*無法投区/紅染月

〜虫の森やうやう明けて庭の草〜


*残暑、猛暑、酷暑、極暑、餞暑、いや溽暑、暑いー!!=葱男

■第1信

葱)●塩梅も加減もできぬ残暑かな

37℃が三日ぐらい続いている京都です。
季節はますます歳時記を置き去りにしてゆきます。
とっくに秋は立ったというのに、とても新涼を詠む状況には到りません。
クーラーを消すことができるのはかろうじて夜中の3時頃からなんとか我慢して10時頃まででしょうか。クーラーの効いていない部屋でパソコンに向かおうものなら、5分でサウナ状態になります。締め切りの近づいている73号ですが、はたして熱中症にならずに無事に発刊できるでしょうか?
いささか心配ですが、今年から学んだ猛暑対策として、首の後ろをアイスノンを巻いた手ぬぐいで冷やすという方法がなかなか効果的です。みなさんもためしてみて下さい。
とはいっても、会社勤めの方や教職についている方、その他、ちゃんとした社会生活を営んでいるかたには無理なファッションかもしれません。これは自由業ならではの格好でした。すみません。

この暑さ、これが地球温暖化の影響だとしたら、来年からもこんな極暑が毎年来るのでしょうか。
気温の上昇線と、年齢の下降線が交わるところに死神が待っているのでしょうか?(>_<)
みなさま、どうかお身体御自愛下さいませ。

■返信

入)今朝窓辺の室内温30度で、九時だけどドライ運転かけました。
皆様にあらせられましては、どうやってこの残暑をやり過ごしていますか?
先月はお金のやりくりで、俳句脳を金銭脳が追い出しチまったような、さんざんの月末でしたが(選句のコピーをバッグに入れたまま、パトにつかまり9千! 9千円の罰金とられるおまけまで。女性の赤い車ばっかり捕まえるばか相手、、清くんアドレスないよね、、、踏み切り一時停止したのせんのと30分以上もめたから、9千円ですんだのかも。警察あいてに値切ったことになるのかなあ。)
今回はもう3句できちゃいましたよ。猛暑でしたから、ゴルフも行かず大人しくしてました。 今歳時記を見ていると涼しい句がたくさんあるのよね〜。

●妻も濡る青き蕃茄の俄雨   山口誓子 

●霧はとび釣舟草は躍るなり  富岡犀川  

香)暑いです!!
お元気のようで何よりです。
実はこの8月3日に父が亡くなりました。結果的には最期の2週間看てやることができ、家で寝たまま息を引き取りました。この暑さなのでしょう、梅雨頃から、熱が出て、肺炎を起こしてたようです。
葬儀のバタバタも、その後の届け、手続きなども終え、体も元気になって、堺に帰ってきました。逝く方も看取る方も納得のいく幸せな最期だったので、ご心配なく。

秋)残暑というか暑中お見舞い申し上げます。連日の酷暑、熱帯夜!もううんざりです。
ただあまりの暑さに蚊の発生も少なめらしいのが、せめてもの救いでしょうか?勤め先のドクターによれば、マラリアが発生しても不思議ではない気温だそうです。但し媒介のハマダラカはきれいな水でしか繁殖できないらしいので大阪は大丈夫?

メ)こんばんは メゴチです。
いつまでも暑さが続きますね。

夏)”残暑”だなんて、そんなレベルですか?!!
と空へ向かって叫んでも虚しいですが・・・
猛暑に 体も脳ミソもへろへろですッ

白)残暑お見舞い申し上げます。
この暑さ、本当に異常ですね。とてもじゃないけど俳趣など浮かんできません。

水)暑いです。 京都や福岡は尚更でしょう。
今月の季語は「残暑」しか思いつかず、この一ヶ月、暑かった以外に何をしたとも、何を感じたとも思い出すことは無く、息をするのもつらいくらいでした。

●残暑残暑正座も出来ぬ残暑かな

なんて句を出そうと思ったほどです。
そんな時に もう出来たと涼しくいえる入鈴さんは常人じゃない。やっぱり非凡な人なのですね。
暑い時にこんな暑苦しい話題で失礼しました。

