*無法投区/青水無月

〜夏惜しむ父上は大資料館〜


*悩めるオッさんの苦悩=前鰤

部長殿

あと1時間足らずで、句ができるとは思われません。今月も、失礼させてください。
いろいろと難しいことがあり、どうしてもエネルギーを集中することができません。
「悩めるオッさん」というか、人生の中には、このような時期も巡ってくるものなのですね。(6月から仕事の担当業務が変わり、右往左往しているのです。)
申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

このメールを書きながらも、何か浮かんでこないかと考え続けているのです(浮かんだら、このメールの送信はやめようと思っているのですが・・・・)が、ギブアップします。送信します。


*俳人・白川砂太=葱男

今月、砂太先生のお手紙が七月一日に届き、結果的には四十七号「丘ふみ」のノミネートには加えられませんでした。
それならこれを良い機会にとばかり(甚だ不遜ではありますが)、今月のA・B部門の砂太句を紹介しながら、少し極太砂太先生の俳句について、自分なりに常日頃感じている事など、つれづれに書いてみようかと思います。

まづは今月の句より
A部門
●父の碑を開く太郎や夏蜜柑(檀一雄の櫨の歌碑 能古島)
●妻が育て妻が揉みける胡瓜かな
●冷麦や金婚式にあと二年

一句目、砂太先生の句の基本は吟行である事が多いのですが、中でもよく題材になるのが今回の「能古島」を筆頭に、「都府楼跡」や「秋月」そして「太宰府」など。先生の句ほど、博多を中心にした九州一円の世界を身近に感じさせてくれるものはありません。
能古島は「檀一雄」という、類い稀な無頼派の作家がゆかりの土地でもあり、文学者がその詩情とイマジネーションをくすぐられる大きな要因になっている島のひとつだと言えるでしょう。
エッセイストの檀太郎は一雄の長男、女優の檀ふみは長女です。
「夏蜜柑」の句は一雄の息子「太郎」を詠んだ句、父と子の愛情とはやはり、クシュと顔を顰めるほどに甘酸っぱいものではあるまいか。
●葉桜や火宅の人の歌碑に声  (「丘ふみ」45号)
●壇一雄忌海の別れは空を見て (同34号)
●檀一雄忌献酒男の太き声   (同34号)

二句目、三句目、夫婦愛の句も先生の句。古稀を迎えてますます信頼と愛情を深めあっている夫婦の関係が伝わります。
竹を割ったような爽やかさと一本筋の通った男気が先生の魅力ですが、一方では教え子や後輩達に注ぐ暖かさは、さぞや世間の女性達の心を奪ったであろうと思われます。「夢見る詩人」という度合いでは砂太先生は、「丘ふみ」男性陣もちょっと太刀打ちできないほど抜群のロマンチスト。そんな先生だからこそ、いつまでも馴れ合うことのない関係を奥様との間に構築できたのではないでしょうか?
尊敬しあうこと、そして礼儀を忘れない事が夫婦愛の鍵ですね、諸氏。
●春終るラブロマンスの終章に(同46号)
●梅を訪ふ女人の深き後襟  (同43号)
●夏痩も病なりけり妻よ寝よ (同36号)

B部門
●四界濡れて日を恋ふ夏の空があり
●合歓の花「節」の歌碑の鍼の文字
●枯野塚青葉雫に濡れてゐし

この三句は九大医学部跡を訪ねたときの吟行句です。
吟行句には写生句だけが持ちうる不思議な「重み」というものがが備わっているものです。
それは紛うことなき現実の重みでもある訳です。

