*無法投区/神去月

〜過去帳の匂やかなりし秋の猫〜


*政庁の鬼門宝満櫨の秋=喋九厘



11月に入りますと、太宰府市内も紅葉の季節を迎えます。
大宰府政庁跡を訪ねれば、鬼門に当たる宝満山を借景に櫨の木が真っ赤な葉を揺らします。
観世音寺は楓と銀杏です。光明禅寺の庭の紅葉も良しであります。
太宰府天満宮の奥の紅葉谷も11月下旬には綺麗に色付くでしょう。
宝満山麓、内山の竈門神社も紅葉の名所です。
写真は11月4日現在の大宰府政庁跡から見た宝満山で、銀杏が色付いてます。

喋九厘こと栗原隆司です。
11月21土曜日、砂太先生を交えて太宰府の紅葉を散策する会のご案内と写真展期間中の私の予定のお知らせです。
ちょうど写真展期間が紅葉の時期と重なりますので、写真展会場にずっとはいません。
連休の22日日曜と23日月曜の14時〜17時は会場に居る予定です。
あと写真展初日の17日も同時間帯に居ます計画です。
但しこの時間内でも席を外す事がありそうです。
もしご来場ある時は私の携帯090‐1923‐9456へお電話いただけますと幸いです。

【11月21日土曜日の太宰府散策会へのお誘い】
砂太先生をお招きし、副部長殿も来場願える事となりました。

14時九博エントランス写真展会場に集合。
14時30分にはここを出発しますので、九博の他の展示見学等は先に済ませていただけますと幸いです。
あとは徒歩移動となりますので、太宰府天満宮と光明禅寺辺りを一緒に巡りたいと思います。 近くに豆腐ユバのお店があるのですが、ご希望があれば、ここで早めの夕食も良いなと考えてます。
ご参加の皆さまを募ります。当日ご参加の方は先の携帯かtabigrapher@ezweb.ne.jpへメールいただきけますと幸いです。
葱部長には丘ふみ同窓会すぐの一週間後で申し訳ありません。

九博で今月11月13日から12月20日まで開催のトピック展示「祈りの山 宝満山」の関連イベント写真展です。
タイトル『宝満山2009春夏‐祈りと山麓のくらし‐』
11月17日(火曜)から23日(月曜)まで、7日間のみ。
九州国立博物館1Fエントランスホールにて(こちらは無料、詳しくは九博HPを参照ください)

春の桜から彼岸花の頃まで、宝満山のある風景に宝満周辺の季節の行事祭りなど、大小40点を展示となりました。
特別展「古代九州の国宝」も開催中です。




*西陣町家吟行=葱男

ネット句会の仲間が京都で吟行をしたいというので、西陣在住の私がお世話役を仰せつかった。

参加者は10名。
10月18日の日曜日、午前10時、地下鉄「鞍馬口」駅出口に集合する。
天気は絶好の秋日和で陽射しが眩しいくらい。

初めて会う方も多くいらっしゃったのだが、これは俳句の世界ではよくあること。挨拶もそこそこに烏丸鞍馬口からそぞろに東へ歩き出す。
休日の京都とはいってもすこし観光地からはずれると人もまばら。道もよく掃除されていて歩くのにはもってこいの状況で、我々一行は小さな路地を下ったり上ったりしていくつかの無名の寺や昔ながらの長屋の風情、面白い店など気ままにひやかしながら歩いた。
そして侘び茶の聖地、今日庵、不審庵の界隈へ、それから最初の目的地である「茶道資料館」へと向かう。

途中、「無學寺」という一風変わった名前のお寺で詠んだ句。
「緊急時、電気ショック療法のための機械がここに備えられています」という意味の「AED」の標識が正門脇の通用門の上に掲げてあった。

●木賊刈る無學寺の門AED

「茶道資料館」は入場料800円。
少し高いな、と思ったのだが、最後にお抹茶と和菓子の接待があり、お軸や茶碗、お花の説明なども伺えたのでこれには納得。

資料館には流石に表千家、裏千家の地元というだけあって素晴らしいお茶道具がたくさん陳列されていて、代々の家元や交流のあった寺の住職の書など、大変興味深く拝見した。

その中で面白いと思った「書」のお軸。
今日庵の××代宗匠の文字。
小さく歌を詠んだその下の余白に「忍」の一文字、その文字を達磨の形に似せてまるで「達磨の絵」のように書いていた。
この「忍だるま」こそ、禅宗の教えや「茶の心」に通じる「侘び寂び」の世界観を象徴しているのだろう。
私も書は好きで、無手勝流の文字の象形を遊ぶのだがこれは面白いアイデアである。

