*無法投区/

〜冬かもめ「漁協前」発「龍の宮」〜

*俳句と久郎兎=久郎兎

(新たな入部者が増えますように)
俳句のことですが、僕は関西一杯呑もう会(関一呑)で中島君(葱男さん)から誘われたのが始まりで最初は同窓会が盛り上がるようにと軽い気持ちで入りました。毎月6句作るのですが、自分が感じたことをすぐに携帯にメモ、17文字にして調子をつけながら、わからない時は他人の作ったものを参考に、なんとか投句しています。
今回の能古島吟行、俳句会で自分の性格を発見再認識しました。同窓会の翌日10時30分から2時間、中島君(葱男さん)、川崎さん(雪絵さん)、蛙石さん(水音さん)と4人で、能古島の海岸や集落、途中から白川先生(砂太さん)と合流して檀一雄碑などを廻りました。小旅行気分でこの植物は何とか猫がトンビが烏がとか言いながら距離にして3キロくらい歩きました。藤崎の市民センターで俳句会を2時間半、ここで俳句を完成させて選句をするのですが、この間に自分の性格の発見再認識が二つありました。
一つ目は、今考えると他の人が立ち止まってじっと見ているのを後ろから僕も無意識に見ていて、それを俳句の題材にしてるのです。選句のとき、その人は僕の句を選んでくれる確率が高くなるわけで、無意識にしてずるいというわけです。
二つ目は、自分自身は妬み嫉みがないということです。他人に対してチクショーと思ったり言ったりしたことがない。白川先生(砂太さん)が宴会にて先生所属の俳句会で自分が詠みたいけど詠めなくて他人がすんなり詠んでしまったことで「チクショー」「悔しか」と言われ、生で僕が聞いたのが初めてだったので驚きでした。僕は闘争心競争心がないんだなあと思いました。道理でスポーツが苦手であることに納得しました。


*同窓会=葱男

今年も同窓会に参加することができた。
博多での同窓会は私にとっては年に一度の慰安旅行のようなものである。
同窓会は楽しい、その理由は森田弘子さんが「丘メール」に書いていた通りである。
「記憶は引き出しから出す度に、少しずつそのイメージが変わっていく。 またしまう時にポジティブエッセンスという発酵剤がかけられて、次に引き出すときはややプラスの方向に熟成しているという・・・ (略)・・・『おいでよ! 会いたいよ!』とは言わないことにしているけど、出席して当時の記憶を引き出しから出してみてほしいといつも思っている。 きっとたくさんの引き出しが一気にあいて、若い日の気持ちが蘇るし、キラキラしていた部分も見つかるよね。 そしてまた次へつながる。」

今年の同窓会は能古島の「潮騒」という料理旅館で開かれた。
能古に渡るのは生涯で二度目のことである。初めて島で遊んだのは確か、中学の頃。当時(1965〜7年)住んでいた平尾平和町の家の隣に仲の良い大学生がいて、夏休みに彼と一緒に島でキャンプした思い出がある。あれから40年、いや、多分48年ぶりぐらいの「能古」である。

今年の5月1日、高校時代からの親友である一木正治君が突然の事故で亡くなった。
大好きなヨットレースに参加するために博多湾から釜山に向かう途中、ひどい時化に遭って落水事故にあった。彼の遺骨はヨット仲間の手によってこの博多湾に散骨された。
その海に浮かぶ島に渡って、私は彼の愛した北の海を眺めてみたかった。

能古へ渡るには地下鉄「姪の浜」駅前から島行フェリーの渡船場までバスで10分。島まではさらに船で10分。それでも乗り継ぎがうまく行けばJR「博多駅」から1時間余りで「能古島」に上陸できる。
同窓会の受付に間に合うように4時15分発の船に乗る為、フェリーの待合室にはぞくぞくと知った顔ぶれが集まってきた。みんな元気そう、そして、よく知った連中は楽しそうだったり、久しぶりに会う友達はちょっと恥ずかしそうだったり。
船に乗りこんだのは半分が同級生だった。

*
「能古島」行フェリーが「姪の浜」を出航

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真正面に能古島

博多湾岸は近年、福岡ドームや高層ビルが立ち並び、超都会的な景観を見せているが、ひとたび島に渡ると、そこはまるで時間が止まったかのように静かで鄙びた佇まいをみせている。
渡船場には土産物やと立ち飲み屋と小さな喫茶店、バス停の近くには小さな広場と何軒か、地元の魚を食べさせる古びた「料理屋」や「料理旅館」が数件並んでいるだけだ。
今年の同窓会はそのうちの一軒「潮騒」を借り切って行なわれた。