「九州大学病院構内には、世界的な業績を挙げた教授の名を付けた通りが5本あるそうだ。久保通りもそのひとつで、脇には久保猪之吉博士(1874−1939)の記念館がある。
博士の夫人より江は、四国松山市出身。松山中学で英語教師だった夏目漱石が、より江夫人の祖父宅の離れ2階に下宿、1階には正岡子規も居候していた。当時12歳だった夫人は漱石らの句会をのぞいたり、一緒に狂言に行くなど可愛がられる。明治45年3月、漱石の紹介でアララギ派歌人長塚節が、喉頭結核の治療に久保を訪ねた。以来、長塚は大正4年2月8日、37歳で亡くなるまで九大付属病院で入院や治療を繰り返した。
夫妻そろって歌人、俳人でもあった自宅は文化サロン。石炭王伊藤伝右衛門を断ち、恋の逃避行に走った柳原白蓮や杉田久女も、親しく出入りしていた。記念館近くには博士の歌碑もあるが、立体駐車場の裏手にひっそり、いまや知る人は少ない。長塚が逝去した隔離病棟、今の薬学部前あたりに彼の歌碑がたたずむ。」(九大ホームページより引用)

久保猪之吉の歌
「霧ふかき 南独逸の朝の窓 おぼろにうつれ 故郷の山」
長塚節の歌
「白銀の鍼うつごとき きりぎりす いく夜はへなば 涼しからなむ」

砂太先生の元気の源は吟行をしてよく歩き、よく自然と人を愛することにあるのでしょう。
見習うべきところはまさにこの「よく歩き、良く見、良く愛し、良く歌ふ」という人間の基本的な生命力であります。 俳句はその、命のエネルギーの表れなのであります。
●片方でかくすふぐりや猿の舞  (同31号)
●一合に酔ふて豆撒く漢なり   (同31号)
●追山笠や尻美しき男かな    (同36号)
●川下り舟につきくる恋やんま  (同39号)
●月天心車座に影なかりけり   (同39号)



*2008年 梅雨晴間の出来事=資料官

颯爽と父は彼岸へ梅雨晴間

この場を借りて御礼を申し上げます。
父の葬儀の際にはご弔問ご参列を賜り,また励ましのお言葉やメールをお送り頂きまして心から御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
仕事は休んでも丘ふみ游俳倶楽部は休むわけにはいかない,そういう気持ちで投句・選句には参加しましたが,勢い余って無法投区も続けました。このまま記念句集に使ってしまおうかなんて・・・・・・
振り返ると父の病気療養が二年に及んでいましたので,それを丘ふみ游俳倶楽部を通じて顧みることで,何らかの供養になるのではないかと思った次第です。

18年2月
●父からの電話三分余寒かな(18年3月号)
◎水○木△砂=6点
【評】(水:寡黙なお父様からの電話,,,モノクロ映画の風景みたい。)

実は,まだまだ電話を掛けるとなかなか切らない電話饒舌だったのです。

18年5月
●薔薇園の一服タバコのけむりかな(18年6月号)
●白日傘差す母のかを若く見へ(18年6月号)
久留米市石橋文化センターにて。坂本繁二郎展を見たいと言う父と,馬よりも薔薇の花が見たい母を連れて西鉄電車で久留米市へ。薔薇は見事でしたし,美術館の裏の池にはかきつばたがまさに盛り。繁二郎の絵の馬や牛もさながら優しい雲や月が心に残りました。
一方で『「なんということもなく今五月かな」「薔薇園のベンチでふかすタバコかな」,この二句は五月と薔薇園を除いて考えると,句としてどうなのか。詠んだ人が一番わかるはず。何を詩としてつたえるか,ということ』と二六先生から酷評を得,部長に慰められたこともありましたっけ。







18年7月
●甚平の父八十にして禁煙す
8月から肺腫瘍の放射線治療開始,70年近く吸っていたタバコをようやく止める。実は86歳でした。

18年9月
●福岡をひょいと素通り敬老日(18年10月号)
●星好きも汽車好きもいて虫の声(18年10月号)
ちょうど部長の展示会が川端であった頃でした。鹿児島出張の途中に福岡に寄ったのですが,お仲間との懇親会にかまけて実家には短時間滞在。シャベ栗さんの大宰府での写真展もこの頃です。まだまだ元気でして,関西方面の同窓会や学会に出かけていました。

18年12月
●初暦めくれば父も米寿かな(19年1月号)
【評】(男:いつまでも元気でいてもらいたいもの。)