●ひょんの實や忍だるまの坐る場所

美しい堆朱の茶道具や南宗時代の素晴らしい「天目茶碗」、不審庵の裏庭から移築された茶室などを拝見したあと、お庭へでてみる。
杉、桜、竹、熊笹とシンプルな庭のしつらえだが、それ自体が大きな活け花のように天地人に配されていてなかなか絵になっている。
そのお庭を眺めながらお茶を戴く。
茶碗は楽茶碗、伊万里焼などのほかにも珍しく、元総理の細川護煕氏の作品も使われていた。

●護煕の碗にいただく竹の春

「竹の春」は仲秋の季語だが、この陽気、まあ、「春」と詠むにふさわしい麗らの日和でありました。 (了)


※その時の模様を句友の坂石佳音さんが写真と俳句に綴っています。
素晴らしい出来栄えなので是非とも一度、御覧あれ!!
葱男もジーンズで登場!

こてこて京都西陣




*丘二三の修学旅行は鉄の旅=資料官

ちょうど40年前,昭和44年10月26日から31日に筑紫丘の修学旅行に出かけた。今から思えばレトロな旅行でして,その鉄道風景が今でも懐かしく思い出される。後日,原田先生が30年前に筑紫中学の修学旅行で韓国・満州に出かけたことが懐かしいと記されていたが,今そう感じる私も当時の先生の歳を大きく上回ってしまった。

この旅行はシャベ栗にとっても記念すべきものでして,彼のデビュー作「ドン急“修学旅行列車 東へ」の舞台でもありました。鉄を生業とする今日のシャベ栗にとってみれば,この旅行でルビコン川を渡ってしまったのかもしれない。この夜行列車の中でほぼ夜を徹して機関車の付け替え,追い越す特急列車,車中の風景(女子高生の寝顔?)の撮影を続けたのです。博多駅に列車が滑り込むところから,静岡駅に到着するところまでのドラマでありました。
 鉄に徹したのはシャベ栗だけではありません。列車やバスの車窓から通過する列車や駅などにカメラを向け,要所要所では観光コースからこっそり離脱して列車の写真を撮った。 10月27日は途中雨にあったものの白糸の滝に着く頃には雨も上がり,富士山も顔を出した。静岡(ここで富士急バスに乗車)→白糸の滝(昼)→富士山5合目→河口湖(泊) 10月28日は快晴。朝から富士山が良く見えた。コースは河口湖_蓼科・白樺湖(昼)_小諸_軽井沢(泊),ほとんどのメンバーが信州は始めてであり,甲斐駒や八ヶ岳がその姿を現し素晴しい一日だったと記憶している。
小諸では懐古園に行かず,こっそり横の小諸駅で上り急行信州,下り特急あさま,おまけに小海線を走るSL(C56)まで撮影ができた。私一人ではなく小林茂幸君と一緒でした。泊まりは軽井沢,今の中軽井沢でしたが,8組〜10組は塩壷温泉,1組〜7組は星野温泉に投宿。だけど,塩壷温泉では四国から来た女子高(商業高校だったかも)と遭遇するハプニングもあった。

●十台のバスは信濃路山粧ふ
●秋晴れや一番人気のバスガイド

小諸駅 上野行き急行信州  




旧信越本線の碓氷第三橋梁 通称「めがね橋」国重要文化財に指定(バスの窓から)

バスの窓から特急あさま 安中付近で国道と信越線が交差した時 遠方に浅間山


10月29日は鬼押出し_碓氷峠(旧道)_熊谷(昼)_東京,都内自由行動。この日は小生17歳の誕生日でしたが,鉄に徹した一日だった。
ネガを見ると昔の軽井沢駅舎,碓氷峠のレンガ橋,信越線を走る特急あさままでしっかり撮っていた。写真の特急あさまは線路と国道が交差する瞬間に通過して行ったので,極めて運が良かったということだろう。
熊谷の昼食時間はドライブインの先に高崎線の線路があり,EF58の列車をはじめとして3本ほど撮影。東京に着くと自由行動ですが,向かったのは「ああ上野駅」。新幹線ができる前の上野駅は北の玄関,各方面に向かういろいろな形式の特急急行が顔をそろえるパラダイス。日が暮れるまで上野駅で特急やまばと,特急つばさ,急行佐渡等々を撮影して過ごした。このときも小林君が一緒,シャベ栗は何をしていたのか不明。泊まりは本郷東大前で,今回は7組〜10組の男子クラスのみ隔離された。