君)丘23メンバーの体調を崩している人情報をチラホラ耳にします。
部長は大丈夫?  どうぞ、ご自愛ください。

小)京都の暑さが伝わるメールでしたが今夜は如何でしょうか?
お見舞い申しあげます。
昨日まで福岡でしたが横浜より涼しくしのぎやすかったですよ。

百)こちら寒くて申し訳ないみたい。 風邪引きかけました。(イリノイ在住)

■第2信

葱)昨日の朝、仕事場に向かうアスファルトの上で、あまりの暑さに感覚器官が壊れたみたいで、なんだか「あの世」を歩いているような気がしました。(>_<)

●たまさかにあの世のごとき餞暑かな

もう50日以上、自然から「涼」を受け取っていないのでは???
まったく、うんざりですね! おまけに夏痩せもしないし、 ってか!!


*『看取る』ということ=香久夜

この8月3日、父が亡くなった。89歳とはいえ、あと3日で90歳になるところだった。
親を亡くすことでは、あまりにも早い死、大病で苦しまれた後の死、突然の死と、いろいろ辛い経験をされた方が多い中、大した病気もせず、年々体力が衰えていき、そして我が家で妻、娘たちに看護されて眠るように、、、。この幸せな最期と、私たちにとっても幸せな「看取り」を書きとめておこうと思った。

●7月
体調を崩したのは梅雨の初め頃だった。やはり、今年のこの暑さは、年寄りにはきつかった。
熱がでたり、治まったり、近所の主治医の血液検査により、肺炎の治療を受けていた。

7月に入って、どんどん食事が入らなくなった。
やはり、医者に入院を勧められた。しかし、母はどうしても入院はさせないと心に誓っていた。

●入院経験
というのは、今まで二度ほど入院する機会があったが、その都度、父の混乱がひどくなった。
一度は、転んで、背骨の圧迫骨折の疑いで、痛くて動けなくなり入院したのにもかかわらず、夜、騒いだらしく、朝、詰め所に車椅子に括り付けられて、座らされていたと。
「この状態だと、ベッドで拘束するかもしれません」と。
これで一気に認知症が進んだ。そのまま入院させていたら、どうなっていたことか。
二度目は、冬、やはり熱が出て肺炎の疑いがあり、近所の主治医が、連休中いないので、 他病院に入院しなさいと、、、。その病院が、運が悪く、夜間は暖房がない部屋で、電気毛布もなく、ただでさえ冷え性の父は、また、寒い寒いと騒いだそうで、2日目には、早朝、「迎えに来てください」と、電話がかかってきたそうだ。
混乱して、荒れた時は、家に連れて帰って、母がそっと抱きしめてあげて、「もう大丈夫よ」と優しく撫でてあげると、治まるのだそう。
これらの経験で、母は二度と入院はさせないと、心に決めていた。それが母の優しさだった。

●医者を説得
そして、今回。「今入院させれば、胃ろうもできるし、そうすれば体力もつくだろう」と医者は言った。しかし、もう、89歳。体力も徐々に弱くなっての病気なので、これ以上痛いことをして苦しめて命を永らえさせても、果たして父は嬉しいだろうか? 痛いことが一番いやだった父。
「幸い、娘三人が、交代で看れるので、家で、看たいです。どうか、往診でお願いします。」と、母は主治医を説得した。
近所の主治医も、責任があるので、なかなか一回では承知してくれなかったらしい。

もともと肝炎が進んで、体力がなく、1日おきに注射している母だったが、父と一緒に熱を出して、毎日フラフラしながら点滴に通い、「先生に、入院させませんと、説得するのは大変やった。」と、声をふるわせた。

●点滴
それから、毎日往診してくれ、父の点滴も抗生物質と、栄養と、2本続いた。しかし、わけがわからなくなってる父は、針を刺すのも痛がり、途中ではずそうと触る。もろくなった血管からは、すぐに漏れだして、腫れあがるという状態で、ずっとつきっきりで見てないといけない。
何回も看護師さんを呼んでやり直してもらう。