* *

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* *

島の料理旅館を借り切ったので一次会も二次会も泊まりも同じ「潮騒」。
これほど楽なプランはない、みっつとも参加した私は二次会の途中ぐらいから時間の記憶が前後して定かではないが、とにかく、最後まで徹頭徹尾楽しかったことだけは憶えている。

* 

一次会、二次会で陸へ帰る仲間たちを桟橋まで送った。
夜の渡船場から対岸に大都会博多の近代的構造建築とイルミネーションを眺め、夜空に満点の星と月を眺め、潮風は酔って火照った頬にとても気持ちが良かった。
そこにいた同級生みんなで、男女とも声を合わせて井上陽水の「能古島の片思い」を大きな声で歌った。
気が付くと、私は何故か同級生の森田弘子さんと腕を組み、心地よい、不思議な気分に浸りながら能古の海と冬の満月を眺めていた。

* 

次の日、「丘ふみ游俳倶楽部」のメンバーが数人集まって、一木君を偲びながら能古と博多の海を吟行して回った。

句会で披講されたいくつかの同窓会、能古島にまつわる句を紹介します。

●同窓会三昧所詮枯蟷螂=資料官
●熱燗や詮無きことを語りつつ=ラスカル
●片想ひ告げし二次会冬の月=五六二三斎
●潮騒の静かな朝や冬近し=メゴチ
●玄海の冬めく光波洗ふ=メゴチ
●貝殻を集めて眺む能古の秋=秋波

こうして無事、年に一度の博多詣を十分に堪能して京都に帰り、楽しかった時間を振り返りながらふと思い出したことがあった。
それは、去年の「還暦同窓会」の時のこと。一木君とふたりで小戸のヨットハーバーに「船泊まり」するために二次会を途中で抜け出し、春吉のあたりでタクシーを探していた時、不意に彼が私にこう言ったのだった。
「中島、筑高にあんな美人いたっけ、あの和服の可愛い子、お前、知ってる?」
「さあ、よく知らないけど、多分、同じクラスになったことはないと思うけど。」
会話はそこで途切れ、私達ふたりはタクシーでヨットハーバーへ行き、彼が落水したときに乗っていた「メタクサ?」というヨットに泊まり、夜中まで酒を呑みながら果てることなく語り合ったのだった。あの、青春の一時期と同じように。

「潮騒」に泊まって、同級生仲間と夜の海に出て、海と星と月を眺めながら陽水を歌い、前後の記憶のないままに気がつけば私は森田弘子さんと腕を組んで港を歩いていた。
あれはもしかしたら、と私は思う。
あれは一木君が少しだけ私の体を借りて、みんなと一緒に楽しんでいたのかもしれない。

●初雪の白髪(はくはつ)のごと君の墓=葱男


*危うし檀一雄宅 練馬区石神井町=資料官

●冬日さす島の書斎や父ニ逢はん
●ボジョレヌーボー月壷洞から見る夜景

今年の「丘ふみ会」は6年ぶりに能古島で開催された。会場の旅館「潮騒」の上の丘に作家檀一雄が晩年棲んだ家(月壺洞(げっこどう)と名づけた)が建っていたが,近年一雄の長男のエッセイストの太郎氏が能古島に移り住むにあたり,月壺洞を解き新たな家を建てたとのこと。11年前,平成12年11月能古島で開催された「丘ふみ会」に参加した時この月壺洞を見に行ったことがあった。能古渡船が島に近づくと月壺洞の屋根が見え,そこまで上ると眼下には博多湾や福岡市の奥の山並みが実によく見えたことを思い出す。この檀一雄ゆかりの家が解かれたことは残念だけど,すでに一雄が逝去してから30年の月日が流れており,月壺洞もかなり朽ち果てていたというから止むを得なかったのだろう。

*
平成12年11月25日
能古渡船入港直前,真ん中に潮騒の屋根
檀一雄の月壺洞は左手山の上あたり

*
平成12年11月25日
檀一雄の月壺洞

私が西武池袋線石神井公園に移り住んでから早くも20年になる。毎朝池のそばのマンションからまだ自然に囲まれた住宅地の中を10分ほど歩いて駅に向かう。途中にあるのが檀一雄宅,といっても今は檀ふみさんの自宅(以下「ダンフミ宅」という)。白い長い塀はバルセロナのサクラダファミリアをまねしたというシックな洋風コンクリートむき出しだったが,今は蔦がびっしりと張り付いている。この中の広い敷地にダンフミの一軒家がある。以前は兄の太郎氏の古風な二階建ての家が隣にあったが,今は取り壊されて更地になっている。正装して家に向かうダンフミ,買い物や犬と散歩のラフなダンフミなど見かけることもあるが,一雄夫人のよそ子さんの姿を見かけることがなくなった。

