*無法投区/雲居月


〜月に紗をかけて雲ゆく夜会かな〜

*写真展をやります!=喋九厘


写真展 彼岸の日千秋万歳の赤い花
宝満の天も高いと彼岸花
五月湧く裏宝満の金の水

もう秋…宝満山を借景に、彼岸花が棚田の畦を赤く染める山里があります。命の営みのイヤサカを祝福するようでもあります。
毎年5月22日の13時にだけ光が当たり、岩窟内に湧き出す岩清水が金色に染まる事から、『金の水』と呼ばれる宝満川の源流が裏宝満の8合目にあります。

先般の皆さまの高い評価は身に余る光栄で、誠にありがとうございました。
超久しぶりの快挙は、私にとって大変嬉しい出来事でした。
喋九厘こと、栗原隆司です。

実は今、さ来年春を刊行目標に、我がふるさと、宝満山の写真を2年がかりで撮り続けています。
これに関連し、下記の催しが決まりましたので、この場をお借りして皆さまにお知らせさせて下さい。

今年11月から12月にかけて九州国立博物館で、トピックス展「祈りの山 宝満山」が4F展示室で開催されるのですが、併せて私の写真展もやらせていただける事となりました。

タイトル『宝満山2009春夏』
11月17日(火曜)から23日(月曜)までの7日間のみ
九州国立博物館1Fエントランスホールにて(こちらは無料、山笠飾り山の前を予定です)

宝満山そのものの他、縁結びの神様で知られる竈門神社、周辺の里山の暮らしなど、 春の桜から彼岸花の頃までの季節の行事祭りなど、30数点を展示予定です。
宝満山頂には竈門神社上宮のお社があるのですが、ここから昇る朝日を撮りたくて旧盆の頃、5日連続で四王寺山頂で夜明けを迎えるなど、今回の撮影には力を入れています。
桜の頃から撮り始めたのですが、6か月で撮影本数が500本に近づいてます。15000シャッター以上ですか?(デジカメじゃ無く、未だフィルムカメラのアナログ機であります!)

宝満山2009春夏写真展は今年最後の連休まで展示です。特別展「古代九州の国宝」も開催中、紅葉の太宰府散策の俳句の旅ついでの時など、お立ち寄りいただけますよう、ご案内申し上げます。
丘23同窓会は11月14日土曜、福岡でと聞いてます。残念ながら日程は重なりませんでしたが、遠来の皆さまもお時間取れますならば。
写真は「祈りの山 宝満山」の案内チラシです。一応、これに使用の写真も私が撮影致しました。


*『1Q84』にまつわる出来事=葱男

「ねじまき鳥」以後、ひさしぶりの村上春樹・ものがたりの世界である。
オーム真理教に関するエッセイ等、興味あるものは読み繋いでいたから、待望の一冊であった。

1984年、私は友人とふたりでホノルルマラソンに参加、5時間30分で完走して、「FINISHER」とプリントされたTシャツと貝殻で編まれた首飾りをもらった。
当時、32歳。 〈天吾〉、〈青豆〉と同じぐらいの歳だった。

『1Q84』の主人公である〈天吾〉はNHKの集金人である父(?)に育てられる。〈青豆〉は「証人会」という宗教を信仰する父母に育てられる。
ふたりは小学校の3〜4年生の時に同級生であり、自分と同じ匂いを持つ相手に出会い、互いに強くひかれ合う。
物語は20年後、今現在(1Q84年)のふたりのエピソードが交互に語られ、宗教団体「さきがけ」の実態と秘密に迫りながら、現代人の精神世界を多くのキャラクターに託して展開してゆく。
時代設定の1984年、まさに村上春樹も私も同時代の同じ風の中を生きていたことになる。


 <藤原新也に聞く>
9月27日の午後3時、烏丸三条の「大垣書店」に於いて、藤原新也氏のサイン会が行なわれた。

1979年、私は石油関係の業界紙の記者を辞し、インドへと初めてのひとり旅に出た。
あのころの自分の衝動がどんなものであったのか、今では何も覚えていない。ただ、私は全く社会的な人間ではなく、漠然と「小説家」のようなものになりたいと憧れていた。
そして、できることならすべての困難な問題を一気に解決してくれるグル(導師)のような存在を求めていたのかもしれない。
例えばバグワン・シュリ・ラジニーシのような、もしかしたら麻原彰晃のような。

