*無法投区/

〜餅花や離れし縁またくつつく〜



*還暦の豆撒く宰府天満宮=丘ふみ有志

みなさんの熱い御要望にお応えして、「節分祭」の写真を掲載させていただきます。 先日太宰府天満宮にて行なわれた「厄除祈願大祭」の壇上に年男の代表として喋九厘さんが豆撒きに参加されました。写真の撮影、提供は雪絵さんです。 この、記念すべき縁起物の写真を「丘ふみ」史上に残したいと思います。

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「福岡は21年ぶりの氷点下2.9度の朝、太宰府天満宮に行って参りました(^o^)丿
風がなかったのがせめてもの救いでしたが、豆まきが終わってから梅の花を探して 少し歩いたのですが、飛梅もまったく開いてなく冷え切った体で帰ってきました。
そのかわり豆まきの方はかなりの賑わいで、午前10時半からの始まりにもかかわら ず、それをめあての参拝者も多くいました。
でも私の方は写真を撮るのが精いっぱいで、豆は拾えませんでしたけどね!
しゃべ栗さんのお知り合いの方もたくさん来られていましたよ。
鉄仲間の方ともおひとり、お会いしました。
門司の鉄道記念館でお会いした方でした。
では、拙い写真ですが、何とかお見せできるものを送ってます^^;
余計でしたが、しゃべ栗さんとのツーショットもあります。
身長は親子のようですが、歳は同じでした(―_―)!!  雪絵 談」

「●節分の還暦同士福と鬼
 いい写真ですね。屋根の雪や氷柱がなんとも言えない。
喋九厘さんと一緒に写っている鉄仲間のブログもあわせてご覧ください。 資料官 談」

■後日談

「栗原でぇ―す♪

たくさんの反響をいただき、ビックリ!
皆々さま 誠にありがとうございました。

ちょっとウラ話をしますと…
全体では軽く1000名以上は居られたでしょう。
高い所からの見晴らしも良く、すべての人がこちらに注目してくれるのは気持ち良いものです。
ほかの年男たちも同様に言ってました。

太宰府天満宮の節分祭の午前の部は還暦の年男年女のみが、豆まきに呼ばれます。
地元の太宰府小学校卒業生で、現在の存命者だけでも150名余… 、還暦行事の梅上げの世話役会に話が来て、平日で仕事などで譲られた男女8名が決まりました。

壇上の白装束でカメラを構えているのは新聞記者の連中です。
私の左手に写っているのは筑高36回生で、西日本新聞筑紫支局長です。
あれだけ撮影していましたが、4日朝刊の節分写真は他の神社が掲載で、彼の写真は天満宮境内の梅枝に出来たつらら写真のみでしたね!

予報通りまた太宰府は雪が舞っています。
インフルエンザで太宰府小学校では学級閉鎖も。
ご自愛ください。

次は3月10日の梅上げです。
今回に味をしめ、次回の無法投句に掲載お願いしようかなです。
梅上げでは紅白の餅を配りながら、市中を練り歩きます。」


*懐かしきデカンショ節や寒明ける=五六二三斎

●寒雀喰ふてデカンショ論じあふ

今回の丘ふみ兼題句の五六二三斎の人位選である。おそらく、葱男部長の句であろう。昔の大学生が雀の焼き鳥を食べながら、デカンショを論じ合っている。貧しくとも、心は豊かであった昔が懐かしくなる一句である。デカンショとは、デカルト、カント、ショーペンハウエルというドイツ哲学者の略である。ひょんなことから、大学のコンパで歌っていたデカンショ節を思い出したので、寄稿することにした。

1.デカンショ節の云われ

ウィキぺディアによると「デカンショ節(でかんしょぶし)は、兵庫県篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる民謡であり、学生歌としても広く歌われた。篠山節、篠山デカンショ節ということもある。」とのことである。

もう少し、デカンショ節の出来た経緯を引用すると、「旧篠山藩主の青山家は、明治維新後は学問を奨励し、篠山に鳳鳴義塾等の私立の中学校を作り、その中の優秀な者は東京に寄宿舎を作り遊学させた。篠山からの遊学生は、例年、夏には千葉県の八幡の浜で過ごしていた。明治31年(1898年)の夏、宿泊先の江戸屋の二階で元藩主青山忠誠の養子青山忠允をはじめとする篠山出身の若者達が郷土の盆踊り歌を蛮声を張り上げうたっていた。それをたまたま階下に宿泊していた旧制一高の水泳部員の塩谷温達がこの歌を聞きとめ、たちまち気に入ったという。そこで、一高水泳部員達は、篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校教授)などから歌の指導をうけ、意気投合した。そして、東京に戻ってからも歌ったのであった。これによって多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まった。また、デカンショ節の歌詞の多くを亘理章三郎が作成したという伝承もある。」なるほど、当時のエリートの一高生の作であったことがわかった。

