*無法投区/田草月

〜夏の月河童淵まで追ひかける〜


*闘病記 =濱地 禎憲

平成22年6月14日 この度の私の入院につきまして、多くの方々からお見舞いや励ましのメールをいただき、また、病院まで訪ねていただき、本当にありがとうございました。御礼申し上げます。

さて、今回の病名は急性心筋梗塞という命にも関わるものでしたが、そう宣告されるまでは全く考えもせず、薬もらって楽になったら早く会社に戻ろうとばかり考えていました。この病気では、とにかく”一刻も早く治療を始める”ということが大事であることを思い知らされました。皆様方の参考になればと、今回の経験を報告させていただきます。

その1
 5月11日23時過ぎ、その夜家族は全員帰らないことになっており(嫁までもが携帯の充電器を忘れたまま信州旅行に出かけていました)、シャワー浴びて寝ようかというところで、胸から背中にかけて息苦しくなったのです。横になれば直ると信じ床につきましたが、結局一睡もできなかったのです。会社の近くには大阪市立十三市民病院という大きな病院があり、12日朝になってシャワーを浴び、とにかく会社まで苦しいまま行きました。会社から市民病院まで歩いて10分、立ち止まりたい衝動を押さえ病院着。何科に行くべきか不明だったので、とにかく内科を希望し2時間近く待たされてやっと診察。血液検査やレントゲン撮影を言われたとおりにこなし、再び診察室へ。血液検査の結果では心筋梗塞とは言えないというものでしたが、症状から、専門医を紹介すると言われ、タクシーで移動。総合病院である市民病院から紹介される病院だからさぞかし大きな病院だろうと思っていたら、待合室の椅子が10人分くらいしかない小さな病院でした。
 若い医者は市民病院からの血液検査の結果を見ながら、「心配はいらないと思います。まあ、エコー診断してみましょう。」と言って、エコーのセンサーを私の胸に当てました。その瞬間、「濱地さん、これは重傷です。心臓の下壁が動いていない。」と訳の分からないことを言い出したのです。「結論から言います。今から救急車で緊急入院してもらいます。最高の病院ともっとも信頼できる先生を紹介します。それから、ご家族や会社の方に連絡を取ってください。」と言われ、入院したあと、どんな治療をどのように受けるのかを説明してくれました。「心電図、エコー検査のあと尿管を入れられ、足の付け根から心臓までカテーテルを通し、バルーン、ステント・・・・・」。頭は混乱し、いったい何が始まろうとしているのかと、できれば逃げ出したい不安に襲われました。さらに医者は「救急車の中では、できるだけしんどそうにしてください。」と言い、「治療開始まで発作から14時間以上経過してしまう。後遺症が残るかもしれません。(元に戻るのは発作から6時間以内とされているようです。)」とさらに心配になることを言う。

その2
 眠れなかった5月11日深夜から12日早朝にかけて、こめかみに自分の鼓動がビンビン響いていました。一定間隔ではなく異常に早くなるときがあったり、これって所謂不整脈か・・、こんなに鼓動が早かったら死ぬに違いない・・、でも生きてるんだから、今のは気のせいか・・、等々考えておりました。
 実は、この胸の苦しみ(心ではなく物理的な苦しみ)を初めて感じたのは2年前、つるやオープンゴルフトーナメントを観戦に行った帰り、ゴルフ場から家まで歩いて帰ろうとしたときでした。5月の連休前のさわやかな天候で、家まで約5km、日頃の運動不足を解消しようと歩き始め、2kmほど歩いたところで、今までに経験したことのない様な胸の苦しみを感じました。何というか、胸、背中から奥歯にかけて、苦しいのです。大きく深呼吸をしながら歩いていると、嘘のように楽になりました。その後もこの変な苦しさは、ゴルフをしているときとか、坂道を急ぎ足で歩いているときとか、何度も感じるようになりました。全て体を動かそうとしているときだったので、日頃の運動不足が原因だと勝手に決めつけていました。
 数年前、関一呑でのこと、私の成人病の話題になり、武石さんと約束をしました。次に会うときまでに減量し、悪い数値を改善するというもので、ワインを1本掛けたのです。この約束は一度も忘れたことはなく、ついに昨年の5月1日からウォーキングを始めたのです。高低差40〜50mほどの6kmの道を、毎日欠かさず1時間で歩き続けたのです。最初の数日は例の苦しみが表れましたが、その後、でなくなりました。このころには、例の苦しさは運動不足が原因だったと確信していました。このウォーキングは11月上旬まで毎日続いたのですが、年度末の忙しさに突入し、ついに断念せざるを得なくなりました。しかしながらこの間に体重は3kg以上減少し、とてもとても健康になったような気がしていました。たっぷり汗をかいたあとの冷たいビール、最高。秋の成人病予防健康診断の結果が楽しみで、ワインを1本もらったつもりでいました。しかし、その結果はほとんど改善していない。診断1ヶ月前から禁酒もしたのに、これは大きなショックでした。メタボとならなかったのがせめてもの救いで、相変わらず血糖、コレステロール、中性脂肪、血圧等は高止まり。おまけに何かの拍子に、心臓の周りの筋肉(そう思っていました)がつったように痛くなることがある。しばらくすると良くなるので、変な筋肉を使ったのかなと、自分を納得させていました。
 狭心症や心筋梗塞の痛みは歯に来ることがあるらしく、私も苦しいときに奥歯の痛みを感じたりしていたので、昨年の8月から11月初旬に掛け、31回もヒステリックに歯医者に通い詰め、折れた前歯や抜けた奥歯の治療を完了いたしました。昨年、関一呑を計画できなかったのは、これが大きな原因です。歯の治療を終えていたことは、本当にラッキーでした。歯の治療前に心筋梗塞の発作を起こしていたら、薬で血液が固まりにくくなっているので、いろいろと困難が出てくるところでした。
 今年の5月になりウォーキングを再開しようと歩き始めましたが直ちに苦しさを感じ、3km歩くのがやっとという状態でした。狭心症という病気を知っていれば、心筋梗塞に至る前に何らかの処置ができたのではないかと思われて仕方ありません。残った年度末の仕事も全て片付け、書類に埋もれていた会社の机周りを全て整理(周囲の社員は日頃整理なんてやらない人間が何をしてるの?と見てたようですが、身辺整理をしてるんだ!と言ってました)し、明日から気分を一新して・・・。人間、何か変わったことをしたら何かの兆候じゃないか、という話をよく聞きますが、その通りかもしれません。その夜の発作ですから。自分の気がつかないところで、入院の準備を着々と進めていたようで・・・。