●飲み込む
母が、以前から、体力がないので、父の具合が悪くなるたびに、私たちが交代で、手伝いにきていた。今回、長姉が帰っていたが、母も熱を出し、看病が長くなっていた。そしてついに父が、何も食べなくなり、水も飲めなくなったと、、、。次姉と私も「一度帰ってきて」と呼ばれた。
昏睡に近くなり、水を口に入れても、息をするたびに、うがい状態で、ガラガラ音がするだけ。このままでは、気管に入ってしまう恐れがある。次姉と二人で、何とか「ごっくん」させようと、ノドをマッサージしながら、口を強くつむらせて、やっと1回「ごっくん」させた。それから一口一口、アイスクリームや、ポカリや、(シュー)クリームやら。「ごっくん」を思い出したように飲み込めるようになった。すると、また元気をとりもどしたのだ。
リンゴの擦ったのにとろみ剤を入れて食べたり、吸い飲みで、ゴクゴクお茶やポカリを飲むように。ウィダーインゼリーも食べた。味噌汁の豆腐やカボチャも、、、、。
だんだん元気になり、もち直してくる父。しかし、やはり水分中心なので、体力がつく程ではないことはわかっていたが、どれくらい「もって」くれるのかわからなくなった。
すると、3人いるより、交代要員として、次姉が一度帰る、ということになり、私と長姉で看ることに。

●終末期
日頃から、便秘がちだったとは言え、もう、十日も便が出てないと言う。医者に言われて、浣腸することに。水分だけでも、やはり便は溜まっているとのこと。病院用の浣腸器と、ゴム手袋を用意して、「さて、誰がやるの?」と言いながら、自分でゴム手袋をはめていた。
父が怖がらないよう、体を清拭して、その流れで始めた。
あの、『風のガーデン』で、 「お宅でできますか?!」 みたいに、最期のことを言ってる場面があった、、、。母も以前、祖母の時、「最後はカキ出してあげんと出んとよ、、、」と言っていたが、やはり、腹筋もなくなっているので、薬液を入れても出るものではない。意を決して、何も考えずに、、、。
「うん、出た出た。お父さん、ようがんばったね。もう終わったよ、、。」
「家で看る」ということは、こういうことも含まれるんだ。これから週に一度は、やるんだろうと、覚悟していた、、、。

●導尿
その2日後くらいに、今度は尿が出なくなった。毎日点滴をしているので、結構多量に出ていたのに、急に少なく。すると、下腹に、カチカチのコブのようなものができ、腹全体がふくれているように。
医者が、導尿に来てくれた。
医者がやることは、ホントにきびしくて、キツイ。痛さに暴れる父を、看護師さんと私たちと母、4人で抑えつけ、耐えた。「もう、いいだろうに」と思うくらい、徹底的にお腹を絞りだされた。その是非は何ともいえないが。父にとっては、力を使い果たしたのかもしれなかった。
次の日の夜に、息が途絶えた。

●救急車
内臓機能が落ちて来たという事が、「最期」の知らせだったんだ。あの後も、いつものように、スイカのジュースを飲んだり、足をベッドの柵から出そうと、グシャグシャもがいたり、、、、。なので、こういう毎日が続くと思っていた。
大好きなスイカを搾ってあげて、たっぷり飲んだのが夜10時半。12時頃姉が様子を見ると、足が冷たいので、熱が下がったのかと、タオルケットをかけたそう。1時頃、母が、いやに今夜はおとなしいと見にくると、顔が冷たく、それも、熱が下がったとは思えない冷たさ。「えっ、息してない!」
それから、大騒ぎになり、私は人工呼吸、マウス・ツー・マウスで何回かやったが、反応なし。最近は、それより心臓マッサージが優先!と言われていたので、両手で押した。どれくらいの速さがいいのか、日頃からそれが疑問だった。もっと速くかなぁ、、、。その間に、救急車に電話。受話器から、「みぞおちのところを、両手を重ねて伸ばし、力いっぱい押して、、、。着くまで続けててください」と、説明してくれた。汗だくで、足も爪立ったまま、でも少し顔色がピンクがかったような気もする。
10分位したか、救急車の音がした。救急隊員にマッサージを代わった。はー、やはり若い男の人の力はすごい。そして、AED。2回ほどやって、そのまま搬送することに。

4〜5人来てくれて、処置する人と、話を聞いて、カルテを作る人と。詳しく病状などを聞かれたが、一つ不安なことがあった。これまで、過度の延命は望まないと、家でやってきたのに、これで搬送されて、知らない間に「のどを切開されて、気道確保」とかにならないか、、、。
一度、そのことを確認しなければ。すると「我々は、救命処置をしながら、病院へ搬送します。そのことは、病院で、先生に直接話してください」という答えだった。あぁ、これで任せられる。