それから4年後の1983年、『東京漂流』という一冊の本が出版され、「人間は犬に喰われるほど自由だ」という衝撃的なアンソロジ−と、ガンジス河の中洲で野良犬が死んだ人間の足に食らい付いている一枚の写真が日本中にセンセーションを巻き起こした。60〜70年代の13年間、全東洋の街道を踏破した藤原さんは「東京漂流」以後は基本的に日本にとどまり、バブル崩壊から現在に至るまで、この混迷した社会に警鐘を鳴らしつづけて来たのである。
ことに金属バット事件、酒鬼薔薇少年、オーム真理教についての検証と考察は彼のライフワークといっても過言ではない。
私は著者の考え方やものの見方に大いに共鳴し、その後につづく彼の著作をことごとく読み尽くした。

1987年には二ヶ月間、スペイン、ポルトガル、モロッコを巡った。 パリ、アルル、バルセロナ、アンタルヤ、セビリア、グラナダ、アルヘシラス、タンジール、マラケシュ、リスボン、ナザレ、コインブラ、マドリッド。
1989年には大阪港から「鑑真号」に乗り、それから10ケ月の間、上海、蘇州、杭州、黄山、成都、大理、石林、麗江、海南島、香港、バンコック、アユタヤ、チェンマイ、クアラルンプル、ジョージタウン、ジャカルタ、イスタンブール、クシャダス、エフェス、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ドゥバヤジッド、テヘラン、イスファハン、などの町を巡った。
いろんな国のいろんな町ですれ違うバックパッカーはほとんど、藤原組東京漂流派か、もしくは沢木組深夜特急派に属していた。

さて、大垣書店である。
新刊「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」が発売され、今、全国いくつかの書店に於いてサイン会が催されている。
私は初めて実物の「藤原新也」を見、声を聞き、その存在の有り様を肌で感じる機会を得ることができた。

とても優しい顔、おだやかな話し方、攻撃的で先鋭なオーラはない。
新刊の裏表紙に自分の名前と「中島葱男様」という字を筆ペンで書き(自分のサインはすごく芸術的な象形だが、「葱」の字を書く時にはやや首をかしげ、「男」まで少し戸惑った様子が見えた。)、最後に親しげな顔で右手を差し出す。

「藤原さんは『1Q84』は読まれましたか?」

「僕は本は読みません。(藤原)」

「えっ?、・・・(全く予想していなかった答) そうかあ・・・、もっぱら書くほうですか・・・。旅の途中でも本を読まなかったのですか?」

「読みません。高校まではたくさんの本を読んだけれども、大学を中退して日本を旅立ったあとは旅のさなかにも本は読まなかった。(藤原)」

信じられない答である。異境の地に長く滞在してもっとも強い乾きを覚えるのは日本の食べ物でも風景でもなく「言葉」なのだ。ましてや藤原さんが旅をしてきた多くの場所には日本人の姿はほとんど見当たらなかっただろう。母国語を話す機会を持てずに何日かが過ぎると、猛烈な乾きが起こって来る。そんな時旅人は一冊の文庫本を開くのだ。そして、和漢混交の魅力的な言葉に出会い、みずからの心を潤す。