その3
 救急車の中は思ったよりも狭く、すぐ脇にヘルメットをかぶった隊員が座り、血圧等何かいろいろと調べられたような気がするけど、何をされていたのかはあまり覚えていません。自分がどこをどう走っているのかさえ、全く分かりません。10分ほどで病院に到着。そのままストレッチャーで点滴を持ったままカテーテル処置室に運ばれたようです。何しろ天井しか見えてません。昔テレビで見た、ベン・ケーシーの最初のシーンのような感じです。この病院こそ、心臓治療では超有名な桜橋渡辺病院だったのです。(退院までこの病院がどこにあるのか、全く理解できませんでした。大阪駅前のヒルトンホテルのすぐ横だとは聞いていましたが・・・)
 処置室に入るなり心電図、心エコー検査が始まり、この間に尿管付けられたり。このとき血圧は170まで上がっていました。ベッドを移され、直ちにカテーテルの挿入が始まりました。右足付け根に局部麻酔を打たれましたが、やはり太い針(と思います)をブスッと突き刺されたときは顔がゆがみました。が、何とでもしやがれ!という覚悟は、このときにはできあがっていました。どうすることもできないのだから。
 処置は2時間半ほど続いたようです。その間ずっと目が覚めており、医者の声もずっと聞こえていました。今自分の心臓まで管が通されているのに、何も感じません。何やら数字がよく聞こえていましたが、ステントの大きさ、バルーンの圧力等を指示していたのでしょう。(ステントとは金属製の網状になったチューブで、これを血管の狭窄位置に挿入し、その中でバルーンを脹らませて血管の内側からステントを拡げ、血流を再開させます。)  手術後病棟のベッドに移動しましたが、カテーテルの管は入ったまま。上体も起こせないし、足も曲げられない。左足だけは動かしても良いと言われましたが、一日以上、大の字で動けずにいたのではないでしょうか。あまり記憶が無いのです。この部屋は看護師詰め所の周りにベッドが配置されており、手間のかかる患者が集中していたようでした。覚えているのは、主治医が40歳くらいの美しい女医であったこと、担当の看護師がベッキーと森泉を足して2で割ったような美人だったこと。バチスタドラマのロケをしているのではないかと、錯覚してしまいそうでした。食事を食べさせてもらうのも、なかなか良いモンです。しかしこの状態というのは、寝たきり老後のシミュレーションとも言えますね。恥ずかしいとか、考える余裕は全くありません。完全に居直っていました。
 手術後のベッドには長男と弟が来てましたが、嫁が駆けつけてきたのは、翌日の夜でした。

その4
 入院当日の夜、美しい主治医先生が枕元にモニターと心臓の模型を持ってきて、手術について説明してくれました。「心臓の周りにはこのように冠動脈と呼ばれる3本の血管があり、心臓に栄養を供給しています。この血管が閉塞すると、閉塞部分から先の心臓細胞が壊死します。濱地さんの場合、ほら、ここが細くなって詰まってて・・・・、今回の治療によってこのように血流が再開しました。」 胸の苦しみもなくなり、ホッとしたところで、「あと2カ所、治療が必要なところがあります。」 えっ・・ 「残りの2カ所は長い期間を掛けて閉塞に至ったようで、その間に毛細血管が一生懸命頑張って、そちらから心臓に栄養補給していたようです。」 ある意味で、ラッキーだったということらしい。
 翌日、向側のベッドの人が部屋を移りました。ベッドの清掃に来てた看護師の大きな声に、目が覚めました。「ビールの空き缶があるー・・・。だーれぇ・・・??何であんのー??」 そのベッドの人は、どう考えてもビールが飲める状態ではなかったと思うし、お見舞いに来て、わざわざそんなところでビールなんか飲みたくないと思うし、この事件は興味ある謎です。
   2回目の手術日が5月27日に決定し、病室が大部屋に変わりました。大部屋とは言え壁で仕切られており、トイレも洗面台も付いた3人部屋という感じでした。それぞれのベッドは完全にカーテンで仕切られており、黙っていればプライバシーは確保され、過ごしやすい病棟でした。担当看護師は松嶋菜々子似の美人でしたが、夜勤の関係で頻繁に交代。どう見ても50代半ばだろうと思える看護師は、ヘアースタイルがまるでクレオパトラ。40代と思える看護師の髪型は、柴田理恵風オールバック。「だーれもおらんごとなったよー・・・」みたいな、九州の出身ではないかと思ったのですが、最後まで確認できなかった。主治医も替わり、「濱地さーん、うーん、お変わりありませんかー、うーん、この調子で・・頑張りましょうねぇー、うーん・・・」という言い方で、オカマではないかと密かに思っておりました。
 食事は、一日1600kcalで塩分6g以下、間食一切なし。8時、12時、18時に規則正しく出されます。薄味はあきらめもつくけど、量の少なさは修業の世界です。夜から朝までの14時間、これは地獄でした。体重は毎日200〜400gずつ減少、この量に慣れる日が来るのだろうかという不安と、これで減量できるという喜びが同居していました。
 点滴を付けたままですが、歩行が可能になるとリハビリが始まります。いわゆる自転車こぎです。軽い負荷から始まって、日数を掛けて徐々に負荷を上げていきます。汗が滲むくらいが最適な状態だそうで、最終的には自転車こぎ連続30分(負荷40W程度)になります。あと2回の手術があることが分かっており、その度にまた一からやり直すのか・・・と疑問でしたが、そうではありませんでした。リハビリは、あくまで心筋梗塞を発症した心臓に対して行うものであり、カテーテル手術に対して行うものではないということでした。  2回目のカテーテル手術の前に、手術担当医師から説明を受けました(インフォームドコンセント)。血管の状態と手術の方法についての説明ですが、残り2カ所の内一つは難しくないが、もう一つは排水管が凝り固まった油で詰まったような状態で、固まっていたら成功率は60%くらいだと言われました。