着替えて、保険証とサイフを持ち、3人とも救急車に乗り込んだ。そこで隊員が、「ガスは消しましたか? 戸締りは大丈夫ですか?」と確認してくれた。

●病院にて
ずっと心臓マッサージを続けてくれ、すぐに日赤病院に着いた。
処置が一段落して、やっと、若い医者が、説明してくれた。「一度、MRIを撮り、診断します。その時点で、蘇生しなければ、マッサージをやめてよろしいですか?」と。なので、30分以上はやってくれ、レントゲンでは、肺が白くなっているので、これは「肺炎」ですと。
そして、最期の別れを言う時が来た。「マッサージを止めるとモニターは動きがなくなります。よろしいですか?」 「はい、ありがとうございました。」 私たちは、口々に礼を言って、父に声をかけた。
まっ白な顔で、ホントに冷たくなっていた。しかし、穏やかに、寝たままのかわいい表情だった。

すぐに、葬儀社を探してくれといわれる。廊下の電話帳で、、、。病院からは紹介しないのが普通らしい。夜中の2時。1件は留守電だった!!  祖母の時の葬儀社の名前があったので、近いところがいいからと、そこにかけると、30分くらいで、来てくれるという。

一つ、嬉しかったことがある。それは、救急で運ばれ、霊安所に移される姿は、「殺風景な、薄暗い所で、、、」と、想像していたが、その和室は明るく、祭壇が飾ってあって、父がベッドに乗って連れてこられた。父の体はすでにきれいに拭かれ、新しい浴衣を着、死化粧を施され、薄ピンクのきれいな唇をしていたのだ。そして、私たちがお線香を上げると、あの、若い医者2人と、きれいにさせていただきますと言ってくれた看護師2人も、お焼香させてくださいと、入口に立っておられた。
こんなに丁寧にしてくださるとは思ってなかったし、優しいことばをかけてくださり、どれだけ母も慰められたか。きっと、この後の、慌ただしい葬儀の準備に、少しだけ力が湧いて来たのだったろう。

●矛盾を抱えて
いろいろな偶然が重なり、家で看取ることができた。そして、その最期は、私たちに何ら責任を負わせまいと、静かに寝てる間に息を引きとってくれた父。我が儘を言いたい放題言った末の、父の感謝の気持ちだったのだろうか。
しかし、当時、老健施設を利用するかどうかの瀬戸際だった。母はともかく、私たち娘としては、具合の悪い時期、交代で帰ってくるにも、限界があるし、施設も考慮に入れていた。
入院で、手痛い仕打ちを受けている母は、デイケアと、ヘルパーさんの訪問介護で何とか、、と思っていたが、自分も熱を出して長引いてくると、気弱になり、ケアマネジャさんも、今なら老健を1ヶ所紹介できるといわれた。でも、とにかく父の熱が下がらないと入れないのだ、、、。
そこで、老健センターをいくつか見学に行く予定だった。netで老健を探し、情報を集めた。そんなときに、「水も飲まないから、とにかく一度帰ってきて」と。

なので、我々は常に矛盾を抱えたままだったのだ。
「入院はさせないで、家で看る」といったものの、このまま長くなったら、どうするのか。今さら老健に入れるとは、言えないだろう、、、と。私たちが帰ってくると、急に母も気が強くなって、「あんたたちも、看るからには、責任もって最期まで看ないかんよ」と。「看るよ」とは言ったものの、昨日まで老健を探してたんじゃ、、、。
母には、まだ老健施設に偏見があるのかもしれない。私たちも、今のこの国の介護のパターンとして、進められているので、利用できるならと、見学して、より良い施設をという考えです。
多分、現在、利用してらっしゃる方も沢山いるだろうし、そんなに悪い状況ばかりではないだろうと思うが、もっと調べて、実情を知ることから始めねば。

●後記
この程度にしか、まとめられなかったのですが、この他に、・葬儀の準備のこと、・葬儀後の、役所への手続きや届け出、・介護の思いなど、寄り道をしたくなる課題はいくつもありました。しかし、決して「家で全てやってのける」なんて、意気込んでやってたわけでなく、あんな矛盾をかかえながら、何とか崩壊せずにすんだだけという反省を、今後の課題にしなければという思いで、こんなかたちになりました。読んで下さった方々、ありがとうございました。

