酎、奄美は富田酒造の「宝もん」を開ける。
またまた俳句の話しになると切りがなく、帰る時間を五時と決めてMKタクシーを予約した。
H君、焼酎の旨さについついペースがあがると、先生の一喝!
「H! ええ加減にしとかんと、帰りの新幹線で呑まれんくなるぞ!」
 
74歳! みごとなお捌きを最後に、楽しかった二日間の師弟旅は終わった。
 
●炉火消ゑてグラニュー糖の砂時計
●藪巻や胃薬に世話かけてをり 
 
 
 

*「琵琶湖周航の歌」回想の旅=資料官

 初盆の際に,父が大変お世話になった長崎大学の名誉教授のI先生から聞いた話。二次会やカラオケの最後はいつも父の「琵琶湖周航の歌」でお開きになっていた。2年前の平成18年11月2日,小浜市で開催された地域漁業経済学会に出かける道すがらそろって竹生島に出かけたが,実は父が竹生島に行くのは初めてと聞いて大変驚いた。島にある宝巌寺への二百段余の階段は登れるだろうかと気にはしていたらしいが,島に渡ると,売店のおばちゃんをからかってフィルムを買ったり,この階段も平気で登ったらしい。くしくもこの竹生島めぐりが父の最後の旅となり,帰りの11月5日伊丹発福岡行き日本航空2059便が最後の搭乗機となった。
お盆に父の机を整理していたら,引き出しいっぱいの一筆箋の中から「琵琶湖周航の歌」のものを見つけたので,形見分けのつもりでI先生にお送りした。
 
私は北陸本線の特急電車から遠くに浮かぶ竹生島の姿を垣間見た記憶があり,琵琶湖周航の歌の何番かに竹生島が出てくることは知っていたので,いつか機会があれば訪ねてみたいと思っていた。
今年の丘ふみ会京都大会は法事等々あり日程的に厳しかったので,欠席のつもりでいた。ところが,11月7日(金)に三重県津市に仕事で出かけることが決まったので,三重県まで行くならば京都は間近と思い直して急遽参加することにした。津から京都へは近鉄特急が定番であるが,急に竹生島に行きたくなって,回り道にはなるが,北近江から琵琶湖を渡って京都を目指すことにした。
 
  ●長き夜の時刻表の旅果てしなく
  ●新大阪行き新幹線で冬に入る
  ●長良川渡れば先は秋時雨
  ●関ヶ原ゆうくり越へて冬に入る
  ●黒壁の街並ぬらす秋時雨
 
11月7日金曜日仕事を終え名古屋を経て長浜城下までたどり着き投宿。翌朝,ちらりと黒壁の街並みを見てから長浜港から竹生島クルーズで竹生島へ向かった。この日は雨の予報であったが,小雨から船に乗るころには雨は上がった。高速船で竹生島上陸ののち琵琶湖西岸の今津に渡たる横断ルートである。
竹生島では船を1本遅らせて1時間40分間の滞在。同じ船で降り立った参拝客の列の最後尾を,門前の売店を抜けて宝巌寺(西国三十三ヶ所観音霊場・第三十番札所 日本三大弁財天)目指して登り,静かになるまでベンチに座って琵琶湖の湖面を眺めていた。そこからは隣にある都久夫須麻(つくぶすま)神社を周って参拝,ゆっくり港に戻った。昼近くになると長浜や今津だけでなく彦根からの遊覧船,多数の生徒を乗せた滋賀県の学習船「うみのこ」まで姿を現した。11時20分今津港に向けて出港,乗船客はなんと3名。
 
  ●しんしんと竹生島の冬はじめ
  ●山茶花の咲き始めたり竹生島
  ●立冬やはつらつ登る弁財天
  ●つくぶすま神社の小道石蕗の花
 

写真 竹生島 出港間近
船の最後尾に佇み竹生島を眺める。見上げていた島の姿がだんだん小さくなり,やがてその姿は県境の山並みと雲に埋もれていった。おおよそ30分で今津港に到着。港の横の「ひょうたん亭」という蕎麦屋で「周航そば」という色々な具が乗ったそばを昼食にした。
今津港から駅に向かう途中に「琵琶湖周航の歌資料館」があり,この歌の由来を展示しており,色々な歌い手によるこの歌を聞かせてくれる。ここで私も琵琶湖周航の歌の一筆箋(1番3番4番)を求めた。1番はおなじみの歌詞,3番は図柄がよく,4番には竹生島が登場する。