余禄
1.心筋梗塞の痛さ・苦しさについて予備軍の方から質問がありましたので、私の場合を答えさせていただきます。 胸、背中から歯にかけて、痛苦しい(痛いより苦しい)感覚です。小学生の頃、背中を思いっきりたたいて息ができなくなるという遊びをしたことを思い出しますが、その苦しさです。座り込みたくなる苦しさです。狭心症も同じですが、時々こむら返りを起こしたときのような激痛を胸に感じていました。もしも心筋梗塞でこの激痛が持続したら、それは耐えられないことでしょう。

その5
 2回目の手術は難しい方に挑戦し、途中で成功しないと判断したら残りの簡単な方を片付けるとのこと。失敗した部分の処置は後日方法を考えて行うと説明されました。その方法を尋ねると、血管閉塞部分を両側から攻める、カテーテルの中にドリル(毎分20万回転もするらしい)を通し、こじ開ける等の方法があるということでした。ドリルを使用するときは、血管を破ってしまうリスクもあるとのこと。だからと言って、拒否もできない。カテーテル手術の場合、造影剤を注入しながらレントゲンで血管の不良箇所を確認しながら行いますが、この造影剤が腎臓に大きな影響を与えるということで使用量が限られ、一カ所ずつしか手術できないのだそうです。一カ所に時間を掛けることもできないのです。2回目の手術前に3回目の日程を6月1日にすることを伝えられ、あまりの期間のなさに、腎臓は大丈夫でしょうかと質問しました。「点滴で何とかしましょう。その日しか空いてないんです。」という自信満々の医者の言葉に、一抹の不安を抱えたまま信頼するしかないというあきらめの境地でした。自信満々と言えば、冠動脈の患部にピンポイントでカテーテルを挿入することがどうしてできるのかと聞いたところ、「解剖学的な知識と、数多くの経験です。」ときっぱり言われ、ちょっと安心したのも事実です。この病院では、カテーテル手術だけで年間700回程度行われているということでした。
 2回目の手術が始まりました。いきなり左右両方の足の付け根から、ブスッとカテーテルを挿入されました。これって患部を両側から攻めるんじゃねぇの?いきなりかいっ!と心の中で叫んでいました。患部を貫通するのにカテーテルの中のワイヤを突くのですが、医者の手の動きに会わせて、心臓の付近で何か振動を感じてました。やってるな・・という感じです。そのうちに手術前に飲まされた「安定剤」というのが聞いてきたのか、強烈な睡魔が襲ってきました。自分のイビキでハッと目が覚める、この繰り返しでした。2時間後、「濱地さーん、終わりましたよー」という医者の声に覚醒から覚め、無事終了したことを知りました。
 病室に戻っても身体を動かせない(今回両足なので、大の字でじっとしているしかない)ので、腰が痛くなり、これは本当に辛い思いをしました。また、左足の付け根には針が入ったままでそこから大量出血してしまい、貧血を起こしてしまいました。この日が5月27日、6月1日までに傷が癒えているのだろうかと、それだけが心配でしようがありませんでした。このような状態でありながら、5月29日からはリハビリ再開。また出血するのではないかとハラハラしながらも何とかできるものです。シャワーもできるようになりました。しかしながら点滴は30日の早朝まで続き、点滴だけで体重が2kgも増えてしまいました。

その6
 6月1日早朝、6時前から点滴開始。手術予定時刻30分前には尿管を通され、手術準備完了。カテーテル処置室へは車いすで移動。カテーテル処置室に到着したとき、3回目にして初めて中の様子をこの目で確認(1回目はベン・ケーシーだったし、2回目は目を閉じていたのか記憶にないのです)しました。入口の自動ドアが開くと手術着の3名の女性が「よろしくお願いします。」と頭を下げました。私には、「いらっしゃいませ。」と聞こえました。スタッフは6名くらいだったと思います。天井がやけに低かったという印象です。カテーテル処置台に寝かされ、あとはまな板の鯉です。
 前回のカテーテルの痛みもとれていないのにどうなるんだろうと思っていたら、案の定、前回の傷口辺りにブスッ。これは痛かった。
 前回までの2回は手術中に胸の苦しさを感じることは無かったように思いますが、今回はバルーンを脹らます毎に、狭心症のような苦しさを覚えました。もともと詰まっているところを拡げるのだから楽になるだけのように考えていたので、これはちょっと「何すんねんっ!」と叫びたくなりました。顔は引きつっていたと思います。
 手術は2時間もかからず終了。これで最後、あとは退院を待つだけという安堵感が心の中に広がります。部屋に戻っても今回は出血もせず、翌々日からはリハビリも再開。6月4日以降、いつでも退院OKとの許可が出ました。6月3日の時点で、ベッドから立ち上がるときには、まだ足の付け根の傷口が熱湯を掛けられたように疼き、退院できるはず無いだろう、というより、見捨てないでくださいとお願いしなければ・・・と考えておりました。看護師長さんからも、リハビリをきちんとした方が良いとのアドバイスを受け、退院を6月9日に決定しました。(本当は6月7日にも退院したかったのですが、1日でも長く管理された病院食を食べてこいとの嫁の命令で、9日にしたのです。)
 私の隣のベッドには74才のおじいちゃんがよその病院から転院されてきており、私の3回目の手術と同じ日にカテーテル手術を受けられました。翌日、オカマ(?) の主治医がやってきて、退院の話が聞こえてきました。主治医が出て行ったあと、携帯で家族へ連絡されていました。「退院できるんやて・・うぅっ・・退院してもいいんやて・・うっ・・うぅっ・・来週・・退院できるんやて・・・・」 泣きながら言葉になりません。私も思わず胸が熱くなりました。前の病院で処置できずに転院ということで、大きな不安を抱えられていたのでしょう。