「・・・何故?(藤原)」 彼はなぜ私がそんな質問をするのかちょっぴり興味を持ったようだった。

「オームだから。」

「おもしろい?(藤原)」

「すごく面白いです!まだ四分の三しか読んでいませんが。」

「そう・・・。(藤原)」
それ以上のことは何も聞かず、彼はただ楽しそうに笑った。

「どうもありがとうございました。」

一瞬、藤原さんのオーラを感じたのは「なぜ?」と問い返してきたときだった。色は銀。重厚で、強い鎧をまとったローマ戦士の兜のような銀だ。


 <1Q84読了>
現物の藤原さんと握手をしたその夜、私は『1Q84』全章を読み終えた。

翌日は早起きをして、どうしてもやっつけておかなければならない仕事を6時から9時までに済ませた。
そして昨晩読んだばかりの『1Q84』第二巻の最終、23章と24章をもう一度読み直した。
その内容と言葉と結末がどんなものであったかを再確認するためだ。
そうしないと意識はまだ白日の夢の中に放り込まれたままで、日常のリアリティを実感できないような奇妙な皮膚感覚が続いていた。
読み直した物語の最終章は昨日と何も変わりがなかった。
しかし二度目に読んだ朝のほうがその筋書きに納得することができたし、自分自身の精神もいくぶん救われたような気がした。
午前中の時間は静かな気持ちでマーラーの交響曲第3番ニ短調を聴いた。(このCDは高校時代の親友が単身赴任の大阪から東京本社へ転勤を命じられた時、ふたりだけで歓送会をした夜にくれたものです。)
最終楽章の終わり方がなんとも見事な曲である。
そして、心が少し落ち着いたところで前日に購入した藤原新也の新刊をパラパラとめくってみた。

藤原新也が100册の本を売るためにサイン会を引き受けたのではないように、私も一冊の本を買うためにサイン会に行った訳ではなかった。藤原新也は自分の読者がどんな風貌をしているのかじっくりと眺めるために全国をまわり、私は生身の彼の存在を実感するために書店へ出向いたのだ。
だからこの新刊の内容をよく知らなかったし、そこに集められたいくつかの短いストーリーにそれほどの期待をしていた訳ではない。
しかし、ことの次第は全く違っていた。
最初の物語「尾瀬に死す」を読み終えて、私はこの本の著者と『1Q84』の著者は全く同じ精神を持っていると強く感じた。

『均衡そのものが善なのだ』
1Q84:BOOK2の第11章のタイトルです。
マザはMother、ドウタはDaughter。
「空気さなぎ」を作るのはヒトの心の中に棲んでいる子供の部分:リトル・ピープル。
レシヴァは知覚するもの:情報、パシヴァは受け入れるもの:智慧。
こどもの心をもって生み出されるものには善悪の区別はない。
そしてこどもの心は大きなエネルギーに満ちている。
大人は智慧の力によって社会のバランスをとらねばならない。

●緑色の月の血を受くこどもたち 

何が善で何が悪か、なんてことは誰にもわからない。
ただ人は必要に応じて、たとえそれが他人から見れば想像もできないような奇妙な行為だとしても、みずからの精神の均衡を保つために成さなければならない事がある。
それはおそらく、藤原新也の母が亡くなった時の話と呼応しているかもしれない。
「死が訪れようとしている時、人は他者の言葉によって、あるいは自らの思いによってひとつひとつこの世の未練を取り除き、死を受け入れる心が生まれ、刃物も薬物も必要とせず自分自身で命を閉じることができるのだと、僕はそう信じます。」(「尾瀬に死す」より)
そんな風に藤原新也は言う。

「1Q84」を読み終えてあらためて考えることがあった。
これからの限られた時間の中で、私が私でありつづけるために為されるであろうこと。
『たとえそれが他人から見れば想像もできないような奇妙な行為だとしても、みずからの精神の均衡を保つために成さなければならない事。』

私はできることならパシヴァとなっていろんな月の句を詠みつづけたい。大きくて真ん丸な白い月と、小さくて歪んだ緑色の月にかかわるたくさんの月の句を。

●女子が漕ぐ月の自転車ふたりのり
●月に紗をかけて雲ゆく夜会かな
●初月夜バレ句を81/2
●指先を濡らして月の幽霊船
●πr二乗の月と吾の事情
●家なき子満月を抱くことなし
●一行の雨月200Q年
●旅ごころ手帖にしまふ後の月