  ●冬の旅琵琶湖周航の歌の中
  ●資料館冬の旅する資料官


写真 竹生島 
  琵琶湖周航の歌
 
  作詞 小口 太郎
  原曲 吉田 千秋
 
  1 われは湖の子 さすらいの
  旅にしあれば しみじみと
  のぼる狭霧や さざなみの
  志賀の都よ いざさらば
 
  3 浪のまにまに 漂えば
  赤い泊火 なつかしみ
  行方定めぬ 浪枕
  今日は今津か 長浜か
 
  4 瑠璃の花園 珊瑚の宮
  古い伝えの 竹生島
  仏の御手に いだかれて
  ねむれ乙女子 やすらけく


写真 今津港から竹生島
今津からは湖西線を北上する特急トワイライトエクスフ゜レスを撮影する鉄の旅。この関西と札幌を結ぶ豪華寝台特急は12時に大阪を出発,日本海沿岸に沿って北海道を目指す。ほぼ同時刻に札幌に着くカシオペアが上野発16時発だから,4時間長く乗れるだけでもお得である。東京から北海道に行くのに大阪回りで行くのも面白そうだ。冬の風が冷たい近江中庄という無人駅でしばし待ち,ほぼ定刻に通過したトワイライトエクスフ゜レスを無事撮影。4両編成の敦賀発新快速で京都の丘ふみ会会場に向かう。左側に席を取り,しばし琵琶湖の姿を眺めることができた。Railwayからの琵琶湖の眺めは湖西線が一番でしょう。
 
  ●みちくさや十一月の湖西線
  ●北おろし湖西線にも無人駅
  ●こがらしや特急雷鳥通過待ち
 

写真 トワイライトエクスフ゜レス
乗った新快速でそのまま京都に向かうと,丘ふみの始まりには早過ぎるので,途中比叡山坂本で下車。だんだら坂を叡山方面に歩くこと15分ほどで,京阪電鉄坂本駅にたどり着く。
古びた家屋の蕎麦屋が並んでいたが後があるので新蕎麦は我慢して,石山行き電車に乗り浜大津下車,さらに京都市営地下鉄乗り入れ京阪京津線に乗車する。この電車が面白いのです。最初は路面を走りますが,しばらくして普通の電車の線路になり山越え,さらに山科からは地下鉄線にもぐる路線なのだ。地下鉄東西線は二条が終点と思っていたらいつの間にか太秦天神川まで路線が延びていたので,終点まで乗って一応全線乗ったことにしてから御池まで戻りそこで下車。東洞院通りを南下し,さらに時間があったので六角堂を参拝してから,17時過ぎに会場に到着しました。
 
写真 京阪浜大津駅 京都市営地下鉄東西線太秦天神川行き

 ●新蕎麦や京阪坂本駅近し
 ●京よりの丘ふみたより冬うらら
 ●0系の抜かれ抜かれて秋惜しむ
 
 今年最後の「丘ふみ游俳倶楽部」にまた父のことを書かせていただき感謝です。今月届いた九州大学経済学部の同窓会報第45号に,告別式で恥を忍んで一句披露したことが記載されていました。5年にわたる丘ふみ句会のおかげで,写真だけでなく俳句という別のスタイルで父を送ることができたと思っております。これもひとえにこういう機会を与えていただいた部長はじめ会員の皆様のおかげであると信じてやみません。
この場を借りましてあらためてこの五年間の御礼を申し上げます。ありがとうございました。 また来たる平成21年が皆様方にとりましてより良い年でありますことお祈り申し上げます。


かごんま日記:" THE SECRET MARRIAGE "= スライトリ・マッド

2008年11月19日(水)
*水烟る何処に泳ぐニシキゴイ
No earthly church has ever blessed our union
No state has ever granted us permission
No family bond has ever made us two
No company has ever earned commission

No debt was paid no dowry to be gained
No treaty over border land or power
No semblance of the world outside remained
To stain the beauty of this nuptial hour