その7 最終回
 3回ものカテーテル手術によっても、私の心臓は元の状態には戻りません。心筋梗塞発症前を100とすると、おそらく80くらいの状態では無いかと言われました。それでも入院当初よりは大きく改善したようです。やはり始まりから処置開始までの14時間という時間が長すぎたのでしょう。しかしもうどこも苦しくないし、血圧も正常、感覚的には昔と何も変わらない。
 リハビリで適正な運動の指導を受けましたが、汗が噴き出すような運動は避けた方がよい、重いものを持ち上げたりすることは避けた方がよい、脈拍は108を上限とせよ、要は急激な運動は避け有酸素運動に徹しなさい(これらは私の場合です)というようなことでした。私にとっての「運動」は、昨年やってたウォーキングのように、ハーハー言いながらしんどさを乗り越えるものです。こうしないと、満足感が得られないのです。今すぐにでも、運動に復帰できると考えていました。
 退院したその日から、ウォーキングを再開しました。1ヶ月の入院で、信じられないくらい体力が落ちていたのです。緩い上り坂ですが、連続で200mも歩けないのです。背中がだるくなるというか、立ち止まらなければとても継続することはできません。それでも頑張って3kmをゆっくりゆっくり歩きました。しかし、これでは通勤もできない。3日目まで本当に苦しかったのですが、4日目からは少し楽になってきました。4kmを連続で歩くことができました。5日目からはこの4kmを少し速く歩くようにしました。もちろん途中で脈拍を計ることは忘れません。今夜で7日目になります。大雨です。傘を差して歩こう。
 この1ヶ月の入院中、仕事のストレスから解放され、体重を減らし、血糖値を下げ、コレステロールを下げるなど、一石五鳥とも言えそうな生活でした。退院後は薬の継続と食事制限、運動によって、体調をコントロールしなければなりません。この内、食事制限については、今から戦々恐々としています。外食については、どうしようもないのではないかと思われます。医者も言います。「お酒も飲むでしょう。焼き肉も食べに行ったりするでしょう。でも食事制限という言葉が頭の中にあれば、今までとは絶対に変わります。飲みに行ったらしばらくアルコールを控えるとか、焼肉を食べに行ったらしばらく野菜を中心にするとか、そのように考えてください。」この言葉で、どのくらい救われたことか・・・。
 仕事には6月21日から復帰します。今はとにかく体力の回復に努めています。リハビリの先生曰く、私に最適のスポーツは、カート付のゴルフだそうです。幸せです。

付録
1.ステント治療をしても20〜30%の人が、血管の狭窄を再発するそうです。私の場合、3回の手術で8コのステントを入れられました。確率的には高いと思います。院長先生は、「次はバイパス手術にしましょう。再発のリスクはグッと小さくなりますよ。」だって。商売人かっ!
2.「発作が起こった時のために、退院時にはニトロを持って行くように」と院長先生。ニトロと言えばグリセリンしか知らない私は、「爆発しませんか?」と質問。院長先生は、「床において足で踏んづけたら、バーンと爆発し・・・するわけないやろ!」ってジェスチャー付で。吉本かっ!
3.早朝6時前というのに、入院患者の一人が大声でわめき出しました。怒り狂っている様子。松嶋菜々子看護師が負けない大声で、「勝手なことされたら困りますっ!」。内容はよく分からなかったけど、20分ぐらい続きました。そのあと、入院患者全てのベッドを一人ずつ、「○○さーん、朝から申し訳ありませんでした。」と謝って回りました。看護師も大変ですね。
4.高額医療は、その月の中で行うべし。私の場合5月12日入院し、5月に2回、6月1日に3回目の手術をし、二月にまたがってしまいました。健康保険限度額適用認定証は各月ごとに適用されるようで、もし入院が5月1日で退院が5月末だったら、15万の負担は1回で済んだはずです。請求書によれば、1回目と3回目の手術が各百数十万、2回目が二百数十万、全部で500万近くかかったようです。支払いは15万+医療費全体の1%となっており、20万程度で済んだはずなのです。6月にもこの15万を払わなければならないというのは、ものすごく損をした気分になります。私のような貧乏人は、月初めに発作を起こすべきでした。

こんなにも多くの方々から感想をいただけるとは、思いもしませんでした。読んでいただいて、本当にありがとうございました。皆さん、明日は我が身と真剣に考えていただけたようです。こちらへ残るかあちらへ旅立つか、これは運だと思います。運に託すことなく生活できるよう、日頃の精進が大切であるということなのでしょう。 私の闘病記が、予備軍の方々の参考になれば幸いです。また、いろいろとメールもいただき、本当にありがとうございました。

余談
1.ステントが8コも心臓周りに置かれており、飛行機に乗るときの金属探知機は通過できるのかと複数の医者に質問したところ、全ての医者が「引っかかったというのは聞いたことがありません。大丈夫です。」とのこと。医者が聞いたこと無いだけかもしれないし、これは自分で確かめないと信じられません。
2.MRI診断は2ヶ月間は受けてはいけないとのこと。まさか・・と思いながら理由を質問。「ずれるかもしれない。」そのまさかの答えでした。それと「熱を持つ可能性がある。」とのこと。それだったら永久にMRIはNGではないかと思います。医者曰く、「これらは可能性であり、実際にそうなったという話は聞いたことありません。」だそうです。
3.カテーテル手術で血管の詰まりを除去しますが、そのカスはどうなるのか質問しました。これは世界中の医者のテーマだそうです。たまに、そのカスが違う場所で閉塞の原因になることもあるらしく、カスを吸い出しながらの手術(大掛かりになるらしい)もあるとのこと。実際には影響が出ないくらい微細な粒子になるので、通常はそのような大掛かりな手術はしませんとのお話でした。


*南アフリカ・ワールドカップ=葱男

■開幕戦
この前オリンピックだと思ったら、今回はもう<ワールドカップ>である。
昨夜は張り切って第一試合に望んだのだが、両国の国歌斉唱のあたりで居眠りをはじめ、次に起きたらハーフタイムになっていた。
後半が始まってもうつらうつらしながらの観戦だったが、それでも幸運なことに、南アフリカがあのメキシコを相手に先制点を入れた瞬間だけは見ることができた。(実はそれでもう安心してベッドにはいり、あとの結果はまだ知りません。)

ワールドクラスの試合では本当に何が起きるか分からない。それで勝敗が決まってしまうのだ。
よく、シュミレーションゲームで、架空の試合をCGでアニメ化したのを見るが(競馬の重賞レースでもよくある。)、あんなもの、いくら手持ちのデータをインプットしたところでなんの役にも立たない。
つまり、哲学史においても敗北したように「決定論」は「物の理屈」であって「生の理論」とはなりえないのである。
第一、データとはそれをインプットする人の主観的選択によるもので、ひとりの人間の100%完璧なデータを作るなんてことは不可能である。