                                         香久夜


*北欧の立派な立派な中央駅=資料官

この夏訪ねた北欧のどの町も駅はすべて中央駅という名前であり,しかもどこも石やレンガ造りの風格のある建物であった。これらの駅はすべて改札も無くて出入り自由,写真は自由に撮れる,おまけに隣の国からの国際列車などがやってくるので感激した。

1 ベルゲン中央駅   (ノルウェー鉄道(NSB))

港から歩いて約15分,ベルゲン駅は門司港駅のようなどん詰まり。石造りの風格のある立派な駅である。駅の正面に大きな時計がありオレンジのNSBのサインが映える。首都オスロからベルゲン行きの急行が一日5往復あり,うち1往復は夜行列車である。昼間はシグナチュールという高速振子式電車が2往復であるがオスロ−ベルゲン間を6時間半で結んでいる。
ベルゲン最後の日,早起きしてホテルの食事前に駅まで歩いて向かうと,やがてオスロ発の夜行列車が定刻6時56分に一番左の4番ホームに到着した。赤い電気機関車に引かれた赤い客車には寝台車や食堂車も付いている。下車した乗客は先頭方面に向かって次々と歩いてくるが,観光シーズンの夏だからであろうか,しばらくその流れは絶えなかった。この列車は愛犬も一緒に乗車が可能で,少なくとも4匹の犬が目前を通り過ぎていった。
ベルゲンにはこの4月新しくトラムの路線が開通していた。予期せぬトラムの出現に思わずバンザイ!



A: 朝のベルゲン中央駅
あと20分で夜行のベルゲン急行到着
正面入れば改札も無くそのままホームにたどり着く

B: 6時56分 夜行のベルゲン急行到着 犬も乗車できる
やがて,3番ホームにはオスロ行き急行(振子式電車シグナチュール)が入線する

C:今年の春に開業したベルゲンのトラム
30分おきにやって来る

●フィヨルドの街へひと飛び白夜行
●木造りの三角の屋根白夜の日
●白夜更け街は眠れど寝付かれず
●白夜明け真赤な夜行列車着

2 ストックホルム中央駅 (スェーデン鉄道〈SJ〉)

  この駅は通り抜けができる貫通式になっているが,北部方面に向かう列車や空港特急が発着するホームはどんずまり,上野駅の地上ホームのような部分もある。20時ごろホテルの夕食が終わったが外はまだ十分明るく,地下鉄に乗って中央駅まで出かけた。この駅は1872年開業時そのままの大きなな立派な建物である。広い構内で1時間ほど撮影してから,また地下鉄に乗りホテルに戻った。
翌日は駅の近くのメーラレン湖を渡る鉄橋のそばでガムラ・スタン(石畳の旧市街)の観光を兼ねて列車を待った。青くて長い郊外電車の合間にスウェーデンを代表する高速列車X2000がやってきた。X2000は国内各地だけでなく海を越えてコペンハーゲンまで走っている。ここで列車にカメラを向けると,背景に王宮や大聖堂やリッダーホルム教会などのストックホルムを代表する建物が写るのが嬉しいところ。



D:ストックホルム中央駅の立派な建物
リッダーホルム教会の尖塔が見える

E:メールラン湖を渡るスウェーデンを代表する高速列車X2000
後ろは,ガムラ・スタンの王宮

●宮殿の奥は幾重に夏木立

3 ヘルシンキ中央駅 (フィンランド鉄道〈VR〉)