The secret marriage vow is never spoken
The secret marriage never can be broken

先週の土曜日、三越デパートに行った。2番目の売り場で、携帯がないことに気づいた。あわてて来た道をたどり、尋ねたり、鳴らしてみたりしたが、見つからず。車にもなかった。
デパートの受付に届けを出す。帰宅後、警察にも連絡。回線停止と遠隔ロックの手続きをする。中が覗けなくなるのはよいが、持ち主もわからなくなるため、ただただ、拾った方が、お店か警察に届けてくださるのを望む。auのINFOBAR2。赤白薄いブルーのタイル模様。MoMA(ニューヨーク近代美術館)にコレクションされているデザインだ。
隠れた人気機種と聞く。ICチップを外して使う人がいるとも・・・。水没の経験はあるが、失くしたのは初めて。自分の不注意だけに意気消沈。もう絶対、小さいポケットには入れない!!4日待ったが出て来ず。やむなく警察から、遺失届の受理番号をもらい、紛失による機種変更をすることに。使い慣れていたので、同機種を希望したが、在庫なし。さようならニシキゴイ。「2千円で機種変更ができます」なんて羊頭狗肉。選択肢が1つしかなかった。使いやすければ少々古くても構わないのだが、気に入るものでなく。結局キー配列が前のものに似た新品を買いなおす破目に。トホホの5日間。携帯のない生活も不便だったが、思いのほか縛られない自由さもあるんだなと実感。

*冬紅葉「う」の抽出の切り抜きに
No flowers on the alter
No white veil in your hair
No maiden dress to alter
No Bible oath to swear

The secret marriage vow is never spoken
The secret marriage never can be broken

今朝のニュースで、鹿児島近代文学館で向田邦子展が始まると言っていた。午後時間が空いたので行ってみることに。水族館と文学館の年間パスポートを持っているので入館料は不要。
中2階の変則的な形の部屋に、邦子の写真や生原稿、洋服、愛蔵の絵や骨董品が、すてきにアレンジされ並んでいた。本やテレビのコーナーにはソファがありじっくり眺められる。初日だというのに、何が良いかって、人がいないこと!1人でじっとあれこれ眺めていたら、某新聞社の女性記者に声をかけられ話がはずんだ。向田邦子は保険会社勤務の父親の転勤で、小学校の3〜4年生の時期を鹿児島で過ごし、後に鹿児島のことを「故郷もどき」と呼び、愛着のあった土地として彼女の作品の中に鹿児島のことを度々登場させている。
近代文学館は向田邦子に関する資料を9300点所蔵している。鹿児島市は1998年に近代文学館を作るにあたり、鹿児島に所縁のある作家として、遺品の提供をお願いできないかと打診をしている。向田邦子は雑誌の編集者を経て、ドラマの放送作家として「時間ですよ」「阿修羅のごとく」「あ・うん」など人気作品を世に出す。乳がんを患ったあとエッセイを書き始め、小説家としても活躍を始める。1980年に短編小説の3編で直木賞を受賞し脚光を浴びたが、その翌年、台湾旅行中に飛行機事故で亡くなった。妹の和子氏が姉の邦子とともに東京赤坂に惣菜・酒の店「ままや」を開店し、20年近く経営してきたが1998年に店を閉じる。和子60歳。母せい90歳。邦子が亡くなって17年後。封印していた遺品の整理を始めたものの、捨てがたいものばかり、しかし誰かれにもあげれるものでなく、困っていた矢先のこと。近代文学館からの申し出に何か縁のようなものがあったのだろう。分散するよりきちんと管理してくれることを望み、邦子の遺品は、鹿児島に嫁入りすることとなる。 「霊長類ヒト科動物図鑑」に出てくる「う」の抽出もあり実物を見て感激!スチール製の整理棚の2番目の抽出が半分開けられている。「う」は、うまいものの略。食べ物の栞や切抜きがたくさん入っていた。かごんまのお菓子「春駒」のラベルも。1段目は、「スクラップ ○にT」。2段目、「○にうの字」。3段目、「本 リスト」。4段目、「アパート」。5段目、「は 切手」。葉書のことか?6段目、「○に原」。原稿かな? 7段目、「領収書」。