とまあ、ここからいい加減な話しになるのだが、今回の予選、日本はカメルーン、オランダ、デンマークと対戦する。
普通に考えれば、0勝3敗だろう。 ただ初戦のカメルーン戦で本田が得点したとしたら、もしくは本田か俊輔のアシストで森本が得点をして勝利しとしたら、話は別である。
問題は俊輔の自己判断能力にかかっている。自己のコンディションをどう判断し、何を本田にたくすか、である。

森本は最初から秘密兵器だったので、これまであまり出場の機会はなかったが、グラウンド上に彼の存在がなければ日本の得点能力は極端に低い。 ペナルティーエリアの中で森本が動き回っていればこそ、どこかにスペースが生まれ、ゴールチャンスが生まれるだろう。
キーポイントになる選手はあとふたり、稲本と松井である。
彼等には通常の選手のイマジネーションを越えた動きがある。

サッカーとはあくまでもトリッキーでファンタスティックなスポーツである。 「予定調和」というものはそこには存在しない。


■カメルーン戦
予選グループ第1戦の対カメルーン、全日本は松井からのセンターリングから本田が落ち着いて決めて、アフリカの強剛、カメルーンに1ー0で勝利した。

これ以上ないような理想的なゴールだった。
前半はまず、守備を固めて、絶対に相手に先取点を取らせないという戦法を取った岡田監督、本来ならMFの本田を攻撃のワントップに据えた「超守備的」なシステムでのぞんだ。 その39分、ハーフタイム直前のゴール、というのがまづ良い!
無事にそのあとの6分を戦い、前半を1ー0という、最高の雰囲気で15分の休憩に入る。

今回は攻撃陣のスリートップが3人とも調子が良かった。
大久保はストライカーというより、前線での「かき回し役」のほうが性格的に向いているようだ。 流れの中からつながるゴールは打てるものの、メッシやルーニーのように、ボールを受けたらなにがなんでも自分だけの力で道を切り開いてシュートまでもっていくという、本当の超攻撃的なストライカーのタイプとはいえない。
本田も本来、ストライカーではないが、いつも落ち着いて情況判断をし、勇気をもって戦術を実行できる決断力がある。
こういうタイプの一流選手は最後のキラーパスもできるし、みずからがゴールシュートを打つこともできる。昔の中田や、今ならメッシ、クリスチーアーノ・ロナウドのような選手だ。
松井はいわゆる「ファンタジスタ」。予想のつかない展開や動きをして、一瞬のうちに相手の守備陣を撹乱することができる
。 日本では俊輔も伸二もそうだし、ちょっと前ならロナウジーニョ、ジタン、ラウルがそうだった。

今回のワールドカップの戦いについては大きなふたつのポイントがある。
一つは俊輔のコンディションの如何、そしてもうひとつは森本投入のタイミングである。
俊輔の状態が万全なら本来、エースストライカーは森本が一番攻撃力がある。ただ本田と俊輔の役割がダブるので、司令塔がふたつになり、チームとしての一体感がずれてしまう可能性がある。
つまり、攻撃の選手が俊輔か本田のどちらのプランをイメージするかにおいて迷いがでる、ということだ。
そのために岡田監督は今、本田にMFとしてではなく、FWとしての役割を求めているのだろう。

全日本には優秀なMFがたくさんいる。俊輔、松井、遠藤、それぞれに「ファンタジスタ」の素質を持っている。
しかし、決定的なストライカーは(一流といえるものは)森本しかいない。岡崎や大久保では物足りない。岡崎は二流だし、大久保は後ろや周りを見過ぎる。

では次なるオランダ戦、世界でも屈指の強剛と戦うにはどうすれば良いのか。
普通なら0ー3、0ー4でオランダの勝利だろう。もし、日本が超守備的なシステムをとり、0ー0を狙うには第1戦の布陣から松井を下げ、ボランチを阿部と稲本の二人にすることだ。つまり4ー2ー4で長谷部、遠藤、大久保、本田の4人がMFで純粋なFWはおかない。
この布陣で0ー0の引き分けに持ち込みたいというのが正論かもしれない。

ただ、ひとつだけ夢がある。
それは1ー0での勝利である。
条件はまづ、俊輔の状態が万全であることが前提。
4ー2のDFとボランチは同じ。俊輔がトップ下にひとりでスリートップを本田、森本、岡崎(あるいは矢野、、玉田)に置く、超攻撃的布陣である。

でも、だめだあ〜(>_<)。
その夢が実現するには本田と俊輔の体力が長友ぐらいないと成立しないのだ。
やっぱり、無理だあ〜。 とほほ。


■オランダ戦
どうでしょう???
これまではまずまずの結果。
オランダ戦の0−1は結構評価している人が多いのですが、さあて、どうなんでしょう? 負けてそれほど悔しがっていないっちゅうのは如何なものか。
0−0ならすごい! 0−2で負けなら、今度のデンマーク戦で思い切り行けます。 しかし、今の状態では引き分けで決勝ラウンド進出という、甘い誘惑が目の前にぶら下がっているのですから厄介です。

おそらく100人中100人が前半は第1,2戦と同じメンバーが先発することに納得していると思います。
確かに守備面のしっかりとした布陣ではありますから、前半を0−0で折り返す可能性も高いと思われます。
そして後半、全日本は0−0の時点でどんな戦術を使い、何を目的に戦うことになるのか? もし、デンマークとの試合を0−0のドローで収めたいと思って戦うなら、それはもう、戦いとは言えないのですから、おそらく先に相手方にゴールを奪われる可能性が非常に高いのではないか?
ではどうすればいいのか?
先発メンバー、ボランチの阿部を稲本を替える。そしてフォワードは大久保に替えてトップに森本を入れる。采配は本田にまかせる。それで前半、上手くいかなかったら、0−1の時点で俊輔と本田を入れ替える。

多分、みなさんは無謀はプランだと怒るかもしれません。
しかし、私の高校からのサッカー経験とそれ以後のサッカー観戦経験からして、予定調和というものはほとんどありえないのです。
先発を替えずに前半に入って、後半途中(多分30分)まで0−0でしのげたとしたら、めでたく全日本は引き分けの勝ち点1を獲得できるでしょう。
しかし、そんな予定調和的な試合はサッカーの世界では決して起こらない、というのが私の勝手な予想です。