2.デカンショ節の歌詞

デカンショ節の正調の歌詞はどうやら以下の六番まであるらしい。

♪デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 
 あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
   花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
 お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
 おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

しかし、私が大学の陸上部のコンパで歌っていた時は、1番を歌ったのちに、3番を歌い、その後の歌詞は即興なのか、長い間に変遷したものであろうか?以下の2番を加えるようになっていたと記憶する。

♪どうせやるならでっかいことなされ アヨイヨイ
奈良の大仏屁で飛ばせ ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

♪どうせやるなら小さいことなされ アヨイヨイ
蚤の金玉針でつけ ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

等の替え歌が定着していた。他にも替え歌の歌詞があったかもしれないが、もう記憶にない。当時の学生に、大きな夢と繊細な神経の両方が必要であるということか?いわば、マクロの目とミクロの目を持てということだったのかもしれない。折しも、大学では、学期末試験が終わり、クラブ所属の卒業の学生の追い出しコンパがたけなわの頃である。おそらく、デカンショ節は、もう追い出しコンパでは歌われていないだろう。もう40年前のことである。還暦を皆が迎えるこの年に、丘ふみの句より、昔懐かしいデカンショ節を思い出したというわけである。皆さんの中で、デカンショ節の他の歌詞をご存じの方がおられたら、ご教示下さい。(了)


*ふるさと=葱男

とは言っても、私の故郷ではなく、妻の出身地「徳島県阿南市那賀川町」のことである。
去年の12月23日から年をまたいで今年1月の7日まで、阿南市那賀川町の国道55線沿いのカフェ・ギャラリー”TOKUSHIMA COFFEE WORKS このぶ店”で「ハンドメイドフェルト展」を開いた。

「COFFEE WORKS」は徳島で一番流行っていると評判の喫茶店である。ここの社長、小原さんとお話する機会があったが、コーヒー豆の仕入れには御自身が直接現地の農園に行って商談をするそうだ。南米のコロンビアではまだ普通に山賊が出るようで、大手商社の現地駐在員と一緒に、2cmもある防弾ガラスの入ったランドルーザ−で移動するそうだ。 そんな所で直接仕入れてきた新鮮な豆を一杯一杯ネルドリップしたコーヒーは1杯550円と(少しお高いけど)本当に美味しかった。おそらくこの60年の生涯に飲んだコーヒーの中でも、以前、江古田の「ちめんかのや」のマスターに講釈付きで淹れてもらった「橋口珈琲」とどっちがどっち、というぐらいうまかった。
天井が高く、木と漆喰で建てられたシンプルで開放的なお店の空間はとても居心地がよく、客が長居したくなるのも無理はない。ギャラリーに来て下さった多くの方々は、ランチをはさんで2〜3時間もおしゃべりをして帰るのが普通だった。

妻にはふたりの姉がいて、ひとりは阿南市のとなりの「小松島市」に住んでいる。姉妹三人が地元の小、中、高に通って学生時代を過ごしたわけだから、親戚、知人も加えるとそれはそれはもう大変な(おばさんたちの)ネットワークが地元には形成されている。おばさんたちのネットワークほど心強いものはほかにない。それこそが日本中の消費社会や経済を支えていると言っても過言ではない。彼女達の物欲、いやいや、好奇心とオシャレ心と人の良さとおしゃべり好きは、私達男性から見ると想像を絶するものがある。すごい!

私の第一のふるさとは「博多」だが、それは青春時代をその町で過ごした(小学校5年の3学期から大学卒業まで)ことによる「心のふるさと」という意味合いが強い。しかし、大学を卒業して36年も経つと、懐かしい平和町や高宮や六本松や別府の景色はさすがに大きく変わってしまった。
その点、徳島の阿南市那賀川町は結婚してから20年になるが、風景としてはほとんど変わらない。実家は那賀川の河口にほど近いところにあり、そのあたりの平野には国道をはさんで一面に田んぼが続いている。海が近く、朝夕には爽やかな風がある。遠くにはなだらかで低い山並が見える。
「田舎」とはこんな風景を言うのだと思う。そして、「田舎」に住んでいる人達の顔や心情は、私がよく知っている懐かしい「昭和」の時代の人達と全くなんにも変わっていないように思える。
情が厚く、お喋りが好きで、甘いものが大好きで、何かと言うとすぐに親戚が集まってきて、冠婚葬祭がとにかく一番の大事で、おじいちゃん、おばあちゃんを心から尊敬していて、一応は目上を立て、知り合いが何かを始めると精一杯応援してくれる、盆と正月だけは絶対に親のもとに集まり、お墓を大切にし、よく呑み、よく食べ、涙もろくて、いつも大声で笑っている。
それが「ふるさと」のひとたちであり、昭和の時代を生きてきたのひとたちの姿である。