ダンフミ宅の敷地内を都市計画道路が通り抜ける話は檀一雄の生前からあったようだが,いよいよ計画の事業認可が下り道路拡張工事が始まっている。すでに近所の家では立退き・建替えが進み,斜め前の八重桜が綺麗な墓地も半分ほどに縮小してしまった。長年季節ごとに楽しんだ躑躅や桜などがなくなってしまったが,まだダンフミ宅がドンと残っているので,計画道路は拡張されずゆっくり歩くことはできるのである。計画道路が完成するとここがバス道路になり,南北通り抜けの交通量が増えることは間違いなく,殺伐とした通勤路になってしまう。しばらくはダンフミ宅にがんばってもらうことを期待しているこの頃である。   

*1 *
1:2009年4月11日
  ダンフミ宅のヤマザクラ
右がダンフミ宅の屋根

2:2009年4月19日
斜め前の墓地の八重桜
右は太郎さん宅の玄関

*3 *
3:2009年5月2日
太郎さんの家がある頃
八重桜は葉桜に,躑躅が満開
こんな小道がバス通りに変わってしまう

4:2008年7月6日 凌霄花の季節 正面が蔦の絡まるダンフミ宅玄関 駅から帰宅する途中の風景

*5 *
5:2009年12月30日
太郎さんの家もついに解体
向こうはダンフミ宅

6:2011年12月4日
ダンフミ宅玄関入口
右奥が八重桜の墓地  

*7 *
7:2013年11月3日
左がダンフミ宅
そばまで道路が迫ってきた

8:2013年11月3日
坂ノ下から ダンフミ宅の白い塀

*
2013年11月24日
八重桜の墓地も削られて道路に
左の白い塀はダンフミ宅

●檀ふみの家の落葉を踏みしめつ=資料官 (丘ふみ游俳倶楽部第76号)
△五=1点
(五:この実景句は資料官さんだろう。檀一雄の実家の傍にお宅があるとのことだから。檀一雄の母,高岩とみの母は原の家から嫁に行き,遠い親戚になる。高岩とみは「火宅の母の記」を書いている。檀一雄を捨てて出奔した。檀ふみには四回くらい会ったことあり。今回,無法投区に写真を掲載する。俳句はさておきになった。資料官さんも檀ふみファン? 葱:「檀ふみ」で「ふむ」かあ〜〈笑〉。)


【編集後記】

今年もあと一月。
毎年恒例にしていることがある。
それはその年に聞いた好きな音楽をセレクトして、一年の締めくくりにアルバムを作って、その年にお世話になった友人達に配ることである。
年に一度のアルバム作りは2004年の「飛天」と題されたアルバムから始まった。
2004年は初めて福岡で個展を開いた年である、「丘ふみ」の同窓会に初めて参加したのが2003年。30数年の時を越えて再び筑紫丘高校の仲間たちと再開したころだ。
そのきっかけを作ってくれたのが一木君だった。私は一木君によって、福岡に、そして高校時代に呼び戻されたのだった。それが「飛天」の年である。

2005年「神話」、2006年「PIETA」、2007年「数式」、2008年「林住期」、2009年「月讀」、2010年「初冬」、震災の2011年が「天変」、還暦を迎えた2012年が「華甲」で、このアルバムは希望者全員に配った。
そして今年、2013年・・・タイトルだけはもう決まっている、「喪失」。

失うことから逃れる術はない。
失うことを受容する覚悟を確かなものにすることしか、この先に道はない。
「人生なんてこんなもんさ」、私の好きな立川談志師匠の絶句である。

 (文責 葱男)


■風信

阿Qさん:12月15日12時半より、NHKBSプレミアム特集『心はものに狂わねど〜中西和久説教節ひとり芝居』が放映されます。必見!

君不去さん:風信あり。「俳句を”詠みたい”ではなく、”詠まなくちゃ”になってしまっていて、ちょっと、全てから離れていたくなっているのが正直なところです。」とあった。君ちゃん、ゆっくり休養してくださいね、たかが「俳句」なんだから。いつでも戻って来て下さいね、されど「俳句」なもんで。

葱男さん:

*
じぇじぇじぇじぇ〜!! みたび「徹子の部屋」に葱男の「セレネッラ」作品が登場しました!11月21日放送分、ゲストは具志堅用高さんでした。

*
クリスマス前週の18日(水)〜24日(火)、梅田阪急で「作家展」に出品します。関西方面にお住いの方、こちらへ旅行で来られる方、是非、寄ってみてください、巷の噂では今、日本で一番「梅田が熱い!」みたいです。


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