実際にどうなるのかは誰にも分かりません。
しかしどんな采配になったとしてもとにかく、みんなで全日本を思いっきり応援しましょう!
結局、僕らにできることはとてもとても限られているのです。


■デンマーク戦
試合を観、監督、選手たちのインタビューを聞き、デンマーク戦に臨んだイレブンの気持ちを知り、3−1での勝利という結果が出て、今、こうしてコメントをしている。

美しい3ゴールだった。
岡田監督の戦術は私の予想とは少し違ったが、デンマーク戦に向ける、攻撃的な気持ちは全く同じだった。
試合は第1戦、2戦と同じメンバーが先発した。
フォーメーションはそれまでの4−3−3ではなく、4−2−3−1の攻撃的な布陣で始まった。
しかし開始直後、デンマークに中盤を支配され、何度か危ない攻撃を凌いだあとに、監督はもとの4−3−3の守備的なフォーメーションに戦術を戻した。

重要なのは、試合前、選手全員の意識が攻撃的に勝ち点を取りに行く、ということで一致団結していたことである。
「点を取らなければこの試合は負ける」、という考えで全員の気持ちが統一されていた。
「0−0のスコアーはない!」 という考え方だ。
チームはとても良い状態で一体化していた。

デンマークの猛攻を凌ぎ、長谷部を中盤に戻したところでようやく日本側にボールが繋がりはじめ、大久保から松井へのキラーパスや、長谷部の中盤からの前線突破のシュートといい形が出始めた。
そして前半17分、右30度、およそ30メートルから得たフリーキックを本田が決める。

素晴らしいフリーキックだった。
相手のキーパーは一瞬右にふられた。
本田の得意とする(無回転で変化しながら左に流れて速度を増す)左足のシュートを、デンマークのキーパーは予測できなかった。 もともと情報がなかったにしても、もし充分にそれを承知していたとしても、やはり本田のフリーキックはその軌道を予測しにくい超一級のシュートである。

そして前半30分、正面25メートルで得たフリーキックの場面では、今度は遠藤が鋭いカーブをかけたボールをゴール右隅に叩き込んだ。
おそらく、試合を観戦していたものの80%は、実際に戦っている両チームの選手もふくめて、本田が蹴るものだと予想しただろう。
しかし実際には、遠藤は最初から「ここは俺が蹴る」と宣言し、本田もそれを当然のごとく受け止めて、自分はフェイクのための演技に没頭した。
グラウンド上の雰囲気は完全に「本田が蹴る」という空気だったと思う。 相手方のゴールキーパーはまたしても予想を裏切られた。

後半、相手の上手い演技からペナルティーキックを与えてしまった場面があったが、川島が気迫のセーブを見せ、結果は2−1になったもののそこから逆に日本チームに、もう一度アグレッシブな態勢が生まれた。
そして後半の40分、決定的な3点目が本田の個人技から生まれる。
ゴール前でのディフェンスを翻弄する回転フェイントと、そのあとの憎いぐらいの落ち着きから岡崎への決定的なパス。
試合前に本田は岡崎に「俺も1点取るからお前も1点取れよ」と言っていたそうだ。

試合後のインタビューで本田は「決勝ラウンド進出が決まってもあまり嬉しさが湧いてこない。自分でも不思議だが・・・」というようなコメントを出した。
おそらく、4点目の決定機を外したことが随分悔しかったのだろう。
スコアは3−1で残り時間5分。試合はもう決まっている。
しかし、本田は4点目のイージーなシュートを外したことを自分に恥じているように見えた。

俊輔には悪いが、この3試合で全日本は完全に本田のチームとなった。俊輔のコンディションはまだ完全には戻っていないのだろう。
決勝ラウンド、相手に先制された場面に出てくる「森本」に、奇跡の逆転勝利を演出してもらいたい。
そして、あの、メッシのいるアルゼンチンと正面から戦うところを見てみたい。


最終戦(最終戦)

静夜思  李白

牀前看月光  牀前(しょうぜん)月光を看る
疑是地上霜  疑(うたご)うらくは是れ地上の霜かと 
擧頭望山月  頭(こうべ)を挙げては山月を望み
低頭思故郷  頭を低(た)れては故郷を思う

2010年、南アフリカで行なわれているワールドカップの決勝トーナメント、全日本はパラグアイを相手に120分を戦い、(前、後半45分、延長戦30分)0ー0のドローからPK戦に突入したが惜しくも5ー3で敗退した。

試合前、選手も解説者も口を揃えてこう言っていた。「このパラグアイ戦は、内容は問わない、とにかく『勝利』という結果だけが欲しい。」
しかし、現地の中田英寿だけは試合開始直前のインタビューに、こんかコメントをした。 「ああ〜、この試合はこんなふうだったなあ〜、あの時はこうだった、と後になって語りぐさになるような印象的な試合をしてほしい。勿論、『勝つ』ことも大切ですけどね。」と。

0ー0という内容で、こんなに緊迫し、眼を逸らせられない瞬間がとぎれもなく120分も続く試合を、私は初めて見た。
前半のほとんどの時間、日本は中盤でのボール支配ができず、パスもつながらず、ボール支配率は40%以下だった。
それでもパラグアイの決定的なゴールチャンスはことごとく川島がスーパーセーブした。
日本にも惜しいシュートが2本生まれた。松井のロングシュートはバーにはじかれ、本田のゴール正面からの決定的なシュートはわずかに左に逸れた。それでも前半を終える頃からは、やっと全日本にも攻撃のラインがつながりはじめ、後半はウルグアイとほぼ互角の戦いができたようにも見える。
ただし、足下のボールの扱いはパラグアイの選手のほうが断然勝っていて、実力ということを考えるとたしかにパラグアイチームのほうが一枚上手だったかもしれない。

しかし、前後半の90分を0ー0で終え、延長戦に入るころには、試合に対する精神力はむしろ全日本チームのほうが勝っていたように思われた。延長戦に入ってからは、もうパラグアイの攻撃陣にゴールを奪う力は残っていないように思えた。
「おそらく日本が勝つ!」
私はもしこのまま延長戦でも決着がつかず、PK戦に突入したとしても最終的には日本が勝つものと信じていた。