10月30日も快晴。朝起きて,本郷通りへ一目散,東大赤門を見るのではなく,まだ本郷通りを走っていた都電を見るためでした。この日は終日都内観光(浅草→皇居広場→国立競技場→屋内競技場(昼)→科学技術館→東京駅)をして,夕方の新幹線に乗って新大阪で修学旅行列車に乗り換えて帰宅するコース。この日は一度だけ離脱して皆さんが浅草観音様にお参りしている時に東武浅草駅に行き日光に行く特急けごん,赤城行き急行りょうもうなどなど撮影した。このときも小林君が付き合ってくれた。
なお,浅草の観音様のお参りをしたのは東京に転勤した昭和59年のことであり,約15年間不義理をしたことになるけど,以降ことある都度参拝に出かけており当時のつぐないは十分したつもり。

本郷通りの都電 東大赤門前 原・久保園・江崎が立っている

東武浅草駅 東武日光行き特急けごん 


●黄落や赤門前を都電行く
●秋高し何処でも見える東京タワー

10月後半の東京17時はもう暗くなるのですが,我々が新幹線に乗ったのが17時(ひかり67号(1〜4組))と17時20分(ひかり69号(5〜10組))でしたから,銀座のネオンをちらりと見つつ黄昏の東京を後にしたのでしょう。最後になって国鉄ストの影響で新大阪のコンコースではしっかり待たされて,約2時間遅れの列車に揺られて博多駅に戻った。,博多着は11時ごろだったと思う。今だったら新幹線のぞみ5時間の博多行きですら白い目で見られるのに,新幹線乗り継いで16時間の行程,当時の先生方も本当にご苦労様でした。

昭和44年10月はちょうど長崎国体の開催中,昭和天皇が博多経由で長崎方面へお召し列車で出かけることなっており,鹿児島本線はディーゼル機関車(DLという),松浦線をSLが引くことになっていた。われわれが博多に戻った31日はお召し列車が松浦線を走り最後に博多までやって来るその日でした。シャベ栗は修学旅行のその足で松浦線に向かう予定だったのですが,修学旅行列車が約2時間遅れてしまい,残念ながらSLでないDLの引くお召しを佐世保線で撮影する羽目になった。私はいったん自宅に戻り,鹿児島本線の水城駅付近で天皇陛下のお召し列車をお迎えした。

新幹線(7時20分発ひかり69号)車中 森元先生と大塚先生 




2時間遅れの修学旅行列車新大阪到着 井出(ポンプ)先生 


翌朝下関駅 駅売り蕎麦にて朝食中の原田先生 向こうはお世話になった看護婦さん


♪ 修学旅行 作詞 丘灯至夫・作曲 遠藤実・唄 舟木一夫

二度とかえらぬ 思い出のせて 
クラス友達 肩よせあえば
ベルが鳴る鳴る プラットホーム
ランランラン 汽車はゆく 汽車はゆく
はるばると はるばると
若いぼくらの 修学旅行

【注1】今回はすべて記憶に頼って記載したわけではなく,筑紫丘の校友会誌や旅行の栞を参考にした。
【注2】シャベ栗デビュー作のCopyを希望の方はいつでも送ります。


かごんま日記:「鹿児島おはら節」= スライトリ・マッド

2009年11月5日(木)

*生きている山さくら島冬来る

花は霧島 煙草は国分 
燃えて上がるは オハラハー 桜島 

見えた見えたよ 松原越しに 
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた

 今朝の7時のローカルニュースで、桜島の爆発回数が397回に達したと報じていた。今年は活動が活発。毎日がドッカンドッカンだ。むくむくと上がる噴煙を見ていると、まるで生きているよう。ちなみに去年は29回、一昨年が10回。鹿児島に住んで9年目になるが、去年までは降灰はそうたいしたことはなかった。しかし今年はとにかく降灰が多く閉口する。先日組長さんから黄色いプラスチック製の「克灰袋」が無料で配られた。克灰袋に家の回りや道路にたまった火山灰を入れてゴミ置き場に出して置けば、ごみ収集の日にもって行ってくれる。397回と言えば、毎日1回以上は噴火した計算に。私の朝の日課は、テレビをつけ、画面の左上に小さく出る地域の天気予報と風向きを見ること。鹿児島地方気象台は、桜島上空の風向き予報を毎日出している。もし東向きなら、洗濯物を室内に干す。他を向いていたら、外の日の当たるベランダに干せるというわけなのだ。大体冬は大隅半島側に吹き、夏は鹿児島市側に吹くことが多い。