19年1月
●ちちははの賀状のんびり届きけり(19年2月号)
◎前○葱△水=6点
【評】(葱:今年は郵政民営化の影響で大幅に年賀状の配達が遅れたようです。 水:確かにそうですね。)

松が過ぎてからゆっくり年賀状が届いた。父はすでに年賀状止める宣言を出しており,返事だけの対応でした。この頃から調子が悪くなり,新年早々東京に行くという話も直前に取りやめたこともあった。

20年2月
●猫柳父の禁煙八ヵ月(19年3月号)
この頃約1ヶ月間ほど入院。見舞いに帰省したが,「てっ平」でしろうおを食べ,天満宮の梅見も欠かさなかった。

20年6月
●あぢさゐやぼんやり父の書斎の灯(19年7月号)
○葱,香,砂△久,五,二=9点
【評】(葱:紫陽花のまあるい形と書斎のアンティークな灯りの対照が綺麗。隠居されて晴耕雨読の日々を過ごされている父上を想像しました。 五:父の書斎は北向きでしょうか?昔が偲ばれますね。)

●父の日の父うたた寝の昼下がり(19年7月号)
○男,入△夏,喋=6点
【評】(男:安らぎのひと時。 入:父のリフレインが効いていて,失礼かもしれないけど,子守唄のようですぐ採りました。 夏:お父様への眼差しが温かい。 葱:世の父なるものはすべからく,休日は寝るものですなあ。)

ちょうど一年前,だんだん動きが少なくなり家でじっとしていることが多くなった。たまたま父の日に帰省したもので,それを題材にして丘ふみ游俳倶楽部へ投句。

19年7月
●緑陰の温泉旅館祝いの宴(19年8月号)
●緑陰の宿のお庭の家族写真(19年8月号)
父は米寿,母は傘寿のお祝いを兄弟総出の二日市温泉大丸別荘にて泊り込んで行った。翌日は九州国立博物館の「日本のやきもの」展を見学して天満宮参道で好物の蕎麦を食べてから帰宅。台風の影響を諸々受けたが無事終了。

父の句は不評,母の句が特選に
二席
●向日葵や母背伸びしてタオル干す=資料官
◎香○雪,五,砂,君△二,木,メ,ス=15点
【評】(香:背丈を越すほどに伸びたヒマワリとお母さまとの対比がおもしろいですね。 雪:つい最近,私より背の高かった母が小さくなっていることに気づきました。なので,しみじみ読ませてもらいました。 五:向日葵の伸びたところと,母の背伸びとが,競争しているようで面白い。 君:私は年老いた母の危うい足元を想ってしまったのですが・・・。 メ:向日葵の迷路に行ってみたい。 ス:お母様に対する愛情が感じられます。)

19年9月 敬老の日
●おいそれと譲らぬ会話敬老日(19年10月号)
○葱,砂△喋,久,夏,香,メ=9点
【評】(葱:政治君たちの事でしょうかね? 夏:そうだろうな!と微笑ましく。 男:その感じ分かる。 香:おもしろい,うなずけます。 メ:わかるわかる・・)

●寝ては起き食べては眠る敬老日(19年10月号)
父と母の元気な会話も見られましたが,寝ていることが多くなってきた。鉄道少年探偵団の九州鉄道記念館(門司港)での写真展のために帰省したもの。まだまだ帰省の主目的が「鉄道」「てっ平」・・・・・・・

19年11月
●湯気たてて父の寝室賑わへり(19年12月)
○入,前=4点
【評】(資:実は新型加湿器・・・・。 入:少し離れて眺めると,湯気は人々の熱気のようでもあり。 葱:意味がよく分かりませんでした。病院?湯気は薬缶?)