全日本チームは選手も監督もスタッフも全員が一丸となって、これ以上ないほどに素晴らしいチームワークでひとつにまとまっていた。
ゴールキーパーの川島は、予選ラウンドから数えたらいったいどれでけのスーパーセーブで日本のゴールを守ってきたことか。
PK戦が始まる前の相手のGKや選手達の顔と見比べてみると、気力、執念、気合い、チームワーク、すべてに於いて日本がまさっているように思えた。

しかし、サッカーの神様とは不可解なものである。
川島は最後まで「神がかる」ことはなく、駒野のシュートは無惨にもバーに跳ね返った。
駒野がシュートをはずし、皆のもとに戻ってきたとき、中澤が先頭になって彼をチームのスクラムの真ん中に迎え入れた。
選手全員が強く肩を組んで、PK5人目のパラグアイの選手と川島の対決を見守った。
試合開始前の「国歌斉唱」の時にも、珍しく今のイレブンはお互いに肩を組み合って日の丸を斉唱していた。
しかし、敗戦が決まる寸前の、グラウンドに横一列に並んだ男たちのスクラムほど、お互いに強く繋がれた心は他に比べるものがないだろう。
それはともに苦しみを戦い抜いた「戦友」だけに与えられる特別な感情である。

ワールドカップ、ベスト8入りの夢は2014年まで持ち越された。

さて、その時のメンバーにはどんな顔ぶれが並ぶのだろう?
もしかしたら「中田英寿」が今回の阿部の位置(ボランチ)に立って、攻守に睨みを効かせながら今よりももっと成長した本田や川島のプレーをバックで支えているかもしれない。そして誰よりもサッカーを楽しんでいるかもしれない。(おそらくマラドーナよりも)

なんて・・・これは単なる夢や妄想ではなく、ね。

●グラウンドに神の降らせし夏の霜  葱
(※夏の月:「月涼し」と言っても夏。また夏の夜の月光が地面を白々と照らすのを、「夏の霜」と言う。 山本健吉篇「季寄せ・春夏」より引用)


*あぢさゐや雨ニモマケズアキラメズ=資料官

  早いもので6月19日に父の三回忌を行った。梅雨真っ只中であり雨続きの予報であったが,墓参りの当日は梅雨晴れに恵まれた。生前自分の葬儀には坊主は呼ぶな,経は要らぬ,戒名不要などと言っていたので,葬儀の時には希望どうりに簡単にさせていただいた。墓石には,戒名のある祖父・祖母の横に戒名のない父の名が短く彫られている。三回忌の法要自体故人の希望に沿ったものか確信は持てなかったものの,当人は冠婚葬祭に出かけることは嫌いでなかったし,世間一般のけじめと同じだし,博多でお酒を飲む集いと思えば気楽な話であったので,さっさと実施することを決めた。

 父にはなぜか宮沢賢治がよく登場した。50歳の記念の湯飲みには「雨ニモマケズ風ニモマケズ」と自ら書き加えている。父が作った小生のアルバム第1号の冒頭は賢治のこの「雨ニモマケズ」が書かれている。私に何を期待して書いたのか,これは未だにわからない。二年前の納骨の時には坊主の経もなく間が持たないと思ったので,賢治の「雨ニモマケズ」を読んで済ませた。今回は雨ニモマケズの湯飲みでお茶を供えた。思えばいい加減な話である。

アルバム1ペ−ジ


50歳の湯のみ


丘ふみ游俳倶楽部5月号のとおり,今年の2月に徳久さんの母上がご逝去されたので,今回の帰省に併せて赤間の徳久さんの父上のところにお参りに出かけることにした。久しぶりの鹿児島本線在来線の快速電車に乗車して,赤間に向かった。昔に比べると駅がやたら増えており,沿線にはマンションなどの住宅がかなり増えていた。快速といっても博多を出て赤間まで7つも止まるしろもので,新しくできた駅を止まらないだけの昔の普通電車と同じなのだ。
 父上は赤間駅方徒歩10分の坂の上の家に広い家にお一人で住まわれている。85歳を過ぎたと言われていたが,矍鑠としてお元気だったので安堵した。ほとんど帰省しない徳久さんがたまたま帰省していた時にご逝去されたとの話を聞きながら,ビールまでご馳走になった。家内の遺影と写真をと言われてカメラを向けたが,母上の生前にお会いして写真を撮ることができなかったことが大変悔やまれました。1時間近くお邪魔して,小雨の中を歩いて駅に向かった。坂の下の道端の色の濃い紫陽花が雨に濡れて輝いており,思わず足を止めて眺めてきた。雨も降っていたので写真を撮らなかったことも若干後悔。

●濃紫陽花かくしゃくとして父独り
●あぢさゐや雨ニモマケズアキラメズ
●梅雨の月眺めて父のこと思ふ

赤間駅に戻ると,人身事故で鹿児島本線の電車は運転を見合わせ中とか。先の約束もあるし,西鉄バスの旧三号線をシコシコ走る赤間営業所発天神行きのバスに乗り込んだ。バイパス開通後の旧国道はさほど車の量は多くなかったが,バスの乗客に入れ替わりは激しく社内ががらんとしていたのは最初のうちだけ。東郷→福間→古賀→新宮(JR駅は福工大前に変わっていて・・・)→花見→和白と懐かしい地名をかみしめながら,香椎の福岡女子大前からは都市高速に入り,多々良川,福岡貨物ターミナル,箱崎浜を上から眺めて,天神に着いたのは1時間35分後。雨ニモマケズ列車ノジコニモ負ケズ天神マデタドリツイタ。

●おしゃべりもつぶやきばかり梅雨寒し
●紫陽花や赤い機関車さようなら
●梅雨明けの一番電車水城跡

東京に帰ると紫陽花が見頃になっていた  飛鳥山の紫陽花3枚







かごんま日記:" Ame ni mo Makezu " = スライトリ・マッド

2010年7月4日(日)
*お田植祭原トド組の唄響く

not losing to the rain
not losing to the wind
not losing to the snow nor to summer's heat
with a strong body
unfettered by desire
never losing temper
cultivating a quiet joy
every day four bowls of brown rice
miso and some vegetables to eat
in everything
count yourself last and put others before you
watching and listening, and understanding
and never forgetting