ヘルシンキ中央駅もどんずまり。この駅はフィンランド人のデザイナーエリエル・サリーネンが設計して1914年完成したもので,緑の屋根と茶色の壁の風格のある建物で,横には高い時計塔がある。ヘルシンキと主要都市を時速200?で結ぶ振子式電車ペンドリーノS220が頻繁にやって来る。ここで見逃せないのが一日3往復のロシアとの国際列車である。
2往復はサンクト・ペテルブルグ行きのシベリウス号とレピン号,もう1往復はモスクワ行きの夜行列車のトルストイ号である。今回はレピン号とトルストイ号を見ることができたが,いずれもごっついロシアの客車をVRの赤い機関車が牽引していた。客車の入り口にはロシアの大柄の女性が立っていて,きっぷのチェックをやっていた。この客車列車も今年中に振子式電車に置き換わってスピードアップされるらしい。最近ロシアから強盗スリ団がこの列車でやって来て,邦人観光客も被害にあっているらしい。ロシアのスリとルーマニアのこじき(物乞い)には十分注意するように何度も言われた。
駅を一歩出るとトラム(路面電車)の乗り場。ヘルシンキは街の隅々までトラムの路線が張り巡らされているので,旅行者にとってヘルシンキ見物には大変便利な足となっている。
中央駅から中央駅まで一周する路線もあり,短時間ではあるがトラムに乗ってヘルシンキの街並を楽しんだ。



F:1914年完成のヘルシンキ駅とトラム
この電停には色々な路線のトラムが次々とやって来る

G: 15時23分発センクト・ペテルブルグ行きレピン号

H:振り子電車ペンドリーノS220
ヘルシンキとフィンランド主要都市を結ぶ

●夏木立かすめて路面電車行く

4 コペンハーゲン中央駅 (デンマーク国鉄〈DSB〉)

立派なレンガ造りの建物である。本当に駅らしい駅であった。駅舎からだけでなく線路を渡る道路からもホームに下りる階段があり簡単にホームにたどり着ける。改札は無いから出入り自由,写真撮影も自由である。ここの目玉は1日4往復のドイツのハンブルク行きディーゼルカーのICE-TD。ディーゼルカーのICEはデンマーク方面だけであり,なかなか珍しい車両である。この路線は北欧「渡り鳥ルート」と呼ばれており,途中,連絡船にそのまま列車を乗せて海(フェーマルン・ベルト海峡)を渡る。
また,真赤な近郊列車(エストーと呼ばれている)が頻繁に走っているが,電車の車体に自転車・犬。乳母車・車椅子が大きく描かれていて,なかなかユーモラスで面白い。ホームでも自転車をかなり見かけた。



I: レンガ造りコペンハーゲン中央駅

J:ハンブルグ行きディーゼルカーのICE
途中からは連絡線で海を渡る

K:近郊電車エストーの側面
ホームでは自転車を良く見かける

●運河から尖塔巡り夏惜しむ


かごんま日記: "BLUE ORB "= スライトリ・マッド

2010年8月22日(日)

*わらわらと真夏転がす運動会

Roll up your space your air your joy your wind
Roll up your sound your wave your thought your spark
your touch your wall your sense
your love your feel your sign your soul
your flash your flame your heat your heart

今日は隼人の原青壮年会主催の運動会。何もこんな暑いときにやらなくてもと思うのだが・・・。公民館の裏の下がったところに広場がある。知らなかった。表や通りからは見えないようになっていてヘチマやカンナや畑に囲まれた秘密基地みたいな場所。のどか な感じがよい。グラウンドゴルフ場に使われていると聞く。殺人的な真夏の運動会は今年で40回目になるとのこと!何度も「熱中症に気をつけてください!!」とアナウンスされる。最初は長い夏休みの子どもたちの楽しみにと始まった行事らしいが・・。150人 くらい参加者がいたが、じっちゃん、ばっちゃん、孫たちが多い。引っ越してきて初めての夏。子どもたちの世代となると地元の人たちに溶け込む機会が少ない。町内会長の奥さんからも「是非来てね」と誘われ、ご近所の顔を覚えさせようと、帰省中の大学生の 息子と高校生の娘も連れて参加する。2人は、親切なおばさんから、ヤクルト、ミカン、おやつ等もらってチャッカリ涼しい公民館に上がり込み。出番が終わるとさっさと帰った。それに引きかえ、暑さにも負けずがんばってた隼人のじっちゃま、ばっちゃまたち の元気には脱帽だ!長寿大国ニッポンの100歳以上の高齢者が297人もいて、調べたところそのうち8割は抹消登録されたとのこと。死んだ親を生きてることにして年金を貰い続けてた、いい年をした息子や娘にも呆れるが、お役所のすることもズサン極まり なし。江戸時代生まれの200歳なんていたら仙人だよね?!私はボールを箒で転がしてリレーする競技に出た。

*夏暑しかたまりたけし君ハイッ

Wrap up my death my tears and my fate
Wrap up my prayer my hope and my night
Orb appeared in the sky
God sent you into orbit around me
The star...