*秋麗地の涯知床紀行=資料官

昭和50年春卒業して社会人となって初めての赴任地は北海道・札幌。結局5年3ヶ月北海道の住人となった。当時の職場は,特に地方はのんびりしていて,しばらくは学生生活の延長線的な生活を許容されたようだ。この間くまなく道内を徘徊,道内国鉄はほぼ乗りつくし(白糠線のみ果たせず)大方の国道も車で走り回った。同僚たちと夏は山登り冬はスキーと北海道の自然を満喫し,島と知床以外はほとんど行きつくした。
当時会社の送別会は全員で「知床旅情」を歌って送り出すのが慣わしてあり,今でも北海道時代の仲間と集まって飲み会をやると最期にはこの歌を歌っている。われわれが赴任したときはすでに加藤登紀子の歌(1971年)が流行っていたが,森繁久弥の原曲「オホーツクの舟歌」,知床旅情と違ってまた一味違う歌詞であったが,これをあの渋い声でよく聞いたものである。この歌は,昭和35年に完成した映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影の最後に,森繁が「さらば羅臼」の詩を発表し,それにギターで即席の曲を付けて歌ったものという。羅臼岳のふもとの岩尾別温泉のホテルの名前は「地の涯」という。

 【作詞・作曲】森繁久弥
1.オホーツクの海原  ただ白く凍て果て
  命あるものは  暗い雪の下
  春を待つ心 ペチカに燃やそ
  哀れ東(ひんがし)に  オーロラかなし

2.最涯(さいはて)の番屋に  命の火チロチロ
  トドの鳴く夜は いとし娘の瞼に
  誰に語らん このさみしさ
  ランプの灯(ほ)影に 海鳴りばかり

オーシコイ オーシコイ ヤレコレホイサ ノ オーシコイ

3.スズランの緑が 雪解けに光れば
  アイヌの唄声 谷間にこだます
  シレトクの春は 潮路に開けて
  舟人のかいな 海に輝く

4.オレーオレー オーシコイ  沖の声 舟歌
  秋あじだいエリャンサ  揚げる網ゃ大漁
  霞むクナシリ  我が故郷 何日の日,詣でむ
  御親(みおや)の墓に ねむれ静かに

9月のシルバーウィーク5連休に弟夫婦と二組で北海道に行くことにした。弟は百名山を制覇中であり,すでに80山程度は制覇したらしい。最近は中高年も百名山ブームだそうで,100名山登攀を目指している方々は全国にたくさんいらっしゃるらしい。鉄道の乗りつぶしはただ乗っていれば良いのであるが,登山は体力もいるし,装備する金額も馬鹿にならないし,晴れればいいが悪天候であれば的確な判断をしなければ身の危険にも及ぶ等々難易度は相当高いはずである。本人も大変であろうが,家族も色々大変なのではないかと心配してしまう。そういえば,だいぶ昔に原副部長が丘メールに九州に百名山がいくつあるかと「クイズ」を出したことがありましたが,九重山,阿蘇山,祖母山,霧島山,開聞岳,宮之浦岳しかなかった。残念ながら,我々の宝満山や英彦山は圏外でした。
今回の目標は道東の羅臼岳,斜里岳,雌阿寒岳の3山を登るというので,残った三人で知床半島あたりを徘徊しようということになった。往復の飛行機と宿泊場所とレンタカーの予約は弟に任せて,久し振りの北海道は何処に行くか色々考えた。天気次第ではあるが,知床五湖を回り,岬の先端まで回る遊覧船,知床峠に上がり国後を眺める,運がよければヒグマにも会えるか,そろそろ鮭も川を上り始めるか。などなど。

●大空より大地の秋に着陸す
●秋夕焼け知床連山染めにけり
●岩尾別温泉旅館薄紅葉

 夕方の知床連山,左は主峰 羅臼岳(1660m)明日登山予定


大型の台風は右旋回していたので秋晴れが期待されたが,弟の山登りはすべて雲の中という結果に終わった。前日ピンクの雲の下に羅臼岳をはじめとする知床連山がはっきり見えたもの,翌日は曇り強風。二つ目の斜里岳は雲の中を登り下界の展望は叶わなかったが,下山すると快晴,山頂までよく見えた。最後の雌阿寒岳は悪天候の中の登山を余儀なくされ,かろうじて山頂へ,が,翌日は快晴となり阿寒湖遊覧船の上からは雌阿寒・雄阿寒ともに美しく,空港に向う途中の双岳台からは青い空と白い雲の絶妙のコントラストを背景にこれまた絶景であった。一方,期待していた知床半島遊覧船は強風のために欠航となり,しょうがないから,まだ薄紅葉の知床五湖を熊よけの鈴をカランカランと鳴らしながら一周した。