19年12月  去年今年
●着ぶくれの父を待たせて墓そうじ(20年2月号)
墓参りの予定の朝,あいにく外は雪模様。父も母も墓参りには付いて行くというので,まずは完全防寒装備。めっきり痩せた父もすっかり着ぶくれ。さりとて我々が墓そうじする間は車の中で待機させた。運良く墓掃除の間は雪も止み,いかばかりかの日差しも。北風が強く線香の火をつけることに苦労したが,無事一同並んでご先祖様へのお参りを済ませることができたのです。

●年の夜やよろよろ暮らすちちははと(20年2月号)
○香△喋,君=4点
【評】(香:ほんとにどこも,老いの二人暮し。こちらのできることが少なくて…。)
この年は暦の並びも良かったので早々と福岡帰省を決めていた。知り合いに頼んで青森のホタテを送ってもらったが,太宗は父の口に入ってしまった。
いつもは早く寝るという年寄りも大晦日は紅白を最後まで見て,ゆく年くる年の番組の除夜の鐘に耳を傾けた。とうとう平成も20年,昭和も遠い昔となった実感ひしひし。

20年1月
●初夢や病んで世界を駆け巡る(20年2月号)
●連れ立ちて病院通よふ余寒かな(20年2月号)
この頃は通院以外はほとんど自宅でじっとしていることが多かった。例年の寒中見舞い作成もなかなか進まず,約250通のはがきを最後の力を振り絞って書き上げたのは2月になってからでした。

20年2月
●涅槃西風病院通ひのたより来し(20年3月号)
 月1回の通院を無事に行ったとの報せが着いた。両親だけでの通院は無理な状況で,福岡の弟が休暇をとって病院への送り迎えをするようになっていました。それでも帰りには,好物の蕎麦を食べて帰っていたようでそれが楽しみだったようです。

20年5月
●点滴も今日でおしまい窓若葉(20年6月号)
●あぢさゐや父の贔屓の手打ち蕎麦
3月からは入院生活へ。見舞いに行ってもだんだん寝ていることが多くなってきましたが,時として鮮明な会話をすることもありました。病状も悪くなったり回復したりの繰り返し,地元の兄弟は大変だったと思います。そういう私,帰省しても「鉄ちゃん」「てっ平」「父の見舞い」の三拍子は欠かさず。

20年6月
●颯爽と父は彼岸へ梅雨晴間(20年7月号)
●黴の香や水産経済論文集(20年7月号)
●父こそは大資料館黴にほふ(20年7月号)
6月22日(日)13時55分,私と母と従兄弟の3人を呼んで少し話をして,我々が食事に出ている隙にあざやかに昇天。あとしばらくはと思っていたので少々驚かされました。享年87歳






かごんま日記:「海」= スライトリ・マッド

2008年6月11日(水)
*海原へわつぜかおごじよヨットかな
今日は、20年前の1988年に今給黎教子が太平洋横断に向け、平川ヨットハーバーを出航した日。今給黎は鹿児島在住の現役のヨットウーマン。23歳のときに女性最年少単独無寄港太平洋往復横断(なんとまあ長いタイトル!!)の快挙を成し遂げる。往路70日。復路72日。142日間、海と空だけ見て、揺られ続け・・。出航後1週間目に自動操舵装置の故障に見舞われ、エンジンの故障、時化、船酔い、他船や鯨、シャチなど大きな海洋動物との衝突の危険もある、おそらく不眠不休の日もあったことだろう。位置を無線で知らせ、サポートチームの支援があるものの、いつ何時不測の事態も起きないとは限らない。幾多の困難にもめげず、ひたすら2万kmの航海を続け、生きて故郷の地を踏んだというから、まさに、わっぜかおごじょ(=すごい女性)!!何が彼女を海へと突き動かしたのだろう?

