*無法投区/聖母月

〜ひとたびのふたたびならず若葉風〜


*岡崎・吟行=葱男

オカザキ

先日の日曜日(18日)、超結社の句友達と作っているネット句会の打ち上げが岡崎で行われた。
NHK朝の連ドラ、「純情きらり」の大ファン(特に売れない絵描き役の西島秀俊が好きでした)だったので岡崎の八丁味噌工場の見学をとても楽しみにして出掛けた。

まずは、岡崎市内を流れる乙川々畔の立つホテルのスカイラウンジでランチをとる。
真下の岡崎公園の全容と、乙川を隔てて市内を一望できる絶好のビューポイントを堪能する。
鷹羽狩行の「パセリ」どころではない、城のまわりの新緑、深緑はブロッコリーほどの迫力で眼下に広がっていた。

ランチのあとは岡崎城公園を「能楽堂」や「からくり人形の時計塔」等を見ながら散策。園内の茶屋で「若葉の蔭」なる御菓子を戴いたあとは徒歩で八丁(1キロ弱)先にある味噌工場へ。
創業六百数十年を誇る味噌蔵は「まるや」と「カクキュウ」、丸と角の二軒の老舗が仲良く並んでいる。
六尺桶で300以上もの数の味噌が貯蔵されている桶には独特の円錐状の石積みが見られ、その、三角形のとんがり帽子のような形はイタリアのアルベロベッロの家の屋根、トゥルリをも彷佛とさせる。なんだか時間、空間がワンダーランドに迷いこんだような感じ。

●味噌桶のタイムマシンや夏に入る

その後は車で中心街から少し離れた、将軍家ゆかりの寺「大樹寺」へ。
御本尊の阿弥陀如来の前、本堂の柱には天下取りの戦国武将をも諭したという住職の言葉が掲げられている。
「厭離穢土 欣求浄土」
変換できないが浄土のほうの「土」の字にはちょうど「玉」と「王」の違いように点が打たれてあった。

●付点あり「欣求浄土」の葵かな

松平家、徳川家、菩提寺であるこの寺には代々の将軍の等身大の位牌が納められていて、14代までずらりと列んだ身の丈ほどのりっぱな位牌には「神儀」「尊儀」の文字が記されていた。7代将軍家継の位牌は135cm。家継は第6代将軍・徳川家宣の4男として生まれ、幼少から家新井白石より帝王学の教育を受けた。白石も利発で聞き訳が良い男の子として、その人格を認めていたという。家宣の死後、正徳3年(1713年)、4才で将軍位に、しかし正徳6年、病の床に臥し、享年わずか8才という若さで没する。

●等身大の小さき位牌や若楓

しばし、戦国の世の感慨からは離れ、静かな寺の境内を歩く。折しも、楓、松、桂などの葉は万緑に光りかがやき、小径には「羅漢のうたげ」と題された愛らしい表情の石仏が配され、そのまわりには姫女苑がいっぱい、可憐で小さな花を咲かせていた。

●境内に羅漢のうたげ姫女苑


*博多行きのぞみ最終月おぼろ=資料官

●春愁や白髪も増えし窓の顔(N700系のぞみの窓に写る自分の顔)
●とりあえず墓参りから竹落葉
●点滴も今日でおしまい窓若葉
●あぢさゐや父のひいきの手打ち蕎麦
●頑固さはおやじ譲りや青嵐(田中政之君と酒を飲む)

新幹線博多行きの五時間を,大丸の地下で買い込んだ弁当をつまみに缶ビール,車窓を眺めつつ瞑想にふけり,本の活字を眺めてはうつらうつら。こうして時間は過ぎるのです。航空機に比べて実家着は,2時間弱は余計にかかるが,博多につく頃は足腰の痛さはあるものの,頭の中はこの時間の経過でリセットされているような気がする。  しかしながら,新幹線よりも大方安い料金で航空機に乗れる現実は如何ともしがたいのです。

●藤房の揺れてかなたのひかり差す

筑紫野市武蔵寺は藤の名所。この界隈では,藤といえば武蔵寺が定番でしたが,何を隠そうここで藤を見るのは初めてだったのです。階段を上ると本堂前に大きな藤棚があり,長い長い藤房が垂れさがり風にゆらゆらと揺れているのでした。



●藤棚の中にぽつりと母ひとり
●藤房の母の顔まで垂れにけり



●買い替へしらくらくホンで藤を撮る(二日市武蔵寺)