ボール転がしをしていると奇妙な感覚にとらわれる。ボールが当たったものを巻き込んで大きくなって行くのでは?!あはは『塊魂トリビュート』だ!「かたまりだましい」は、2004年に発売されたコンピューターゲームの名前。私はこれまでゲームの世界には全 くの無縁・無知。プレステ、ニンテンドーDS、PSP、X-BOXの区別もつかない。家にもいくつかあったようだが何だったのかも知らない。横目で見るだけ。この夏休み、未だにゲーム好きの我が家の大学生が、お目当てのゲームソフトがなかったからと買ってきたも のがこれ。「また〜つまんないもの買ってきて!」とバカにしてたら、意外にもおもしろいではないか?!まず音楽がユニーク。ストーリーはただかたまりを転がして大きくしてといういたってシンプルかつ斬新なアイデアからなる。ふざけた大コスモのやたらでっかくえばった王様とやらが酔った勢いで、宇宙の星を破壊した。困った王子(身長5センチ)が星を再生するというもの。家の中の小さいものから段々大きなものをくっつけ、何から何まで、すべての動植物、建物、台風、山も島も。ミリ、キロ、ギガ、テ ラ、ペッタ、ゼッタ、ヨッタ、・・・地球上の国や大陸がぺりぺりっとはがれて別の1つの塊になっていくというのが象徴的。闘いや殺しは無し。くだらなさが痛快。ゲーム業界で初のグッドデザイン賞を受賞。

"BLUE ORB" by Kahimi Karie (2005) より引用


■編集後記

8月30日、第56回の角川俳句賞が決まった。

受賞作は望月周氏(「百鳥」同人)の「春雷」、そして山口優夢氏(「銀化」所属)の「投函」。
望月周さんは私が所属している結社「百鳥」の若手のホープであるし、山口優夢氏は平成15年、第6回俳句甲子園個人最優秀賞受賞したのち、16年には東大学生俳句会入会、そして現在は「銀化」の所属する24歳の新進気鋭の俳人である。

受賞作品、及び選考経過等は、『俳句』11月号(10月25日発売)誌上に詳しく掲載される予定なのだが、実は私も「角川俳句賞」に応募した、?百人の中 のひとりでありました。
「角川俳句賞」は、俳壇でももっとも権威のある新人賞として、すべての俳人が目標とする「俳句の芥川賞」のようなものである。
今回は初めての投稿で、どうやら箸にも棒にもかからなかったようであるが、望月さんのような優秀な人でも毎年のように応募していたのだから、「参加することに意義あり!」で、来年からも応募を続けたいと思っている次第である。

俳句とは一生つきあっていくのだから、まだまだ先は長い。
死ぬまではずっとチャレンジャーでありたい。
なにしろ「丘ふみ」には、喜寿を迎えられた砂太先生がいらっしゃって、いつも素晴らしい見本を見せてくださっているのだからなんとも心強いかぎりである。

(文責 葱男)


■消息

水音:ねんりんピック俳句交流大会【正賞】(稲畑汀子、稲畑廣太郎、棚山波朗選)
●川音の川を離れて走り梅雨  山下水音
※水音さんは60歳以下の部678句の中から特選10句、正賞10句、准賞10句の中の【正賞】に選ばれました。表彰式は10月10日、金澤で行なわれるそうです。 ちなみに60歳以上の投句数は4632句。 俳句で60歳以下のなんと若いこと!

葱男:『俳句界』8月号/「めーる一行詩」【佳作】
●河童忌の電氣ブランをまうすこし  中島葱男

スライトリ・マッド:『俳句界』8月号/「めーる一行詩」【佳作】
●雲の峰焼きメレンゲをふふみけり  島小みかん

五六二三斎:『俳句界』8月号/「めーる一行詩」【佳作】
●締め括るパワーポイント雲の峰  原たかゆき



■句友のページ
俳人・金子敦の小部屋俳句と主夫の間で♪<なを>の部屋空とぶ猫俳句魂海渡の海馬向後崎ふみ(十月桜)の気まぐれ歳時記俳句と写真で綴る日記「日々好日」nemurinn主義


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