●鮭のぼる川の岸辺に応援団
●ふるさとへ川一面に鮭のぼる
●エゾシカの夕食タイム徐行せり
●秋怒涛全便欠航のしらせあり
●秋涛や岬めぐりの船も出ず
●一湖二湖三四五湖の薄紅葉
●熊よけの鈴の音わたる秋の水
●霧晴れてはるか国後現われり

摩周湖から見る斜里岳(1545m),頂上付近は雲の中

清里町から斜里岳(1545m)先ほど下山,ようやく晴れ間


結局知床では,ヒグマの姿には遭遇せず,ただただ蝦夷鹿ばかりが道路脇までやって来てうろうろしていた。奈良公園と違い角を切らないから,なかなか立派な姿であるが,向って来られたら一大事とゆっくり通り抜けた。繁殖しすぎて樹木植物を食い荒らすので困っているとの話も聞いた。

●義妹(いもうと)は白ワイン好き酔芙蓉
●朝霧に隠れて露天風呂めぐり
●山好きは雨ニモ負ケズ濃竜胆
●あの山の果ては摩周湖ななかまど
●摩周湖のことさら青く水澄めり
●くっきりとはるか国後秋の海
●眼前にはるか国後秋の浜
●朝霧や朝一番の遊覧船
●秋冷や阿寒の山は右左
●朝霧や水面にさかさ阿寒富士
●北国の空の青さよ秋彼岸
●天高し眼下一面屈斜路湖

 オンネトーから雌阿寒(1499m),阿寒富士(1476m)昨日登山


今回は羽田−女満別往復飛行機,宿も線路からはるか遠方のところが多く,全く鉄分の補給が難しいツアーであった。唯一,斜里岳のふもとの清里町に宿泊したときだけは釧網線の線路も近く,朝食前に抜け出して1往復の列車の撮影に出かけた。それにしても北海道の鉄道の凋落振りは目に余るばかりであり,かっての本線でさえも廃止の憂き目にあい,地図上にはスカスカの線路,存続したローカル線は時刻表がスカスカの列車ダイヤとなっていた。元気なのは札幌周辺だけ。せっかく晴れて斜里岳も見えても,釧網線の列車がやって来るのは朝夕中心で,山と花だけの撮影という本当にさびしい話。まだまだJR九州ががんばっている九州の方がましだと感じたところ。

釧網線の朝の各駅停車 中斜里付近


昭和47年10月の釧網線斜里駅を発車するC58混合列車 まだまだ北海道はSL王国


かごんま日記:「赤とんぼ」= スライトリ・マッド

2009年9月25日(金)
*現るるダム底の橋秋旱

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて 見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

 今年のかごんまの夏は雨が全く降らず、その代わり毎日のように灰が降った。少雨が続いている鹿児島市周辺で、街路樹が枯れるなど、渇水の影響が出始めていると、今日のニュースで伝えていた。たしかに先日、草牟田(そうむた)のユニクロの近くの道路の街路樹、花水木の葉っぱがすっかり枯れていたなあ。植物が枯れる被害が出ているのは、繁華街のナポリ通りのほかパース通りなども。50メートル道路のナポリ通りでは、広く取ってある中央緑地帯に植えられているサツキの半分以上が葉を落とし、中には完全に枯れている株もあるらしい。8月末から今日までに計4回水かけ作業を実施。撒水車を使って、1ヶ所あたり1回につき約40トンの水を撒くのだそう。南九州市の川辺ダムでも、貯水量が激減し、運用以来最低を記録。ダム湖に沈んでいるはずの旧道に架かっていた瀬戸山橋が姿を現している。