●故郷を出でて一旗寒雀

今月の五六二三斎さんにこんな句があったが、妻の心境もたぶん、そんなところだろうと思う。まあ、「寒雀」というよりは「寒鰤」みたいですが。

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日脚伸ぶ皇居の森の空の果て*=資料官

●ひかりさす皇居の森の淑気かな
●雪晴や皇居の森をかがやかす
●日脚伸ぶ皇居の森にビルの影

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2012年1月24日
雪晴れの皇居の森と丸の内大手町のビル群
左奥は東京スカイツリー
手前は国立劇場

東京のど真ん中にある皇居の面積は115ha,そこはかっての武蔵野の面影を色濃く残しているエリアという。江戸城本丸のある東御苑は一般公開されており,さくらや花菖蒲の季節になると幾度か訪れたことがあるが,それ以外の地区は一般人が入ることはできない。
昨年3月に引っ越した平河町のビル12階からは皇居の森を俯瞰することができる。トイレと自販機のあるエリアが皇居側なので,一日何回かその風景を目にすることができる。この一年間皇居の森の四季の移ろいを楽しんませていただいた。春は桜から新緑,夏になると雲の峰。秋は月,中秋の名月や後の月がビルの上に顔を出す姿は見ごたえがある。晩秋になれば東京は一斉に銀杏の黄に埋まってしまうが,12Fからの眺めも然り。冬は雪,今年の初雪は遅かったがようやく1月後半になって雪晴れの皇居の森を見ることができた。
皇居の向こうには大手町・丸の内界隈の高層ビルが並ぶが,未だにビルの工事が視界から消えることはない。この10年間で丸ビルクラスの高層ビルが一直線に並んだことになる。その奥には東京スカイツリーが堂々鎮座,あと3ヶ月足らずで開業を迎える。
じっと眺めているといろいろなものを発見する。ぽっかり浮かぶ飛行船,羽田空港を離陸し上昇する航空機,最近,有楽町付近を通過する東海道新幹線が一瞬見えることを発見した。前の事務所からは新幹線を飽きるほど眺めることができたけど,平河町は何も見えないとあきらめていただけに,ちょっぴり嬉しい発見であった。

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若葉 2011年6月

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雲の峰 2011年8月

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冬の月 2011年12月


かごんま日記:「山の動く日」 = スライトリ・マッド

2012年2月4日(土)
*籠山はかの踏切を春渡る

山の動く日来る。
かく言へど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯だこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めて動くなる

今日は立春。とはいえ、寒い。昨日の霧島市溝辺の気温はマイナス7.7℃だった。溝辺は家から車で15分の山手にある鹿児島空港のあるところ。平地に比べると数度違うが、晴れていたものの、寒い1日だった。寒くても犬の散歩は欠かせない。今日はいつもと違うルートを行く。最近ぴったり左側について歩けるようになってきた。誰も通っていない田んぼの間の一本道では、リードを外して歩ける。途中で「座れ、伏せ」「待て」で、先に歩いて、30m位先から「さくら来い」と呼ぶと、一目散に駆けてくる。今日のルートに日豊線の踏切があったが、踏切には名前がついていて。なになに「籠山はかの踏切」か。墓?!たしかに線路沿いに集合墓地がある。籠山(かごやま)という地名が現在残っているかどうか知らないが、鹿児島の由来になったとJR隼人駅の待合室の観光ポスターにあったのを思い出す。鹿の児が多い山の幸に恵まれた地域という説もあるが、さだかではないようだ。ところで鹿児島のお墓はたいてい屋根付きなのだ。最初見たとき、えっ何で?と驚いたものだ。高台から見るとまるで小さな住宅街。なぜ屋根を付けるのかについては桜島の灰から墓石を守るため、強い日差しで供花を傷めないようになどと言われている。ご先祖さまを大切にする県民性なのかな。
桜島の爆発回数は、2009年あたりから記録更新中である。今年に入ってから1月の噴火回数はなんと188回に達した。月別の回数として過去最多の数字をマークする。ちなみに1月の爆発回数は171回。爆発は噴火の部分集合。爆発はある一定の基準を満たさないとどんなに高く噴煙をあげても爆発とは呼べないそうだ。気象台によると(1)桜島の島内で10パスカル以上か鹿児島市東郡元町の気象台で3パスカル以上の空振を観測(2)噴石、爆発音、体感空振のいずれかを観測のどちらかを満たし、噴煙を観測すると爆発になるとのこと。
1年前に300年ぶりに噴火した新燃岳のその後。昨年9月7日を最後に噴火は止まっているものの、昨年の暮れまでに再び噴火時のマグマだまりが2/3の大きさに戻っており、警戒中であるらしい。最近あちこちで地震が頻繁に起きているし、日本はいったいどうなるんだろうか?!