*コンビニの色も溶岩色神渡

桜島には 霞がかかる
私ゃ貴方(おはん)に オハラハー 気がかかる

この地去っても 夢路に通う 
磯の浜風 オハラハー 桜島

約2万5千年前、姶良カルデラで発生した巨大噴火によって現在の鹿児島湾の形が出来上がったそうだ。桜島はこの巨大カルデラ噴火の後に火山活動を始めた。約2万2千年前、鹿児島湾内の海底火山として活動が始まり、大きな火山島を形成して行く。桜島は御岳(おんたけ1,117m)と呼ばれる活火山によって形成され、頻繁に噴火を繰り返してきた歴史を持ち、噴火活動は約4千年前から南岳に移行しており、現在も噴火を続けている。鹿児島県本土のちょうど中央に位置する活火山桜島。風向きによってどこにでも灰を降らす厄介ものであるものの、やはりその姿は美しい。今、お母さんコーラスで「越中おわら節」を歌っているが、その中に出てくる歌詞「越中で立山、加賀では白山、駿河の富士山 三国一だよ♪」にあるように、それぞれの土地にはシンボルの山がある。鹿児島では桜島が特別な存在。マンションや家のチラシには必ず桜島眺望良しの文句が並ぶ。桜島は全域が鹿児島市に属し、約85%が霧島屋久国立公園に指定されている。したがって景観条例によって桜島ではコンビニの色が茶色、すなわち溶岩(ラバ)色になっている。ローソンは普通青色がシンボルカラーであるが茶色に。ファミリーマートは緑色が茶色に。鹿児島には何故かセブンイレブンの店は1軒もない。

* 「鹿児島おはら節」  鹿児島県民謡 より引用


■編集後記

資料官殿の修学旅行の充実ぶりを読ませて頂いたあと、我が身を振り返ってみると、これがなんにも覚えていない事に愕然とする。
私のクラスは男女クラスであり、修学旅行の時の写真にはホテルの部屋に男女が集ってトランプに興じているところがたくさん写されているのだが、そこでどんな楽しい時間が持たれたのか、自分の記憶には何も残っていない。
楽しくなかったばずはないのだが、自分から計画立案して行動していないので、ただただ夢のような時間に押し流されていただけなのだろう。

先日、小樽の大庭典子(旧姓、石橋)さんが京都に来て、うち(「月下村工房」)で一日遊んで帰ったのだが、ひとつ面白い話があった。
せっかくだからと晩御飯(トルティーリャとウニスパ)を作り、家でうちのカミサンと三人、一緒に食事したのだが、高校の頃に聞いていたカレッジポップスでも聴かせてやろうと思い、BGMに自作のセレクトアルバムをかけた。
アルバムにはアリスの「今はもうだれも」から始まって、好きな曲ばかり、例えば「まぼろしの翼と共に」「私は泣いています」「プカプカ」「各駅停車」「或る日突然」「お伽草子」「織江の唄」「海は恋してる」「タイムマシンにおねがい」「遠くで汽笛を聞きながら」「空に星があるように」「青春の影」等の曲が収録されている。
そして、当時の雰囲気を伝えるためにCDのジャケットに使ったのが、富士山をバックにしてして写した修学旅行の時のクラスの集合写真だった。

と突然、そのCDジャケットを見た典子女史が叫んだ!
「ありゃりゃりゃりゃ!! 私がちょん切られとう!! ここ、ここ、ここらに私が写っているはずやのに、あれーー、真ん中からちょん切られとうーー!」

私は典子女史と同じクラスだったことがあるような気はしていたのだが、それが2年生の時で、修学旅行が同じクラスだったことをよく覚えていなかったのだ。(後で聞いたら向こうもはっきりとは覚えていなかったらしい。)

「どうせ、どうせ、TさんやらKさんが写っとうけん、こっちがわを残して、私の方はばっさり切っとんしゃ〜っちゃろ!!」

こと左様にこの頃の事は何も覚えていない私なのであった。

そのCDがこれである。↓



(文責 中島)


■消息

葱男:『俳句界』11月号/「めーる一行詩」【秀逸】【佳作】。「雑詠欄」加古宗也【佳作】
五六二三斎(原たかゆき):『俳句界』11月号/「めーる一行詩」【秀逸】。
スライトリ・マッド(島小みかん):『俳句界』11月号/「めーる一行詩」【佳作】


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