*鰹船海子と連赤き糸
今給黎(いまきいれ)の姓は、薩摩半島の枕崎しかない珍しいもの。鹿児島市内に今給黎病院という総合病院があるが、院長がやはり枕崎の出身。旧藩時代に、指宿にあった喜入(きいれ)という領地の名称がルーツらしく、分家、移転を繰り返す内に今の字がついたとのこと。教子の父、連(むらじ)は小学校の美術教師。母、海子は枕崎で代々船主で網元を張る立石家本家の二女。教子の祖父は海で遭難死しており・・。連は海子の妹の担任で訪れ、親代わりに応対した海子と出会う。
農村育ちのハンサムな青年教師と浜育ちの快活なお嬢さんは、惹かれ合い、結ばれる。文学青年でもあったロマンチストの連は「海」という詩を海子に送った。

無限の深さをたたへ
渺々として 然も大地を抱含し
万国の岸辺に波の花咲く
内に宝庫を秘め
大小船縦横の航行を扶ける。
又人心を動かし 人目をいやす
一旦 風雲襲来せば
怒涛逆巻き 巖も砕き
船もみじんに人命も絶つ
旭光を生み 落陽を呑む
偉大なるかな
海 海 海の威力よ

教子は、お父さんっ子だった。海好きの父は、毎日のように教子を海に連れて行く。スケッチをしている間に、教子は海で遊ぶ。「自然の美しさ、素晴らしさを、教えてくれたのは父です」と娘は回想している。しかし、教子が10歳のとき、父はガンで他界。中2のときに出会った「ダブ号の冒険」を暗記するほど読み、自分もいつかヨットで世界一周を!の夢を抱く。彼女が在籍した市立紫原中学校は、私が4年前非常勤講師で1年生と3年生に英語を教えていた中学校。あの制服で男子と取っ組み合いの喧嘩をしたのね。父を恋う気持ちもあったのだろう。教子の関心は、幼い頃父と過ごした海へと向かう!
ヨットに乗りたいがために、進学先を選択。就職先も同様。経済的な負担をかけたくないという気持ちから、大学には行かず、働きながらヨットに乗ることを決心する。自立心旺盛。ヨット部のある県立錦江湾高校から鹿児島市役所へ就職したものの、ただの趣味的生活では満足できず、幼い頃から描いた夢を実現するために、お役所勤めもやめてしまうとは・・・彼女の行動力には驚かされる!太平洋横断からわずか2年後に世界一周の旅に出る。

*海連の喫水線や南吹く
世界一周の航海に必要な資金は、なんと5千万円もかかった!船に3千万。改造補修に1千万。機器、食料その他に1千万。 そんなお金はない彼女。しかしあきらめない。スポンサーに頼らない個人の借金。ないお金を作り出そうとする彼女に、天は味方をしてくれたから、彼女は相当ラッキー。ただ、航海を途中で断念した場合、大きな借金を抱えてしまうことになっていた。船の名前は、父と母の名前から、1字ずつとって「海連"KAIREN"」と。1991年10月に錦江湾を出発し、天の父と陸の母に守られ、翌年の7月に無事帰港する。航海距離約3万マイル(=5万5千km)、航海日数278日、平均スピード約4,5ノット(=時速8,3km)。ちなみに現在の世界一周最速記録は2005年の英国人エレン・マッカーサーの70日。
しかしエレンは性能が格段に進歩した海の「レーザーレーサー」的高速ヨットを使っているため一概に比較はできないだろう。 教子にとっておそらく記録を樹立することが目的ではなく、ただ海に出たいの気持ちが強かったのでは?
生まれたままの格好でスコールの天然シャワーを浴びた後に天花粉をつける、おひさまが海に落ちるのを見る、 そんな些細なことに喜びを感じたんじゃないかと密かに思うのである。

*「海」 by 今給黎連より引用


■編集後記
 「丘ふみ」も4年近く続けていると、部員の周辺にもそれぞれに悲喜こもごものドラマが生まれる。
「丘ふみ」創刊から参加して頂いている資料館官殿のご尊父が亡くなられた。
この4年間、ご両親との交情の日々もその思い出はいくつか彼の句の中に詠みこまれ、今後の彼の生きてゆく過程に、なんらかの記憶とイメージを残してくれるに違いない。 歌を詠む、とはまさにそういう事でもある。
愛や記憶や懐旧や、それらをすべてひっくるめて人生を呼び起こすきっかけとなるのは、自らが作り出し、大切に保管して来た表現の標本箱である。

(文責 中島)


無法投区

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