* ウナ電のコンヤユケヌ」ク蜜柑むく
邦子が雑誌編集者時代の仕事仲間にN氏というカメラマンがいて、彼女のポートレートは恐らく彼の手によるもの。どの写真もいい表情。彼女のよい所を存分に引き出して写っている。
彼は彼女より13歳年上の妻帯者とのこと、しかし、すでに結婚生活が破綻していたらしく、母親の住居の離れに1人で暮らしていた。邦子はその頃売れっ子の放送作家であったが、忙しい時間を縫って彼と逢っていた。邦子が彼の家に行き夕飯を作り一緒に食べ一日のことなど話をして、そして10時か11時には実家に帰るという毎日を過ごす。どんなに忙しくても愚痴一つ言わず、寝る時間を惜しんで原稿を書いたり、徹夜で洋裁をしたり、家長である父親を立て、弟や妹たちの面倒もよく見るスーパーウーマン。家族も友人も誰にも知られぬ密かな愛。今のように携帯がない時代だったからこそ、成立したのかも。お互いよきパートナーとして頼りにし、寄添い合って生きていた。彼が脳卒中の病で倒れて以来、さらに絆を強く深める。しかし彼はその後遺症で苦しみ仕事も失い、自死の道を選んでしまうが・・。残された手帳や日記、2人の間に交わされた手紙、電報が2人の強い絆を物語っている。彼はとても知的な人で彼女の仕事の大きな支えになっていたことが文面から窺える。当時の緊急の連絡手段は電報であった。至急電と記された電報の文面には 今夜行ケヌ」ク とある。ウナ電のウナは urgent のURを和文のモールス符号に当てはめるとウナになることに由来する。1976年に廃止された。今ごろ天国で2人過ごしているかなあ?!

*" THE SECRET MARRIAGE " by Sting (1987)より引用


■編集後記
「俳句界」2月号に「招待」され、早春の葱句、五句が写真入りで掲載される事になりました。まづは目出たい。(^0^)
問題は何故、私のような句歴の浅い者にお声がかかったのか、という事なのであります。
「御縁があった。」と言ってみればまさにその通りなのですが・・。

この世の中には俳句の上手い人、句歴の長い人は五万といるのに、「葱男」さんに原稿依頼があったのは何故か?
ひとつには私が月刊「俳句界」の母体である「(株)文學の森」から出版された二つの句集の装画と題字を担当したことにあります。
私の所属している大きな俳句結社「百鳥」には仲良くさせていただいているお顔馴染みの大物俳人さんがたくさんいらっしゃいます。その方達の幾人かは「(株)文學の森」」から句集を自費出版されます。「(株)文學の森」の出版事業にとって、その方々は良いお得意様でもあるのです。企画出版と自費出版の違いは分かっていただけるでしょう? 私と縁を結ぶことは、なんらか、営業上の利益を産む可能性がある、という事もあるでしょう。

もうひとつ、私は先日、企画編集部の記者宛に「丘ふみ」の記念句集を謹呈しました。 漠然とですが、宣伝の意味もありました。そして後日、その担当者から電話が来て、「記念句集」に対するお祝とお褒めの言葉を頂戴しました。そして、おもむろに、今度の原稿依頼の話しです。彼女(企画編集部記者)との会話の中に「御礼の意味も兼ねまして、原稿依頼をさせて頂きたいと思います。」というニュアンスの言葉がありました。
「葱男」は小さいながらも「丘ふみ游俳倶楽部」という俳句倶楽部の代表であり、十数名の組織のキーパーソンという訳です。「丘ふみ」が、「高校の同級生だけで作られたネット句会である」という特殊な「座」を具現化しているという点も、何かしらこれからの現代俳句市場の姿を想像させる要因になったかもしれません。
「俳句界」にとってみれば、「葱男」が使えるカードに成長するならば、いろいろな形で双方にとって良い未来が期待できる、という訳なのです。

私にとっては、これは願ってもない大きなチャンスです。
私の仕事は「絵」にしても「書」にしても「きものや帯」の製作にしても俳句の世界と多くを共有する「和の美意識」の世界を基盤としています。
それが(仕事全般が)自分の趣味(俳句)をきっかけに生まれるとすれば、これほど幸せなことはないだろう、と思います。
「丘ふみ游俳倶楽部」は私にとって、仕事を生み出してくれる源泉でもあるのです。 あらためて部員の皆さん、両先生に深謝、深謝です。<(__)>

(文責 中島)


無法投区

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