*消防士トンボの未来思ふとき

十五でねえやは 嫁に行き
お里の 便りも 絶え果てた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

ラムサール条約登録湿地である藺牟田池(薩摩川内市祁答院:いむた池、さつませんだい市けどういん)の渇水も深刻化している。9月24日現在、貯水量は160,000立方メートルと満水時の1180,000立方メートルの1割余、最深部で4mあった水位は40cmまで低下。観光客に人気の白鳥もえさ取りに苦労したり、湖底でけがをしたりと受難続き。通常、白鳥のえさは水面にまかれるが、今は干上がった湖底を歩いて食べに来なければならず、お腹は泥べチョだ。湖底を歩く際、貝殻やガラス片などのゴミでけがをしたとみられる白鳥も いるという。新聞に真っ黒になった白鳥の写真が載っていた。早速ボランティアの手で危ないゴミなどの撤去もなされたとのこと。3年前の初冬に藺牟田池を訪れたことがあるが、白鳥や水鳥がたくさん泳いでいた。浮島で休憩中のカイツブリも。ベッコウトンボとい う名前もそのときに知った。ベッコウトンボとはその体色がべっ甲色をしているから。へえ、なぜここが国際的に注目を浴びているか?っていうと。種の保存法により絶滅のおそれのある野生動物種としてトンボ類では日本で唯一指定されている生息地保護区だからだ!そのベッコウトンボを救おうと、薩摩川内市の消防局が9〜11日、異例の放水活動を行ったとのこと。地中に潜っている幼虫のヤゴを乾燥から守るためで、放水は初めての試み。池に残る水をポンプでくみ上げ、ホースで撒く。水道水を使わないのは、池の生態系を壊す恐れがあるからだそう。オニヤンマなど一般的なトンボは卵で越冬するのに対し、初夏に産卵するベッコウトンボは早ければ10日前後でヤゴになり、冬を越す。ヤゴの間は水がないと生きていけないとされる。希少種を保護しようとする人たちの試行錯誤の取り組みが果たして実を結べるのだろうか。来年の4〜7月には、絶対ベッコウトンボが群れ飛んでくれますように。

* 「赤とんぼ」  作詞 : 三木露風、作曲 : 山田耕筰 (1927)より引用


■編集後記
人間の精神ほど脆いものはない。
せんだって中川昭一元財務大臣が亡くなった。

テレビでなんどもなんども写し出された「もうろう会見」。
衆議院小選挙区落選、比例区でも掬われず8期勤めた議員の席を失った。
気力、体力が潰えたのか、循環器系の発作で倒れたのだろう、という推測がなされている。
体からはアルコールと睡眠薬の反応が出たらしい。

まさに転落の構図である。
大の酒好きだったらしい。
同じ自民党の議員のコメントを聞いていると、性格は良いらしく、同僚の議員連中からは好かれていたようである。それほどの大悪党ではなかったのかもしれない。
それでは一体何が彼の運命をこんなに狂わせたのだろう。
マスコミか、酒か女か名声か、それとも金だろうか。

閑話休題
真夜中に宗匠からファックスが届いた。
二ヶ月振りに見る宗匠独特の文字。
残念ながら感想、句評はないが、驚いたのは今回のA部門、天位、地位の三句は全て砂太先生の句であり、「放生会」の句であったことだ。
B部門の天位も五六二三斎殿の「放生会」句。
偶然の一致か、はたまた神が引き寄せた結果だろうか?

稗搗節.(庭の山椒の木 鳴る鈴かけて. 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよ ... ) 刈干切唄. (ここの山の刈干や すんだよ ...)の発祥地 は宮崎・高千穂とある。
●ひえつきの唄に身を置く尾花かな
●稲掛けに農の括りの長き月
の二句もそろってA部門人位。
神はそこに居る。

B部門人位の4句は
●虫の声無限級数の闇に染む
●虫の音や駅から続く一本道
●一行の雨月200Q年
●稲妻の三すぢの爪は鬼のもの

どうやら神の(裁きの?)声が近づいているようである。

(文責 中島)


■消息

五六二三斎:『俳句界』10月号/「めーる一行詩」佳作。


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