●若葉して冷水峠の汽車の音
●リレーつばめそしてはやぶさ若葉風

この30年で昔の筑紫郡の西鉄大牟田線も鹿児島本線も沿線に住宅地が広がりその風情は大きく変わった。それでも筑紫郡の面影が残った場所を求めて列車を待つのはシャベ栗の仕事。時々鉄道少年探偵団の諸氏が声をかけてくれるので,筑紫郡の面影が残る天拝山−原田間に出かける。栗原も見城も佐賀から出てきた新原も一緒。露払いのごとくリレーつばめが通過した5分後に,寝台特急はやぶさ(東京→熊本)はわずか6両の客車を従え颯爽と通過していった。東京駅を出てから16時間後である。



写真の中央部には怪しげな車とカメラマンが写っている。最近,鉄道ブームなのか線路周辺にはカメラを抱えた御仁がやたら出没していて,いい場所でカメラを構えているといつの間にか闖入者あり。とはいへ,ご心配なく,この目障りな車も人もやがて機関車の陰に隠れてしまうのです。



●さっそうと白いかもめや姫女苑(ヒメジョオン)


かごんま日記:「僕でありたい」= スライトリ・マッド

2008年5月14日(水)

*私より彼女はうまい夏霞
朝のローカルニュースをつけていたら『きょうの動き』に「帯刀像お清め式が行われる」と。帯刀像の丁度真向かいの位置に立つ西郷隆盛像は誰が見てもわかるが、お侍姿の銅像が誰か?を知らない人は、けっこう多いのでは?筆を手に大政奉還の署名をしている像だ。お清め式と聞き、ちょっと食指が動くが、一体何時から?銅像は宝山ホール(正式名称:県文化センター、県が命名権を売って、5年間1億円で西酒造が買う!)の敷地内にある。宝山ホールに問い合わせてみたが、電話に出たおばさま、関知していませんとの返事。もしわかったら、お電話さしあげましょうと。しばらく待っても来ないので行かないことに。朝のルーティンを済ませ、昼過ぎに一旦帰宅。午後に着付け仲間のSさんとの約束がある。帯結びの展示を天文館の呉服店のショーウィンドウに名前入りでさせてもらっている。経験年数の長い彼女は上手いが、私はまだまだ。それでも発表の場を提供してくれるのだからありがたいこと。お金にはならないが練習になる。ふと留守番電話がピカピカ光っているのに気付く。「お清め式は、午後三時からです」とのメッセージ。宝山ホールと呉服屋さんは近いので行けるかな?

*琵琶の音やすぐ乾きゆく夏の水
Sさんと喫茶店で、おしゃべり休憩した後、宝山ホールに向かう。開会式が始まっていて、原口泉さんが挨拶をされていた。大河ドラマ「篤姫」の時代考証をしている大学の先生。最近売れっ子。屋外の帯刀像を前に、関係者や地元テレビや新聞記者など50名ほど。ぴかぴかの消防車も待機しているが、どうやって水をかけるのかな?興味津々。高さ約5mの銅像の周りに足場が組まれている。玄孫(やしゃご)に当たる神戸市の清酒メーカー『大関』社長橋本康男氏などが、たわしで磨き、消防車のホースの水を静かに流し拭き上げる。銅像が濡れると真っ黒になるが、すぐに乾いて行く。お酒と焼酎は兄弟みたいなものだが、焼酎の『吹上酒造』の社長も帯刀の子孫。橋本社長とは親戚関係になるらしい。お清めの後、示現流や薩摩琵琶の奉納があった。日陰で見ていると、隣に原口先生!声をかけてみると、気さくな感じのおじさんだった。ついでに質問も。「帯刀は早くに病気で亡くなったそうですが、何の病気だったのですか?」すると「わからないですね。記録に残っていないのです。肉が好きで美食家だったらしく、痛風、リューマチ系の病気かもしれませんね」とのお話。「実は今日、唐湊(とそ)の墓地に、篤姫付の老女、幾島の招魂塚が見つかったという情報が入ったんです。幾島は薩摩の出であったために、出自や生没年も隠されてて、わからず、年齢設定が難しかったんですよ。薩摩藩士の娘で63歳で亡くなったということがわかったんですよね!!結果的に松坂慶子で妥当なキャスティングだったと言えます。
幾島の実像が今出てきたのもまさに『篤姫』効果ですね?!」ちなみに松坂慶子は1952年生まれの同年代!