6月16日に、「今夜の8〜9時、公民館でハラトドグミのタウタの練習をします」と、無線で案内があった。はて、タウタとは何ぞや?!トドって何?!とえっちらおっちら自転車で公民館まで。練習の前に飲方(のんかた)がすでに始まっていた。顔なじみのおばちゃんが3人。肴を用意したりビールを出したり世話役だ。練習が始まるまでおばちゃんたちとおしゃべり。唄を歌うのは、おじさんたち14、5名。女性は出ないとのこと。旧暦5月5日に近い日曜日(今年は6月20日)に、山幸彦ことヒコホホデミノミコトが祭神の鹿児島神宮で御田植祭が行われる。1560年島津貴久が神田を寄進して翌年から毎年行われるようになったもの。ということは450年の歴史!午前に本殿で本宮祭があり、午後から神宮横の神田で斎田祭が行われる。神田には宮内の田の神像があり、この前に祭壇が造られ神事や田の神舞いが奉納される。そして50人の早男と早乙女による田植えが始まる。各地の集落から参加して舞や田唄を奉納する団体を「トド組」と呼ぶのだそう。明治時代には808組の「トド組」の奉納があったと記録されているが、段々廃れ、現在の「トド組」は、隼人町の真孝・原・松山・内の4地区しか残っていないとのこと。私の住む自治会は原。したがって原トド組。肝心の田唄には、ビックリたまげた。最初から最後まで、「は〜は〜は〜、や〜や〜や〜」と掛け声のような言葉をおじさんたちがお腹の底から張り上げるのだ。抑揚があるが、楽譜はない。400年間口承で伝えられて来たもの。意味を尋ねると『ものの見事は吉田の城よ…』とか言ってあったが、さっぱりわからなかった。五穀豊穣を祈願し、雨が降ることを願っているらしい。

*鳥の巣に傘をさしたり早苗月

in the shade of the woods of the pines of the fields
being in a little thatched hut
if there is a sick child to the east
going and nursing over them
if there is a tired mother to the west
going and shouldering her sheaf of rice
if there is someone near death to the south
going and saying there's no need to be afraid
if there is a quarrel or a suit to the north
telling them to leave off with such waste
when there's drought, shedding tears of sympathy
when the summer's cold, wandering upset
called a blockhead by everyone
without being praised
without being blamed
such a person
I want to become

その翌日、6月17日から九州南部地方は大雨に見舞われ、ずっと降り続いている。今日までに雨の上がった日は、2日のみ。あとは連日の雨、雨、雨。20日のお田植え祭もザンザカ降る大雨の中、とり行われた。ここ鹿児島では6月の雨量は平年の2倍降ったという。
県内の7ヶ所では過去最高の雨量に達し、土砂崩れや増水した川で2名亡くなられ無念。行方不明者も出ており心配である。近くの民家の道路に面した庭にツゲの木があって、なぜか傘がさしてある。今日たまたまその家の人を見かけたので聞いてみる。「ひよどりが卵を抱いてるのよ」とのこと。よく見ると鳥の巣が見えた。

*"Ame ni mo Makezu" by Miyazawa Kenji (1931) より引用


■編集後記

今月から新しいお顔が加わりました。「秋波」さんこと波多野礼子(現姓 森礼子)さんです。
「秋波」とはもともとは秋の澄み渡った波の意味ですが、転じて、美人の涼しげな目もとを形容する言葉となりました。「秋波を送る」となると、女性が好きな男性に表す媚びを含んだ艶っぽい目線という意味になります。「秋波」を送られた方は秋の波だけに「ゾクっと」するのでしょう。昔のひとは面白い表現を考えますね。
旧姓波多野さんで、何か波のつく言葉でいいのはないかと考えて、私が命名させて頂きました。美人の礼子さんですからぴったりでしょう。
彼女は「関西一杯呑もう会」のマスコット的存在で、余計なことは何も言わない、いつもニコニコ、ふわふわとした雰囲気の「癒し系」の女性です。賢さにもいろんなタイプがあるとおもいますが、この「ふわふわ系」も賢い女性のひとつのタイプです。
今月の彼女の句に触れてみて、あらためて「俳句」というものは、句にも選にもそこはかとなくその人の人柄が表れるものだなあ〜と、不思議な気がしました。
いずれにせよ、こうして「丘ふみクラブ」で、いろんなタイプの賢い女性達に囲まれて俳句の話しができるというのは、うん、悪くない! なーーんちゃって。(´0`)。

余談ですが、先月にもお話した「角川俳句賞」ノミネート50句のことですが、何人かの「読んでもらいたい人」に個人メールにて送ったところ、数人の方から感想を戴き、これがすごく勉強になりました。
たとえば、サッカー部のころからの親友、白髪鴨さんからは、こんな句評を戴きました。
「〜上の3句に代表されるように部長の句には、概してロマンチックじゃないやさしさを感じる。少女的な、あるいはユニ・セクシャルな感覚表象を感じる。透明に近いんだ。良し悪しじゃないが、あまり好みじゃないのは確か。秀句と感じるのは、その透明な視線がもう少しリゾーム的な絡みつきを見ている句なんだ。」
勿論、ほかの句にたくさんお褒めの言葉も戴いたのですが、このような他人からの句評は、自分では気が付かない事だけに、大変参考になりました。

そんな訳で、葱男の拙句50句を読んでみたいと思われる奇特な方がもしいらっしゃいましたら個人メールにて、送付させて頂きますので、その由、御連絡下さい。
勿論、感想やコメントを強要するつもりは毛頭ありませんので、その点はご安心を。

最後に今月、「二六宗匠」珍しくお休みです。 残念。


■消息

夏海:『俳句界』7月号/「めーる一行詩」【佳作】
●舟を繰る女のかひな花樗  とりごえ夏海
『俳句界』7月号/「雑詠」【佳作】(高橋悦男選)
●いかのぼり島の国道海へ果つ   とりごえ夏海

五六二三斎:『俳句界』7月号/「めーる一行詩」【佳作】
●卯の花やデイサービスの車来る  原たかゆき

スライトリ・マッド:『俳句界』7月号/「めーる一行詩」【佳作】
●月曜の授業卯の花腐しかな  島小みかん

葱男:『俳句界』7月号/「雑詠」【佳作】(辻 桃子選)
●卒業の運動場の広さかな  中島葱男


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