 *「山の動く日」 by 与謝野晶子 (1914) より引用


■編集後記

五六二三斎さんの話で思い出した。まずはすずめの話。
学生のころ(1970年代)、六本松の焼き鳥屋は大概すべてを制覇した。旨いもんのベストスリーは「立花」の豚足、「加賀八」の豚バラ、そして「とり福」の雌肝の刺身だった。すずめの丸焼きも食べた記憶がある。名前は忘れたが、九大教養部の正門から西へ、樋井川にかかる別府橋までにあった店だ。その店ではすずめだけではなく、カエルの足も焼いて食わせてくれた。たいして美味しいとは思わなかったが、なにごとも一興だと思ってひととおりいろんなものを食べた。
もっと酷いのは教養部の正門にある噴水の、中で泳いでいる緋鯉を捕まえて食ったことだ。いつもの飲み仲間4〜5人で酔っぱらって夜討ちした。
鯉は「洗い」と「鯉こく」にして酒の肴になった。「殺生」はみんな同罪だということで、みんなで包丁を握った。今でもその時の仲間とはたまに集まって飲み会を開くが、ひとりは大阪府立大学の副学長、ひとりは甲南大学の社会学の教授、ひとりはインド哲学を学んだあと、山口の実家のお寺を継いでそこの住職になっている。

つぎにデカルト、カント、ショーペンハウエル。
京都から篠山へ入るときには375号線の沿いの通称「デカンショ街道」を通って入った。まだ両親が姫路に存命だったころ、盆や正月には高速ではなく、この、篠山経由の国道を走って帰省した。京都からは国道9号線を西へ、亀岡から湯の花温泉、篠山、今田、滝野社を抜けて加古川の北から姫路に入るルートだ。旧道沿いにいくつも酒蔵や造り酒屋があって、よく「鳳鳴」という地酒を買って帰った。京都の地酒では「佐々木酒造」の「雪紫」と並んで、地元でしか手に入らないお気に入りの秘蔵酒だったが、ある時期からラベルのデザインが変わって、一般のリカーショップの棚に「鳳鳴」の名前を見るようになった。
経営者が変わって会社の方針が変わったのだろうか? 
だが、悲しいことに、わざわざ篠山まで行かなくても手に入るようになった新ラベルの「鳳鳴」は以前のような、純朴で飾らない、優しくてほのかな甘味をふくんだ慈母のような味わいを失ってしまっていた。
両親が亡くなってもう10年になる。
あれからもう「鳳鳴」を口にすることはなくなった。

ただし、大徳寺門前にある「細見酒店」が「佐々木酒造」と提携して造っている「雪紫」はこれは今でも変わらずに旨い!何かある時には必ず用意して、飲み過ぎないように「愛飲」している。
「佐々木酒造」の次男は後を継がずに役者になった「佐々木蔵之介」である。彼は、役者になる条件として、親から「蔵」の字を芸名に付けるように諭されたらしい。
「楽天」でも買えます。お薦めは純米酒の1800ml、2200円です。

 (文責 葱男)


■消息

葱男
●一尺に満たぬマリアや島の月  中島葱男
『俳句界』2月号/「雑詠」【秀逸】(角川春樹 選)
【佳作】(池田澄子、加藤耕子 選)
●黒猫の秋の翳よりはがれけり  中島葱男
『俳句界』2月号/「雑詠」【佳作】(大串 章 選)
●粋がつて懐手して逝きにけり
『俳句界』2月号/「めーる一行詩」【佳作】

砂太
●丘の上(へ)の尖塔白し照紅葉  白川砂太
『俳句界』2月号/「兼題/塔」【佳作】(大高霧海 選)

水音
●露けしや横道あれば横に入る  山下水音
『俳句界』2月号/「兼題/初」【佳作】(池田澄子、泉田秋硯、辻 桃子 選)

五六二三斎
●貼り紙の多き横丁クリスマス
『俳句界』2月号/「めーる一行詩」【佳作】

■句友のページ
俳人・金子敦の小部屋俳句と主夫の間で♪<なを>の部屋空とぶ猫俳句魂俳句と写真で綴る日記「日々好日」nemurinn主義定年再出発百歳からのブログ


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