*新樹光安政二年旅日記
小松帯刀のトリビアが15も見つかる。1.肝付尚五郎は現在の鹿児島市役所付近にお屋敷があった領主肝付家の三男坊。良家のお坊ちゃん。2.やや虚弱体質であったが、勉学をよく好む。書、和歌、薩摩琵琶、示現流、馬術等に長けていた。3.平重盛の直系の名家、小松家の清猷が赴任地琉球で客死したため、斉彬公より小松家跡目養子を勧められ、21歳のとき小松帯刀を名乗る。4.抜擢によって若くして薩摩藩の城代家老となった帯刀は、国禁を犯し、藩のお金を支出し、英国に若者たちを留学させる。5.磯の島津邸にある尚古集成館は薩英戦争で焼失したが、帯刀が再建し、それによって今も島津700年に亘る文化遺産が残されている。6.坂本龍馬の海援隊の育ての親は帯刀。龍馬と親交が深かった。私の家から車で5分くらいの原良(はらら)の小松家別荘には龍馬夫妻も逗留。7.京都の小松邸で薩長連合、薩土盟約が結ばれ、明治維新の新政府を興す原動力となる。8.生麦事件が引き起こした薩英戦争後、帯刀は敵国の英国公使に招待状を書き、鹿児島に招き、交流を深める。明治政府の税収のない時期に、ロンドンのオリエンタル銀行より150萬ドルを借り、新政府の政治資金に充てることができた。9.京都二条城大会議で帯刀は将軍慶喜に大政奉還の決断を迫る。10.帯刀の薩州商会と長崎のグラバーの共同出資で建てた小菅修船所はのちの長崎造船所となり、日本の造船・海運業の発展の基礎を作る。11.帯刀は明治の当初の政府の中心人物であった。総裁職顧問、参与職、外国事務兼務、従四位、玄蕃頭(げんばのかみ:外務大臣)を拝命。参与という議政官の高官が、行政官の外交を兼務する例は他になかったらしい。12.しかし新政府成立後まもなく、36歳の若さで病に倒れ死去。13.帯刀には側室、お琴がいて一男一女を儲ける。正妻お千賀の死後、三人のお墓が並べられたそう。14.病気治療に莫大なお金を遣い借金を作るが、政府は帯刀の死後は借金をチャラにする覚書を残してやっている。英国に留学し成功し財を成した五大友厚は帯刀に受けた恩を忘れず、残された家族の面倒をみてやるなどした。15.帯刀は筆まめ。21歳の安政2年に君命により都から帰国するとき、克明な旅日記を残す。「水上坂(みっかんざか:家からすぐの道)の下迄八ツ前着のところ、段々迎の方も多人数にて無事を述べ、酒等少しもてば、はやし。・・・」えーっ、この道を帯刀も通ったのね!?
とちょっぴり感激。小松帯刀に関しては、西郷、大久保の陰に隠れ、あまり知られていなかったのが事実だろう。早世したものの、彼なりの生き方をした影の実力者だったのかも。いかにも人のよさそうな瑛太扮する小松帯刀が『篤姫』でどう描かれて行くのだろうか。

猫が猫であるように
犬が犬であるように
全身全霊
僕でありたい

*「僕でありたい」 by ハイポジ (1996) より引用


■編集後記
宗匠も書いておられるが、「季語に馴染む」ことのいかにむずかしい事であるか。
そこが俳句の勉強と努力なのである。
たとえば「五月晴れ」とはもともと梅雨の晴れ間の事を言うらしいが、どうもピンと来ない。
第一、六月十一〜十二日を「入梅」とし、それから30日間を「梅雨」というらしいが、その時期に「五月」の字はあまりにも似合わない。
「水無月」は「青水無月」とも言い、梅雨明けの季節(7月)に使う季語だが、梅雨の晴れ間には「青水無月」とか「青時雨」とかいう、美しく湿った語感の言葉を使いたい気持ちになる。
俳句の達人はおおよそ「季語の本意」という事をとても大切にしているが、「季語」と現代の街の自然現象との乖離はなかなか埋まらない。
吟行をしてみるとよく分かるが、その季語がその季節でないような事態に出くわす事はままある。
新暦・旧暦の差に地球温暖化がますます拍車をかけているのだろう。
三夏を、初夏、仲夏、晩夏と分けて考えるのが「連歌」から続く系譜にある「俳諧」「俳句」には必須条件なのだが、そればかりに拘泥すると今度は今を詠めなくなることも多々ありうる。うむむ、むずかしい。
もともと、農耕社会の田植えから稲刈りまでの生活秩序と、京都という一都市の四季を規範に据えて「歳事記」が出来上がってきたものだとしたら、盆前に稲刈りの始まる現代では、「季語の本意」は移ろっている。
残念ながら、生活様態も価値基準も移ろう現代日本の、さらに言えば「倭の」、「大和の民の」などに共通する美感、生活感は年代を隔てればもう存在しないと言っていい。
しかしまた、翻して考えれば幸運なことに、「丘ふみ」とはそういう意味では恵まれた共鳴空間を部員が共有している場所だという事ができるのかもしれません。
でもね、「昭和の日」はどう言い訳してみても五月の句ではありませんでしたね。(>_<)

(文責 中島)


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