*無法投区/桜月

〜ずつと見ていたき春日をあとにする〜



*御中虫さんの前衛俳句=葱男

先日、句会のあとの飲み会で話題になった、うら若き女流俳人「御中虫」さんの俳句を紹介します。

これが句歴2〜3年で「芝不器男俳句新人賞」をかっさらった、小川軽舟も山口優夢も注目の過激な才能です。この前衛的自由律俳句に、はたして、我々還暦世代はどこまでついてゆけるのか??

●おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ 
●歳時記は要らない目も手もなしで書け
●季語がない夜空を埋める雲だった
●じきに死ぬくらげをどりながら上陸
●虹映る刃物振り振り飯の支度
●せいぜい着飾ることだ誰も見てをらん
●机を叩く机を蹴る私は蚊ぢやない
●夏雲を食ふ夏雲を食ふ夏雲
●一滴一罪百滴百罪雨ハ蛙ヲ百叩キ
●原爆忌楽器を全力で殴る
●チューリップ体は土に埋まりけり
●暗檻ニ鵜ノ首ノビル十一時
●女なんだ証拠はないが信じてくれ
●結果より過程と滝に言へるのか
●僕にはその強さがないし強くなろうともしていない
●暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ
●グラビアにじじいが葡萄もって微笑むのが笑える
●枯野かっこいいぜ俺はこんなに不幸だぜ
●混沌混。沌混沌。その先で待つ。


*『梅上げ』行事=雪絵

三月十日、太宰府の還暦厄除けの行事、第二弾「梅上げ」に行って来ました。

この日は前回の「豆まき」の日とは全く異なり、また福岡では久々の晴天で、いいお祭り日和となりました。
喋九厘さんによると、「梅上げ」とは、還暦を迎えた男女が、太宰府天満宮に梅を奉納して厄払いと還暦祝いを行う、太宰府地区で明治三十五年から続く行事、とのこと。
その行事は早朝から始まっていたようですが、私はメインイベントの奉納行列を見学しました。
太宰府中央公民館で午前11時15分より出立式。(ここで喋九厘さんは代表で挨拶をされたそうです。)

13時、道中出発。

* *

  ●還暦の祝ひ行列木の芽道

出発から40分過ぎくらいに、お囃子の後ろから歩いて来る喋九厘さんを見つけました。
もうその時はすでに、お酒の中に身を置かれているようでしたね。
本人曰く、挨拶が終わってほっとしたから、とか。

* *

  沿道には所々に、ご近所の方たちが持ち寄ったお酒やつまみ、おやつや果物などを並べて置き、「梅上げ」の方たちと「おめでとうございます。」「ありがとうございます。」と互いに挨拶を交わしながら、接待をされておられました。
もてなしを受けた方たちは、紅白のお餅をお返しするという習わしのようです。
接待などはしない私のような只の見物人にも、それぞれの方がお餅をくださって、両手いっぱい、ポケットにいっぱいいただきました!

喋九厘さんと合流した接待場所の先が、いよいよ牛車の控えている五条中央公民館。
そこで練り歩いてきたお囃子隊や「梅上げ」の人たちが少し休憩を取った後、本番の奉納行列の出発となりました。

●献梅の荷を引く牛に三味の音

* *

どんたくのお囃子隊に負けずとも劣らぬ音色で、三味線を習っているという小学生たちも参加をしていました。
この行列の行く通りは「どんかん道」といい、私も実家は太宰府の住人でありながら初めて歩いたのですが、かつて榎社から道真の亡骸を牛の背に乗せて通ったと言われるところで、遠いいにしえに少し思いを馳せた次第でした。
友人と二人だったので、あちらこちら景色を眺めたり、写真を撮ったり、お喋りをしたりしているうちに牛車も喋九厘さんも見失い、あわてて参道に直行しました。

* *

   ●振る舞ひの酒春愁を忘れさす

天満宮参道の中ごろにある鳥居の近くで、牛車の積んできた樽酒が喋九厘さんの手ですでに振る舞われていました。
参道には多くの人たちが、思わぬもてなしに頬を緩ませていましたね。
もちろん私も、お相伴にあずかりました!
献梅の植樹までには、まだまだ時間がかかるとのことで、喋九厘さんとはそこで別れ、本殿へと向かいました。

* * 

●菅公の梅の白さや遠き空

今年は異例の寒さで梅の開花がかなり遅れたこともあり、早咲きの飛梅でさえ一か月遅れでようやく満開の状態でした。
でもいつ見ても清楚なこの白梅、今年は格別に思えました。
本殿でお詣りをしたあと、五月には見事な花を咲かす菖蒲池のほうへ行き、その梅園の一角に植樹された梅の木を確認して帰途に着きました。
東日本大震災からちょうど一年を迎える前日でもあったことから、六十年間生きて来られた奇跡に、改めて感謝する一日でもありました。

●喜びはここに在ることすみれ草

喋九厘さん、ほんとにお疲れさまでした。                             


*筑紫丘合格記念東京行き鉄旅 (惜別 急行&特急日本海)=資料官

●春はあけぼの日本海ラストラン
●去年今年寝台特急日本海        丘ふみ游俳倶楽部20年1月号
●長き夜の時刻表の旅果てしなく     丘ふみ游俳倶楽部20年11月 
●ブルートレイン廃止のニュース蜜柑剥く 丘ふみ游俳倶楽部20年12月



*

1971年7月
新大阪駅の到着する青森からの特急日本海



*

1975年2月
雪が舞う東海道本線山崎駅
大阪から向日町に回送される特急日本海
この頃は古豪EF58が牽引していた



*

2010年12月
奥羽線津軽新城駅を通過する大阪発特急日本海
終着青森も間近
EF81ががんばる

3月17日のJR各社のダイヤ改正において青森−大阪間を走る寝台特急日本海が廃止となった。この列車の前身は同区間を走る急行日本海,昭和43年10月のダイヤ改正で特急に昇格した。筑紫丘合格記念東京旅行の往路にこの急行日本海に乗ったり,昭和43年10月の特急に昇格してからも幾度か撮影をしていたので,この名前が消えることが大変寂しい。日本の寝台列車も風前の灯である。

44年前の昭和43年3月,筑紫丘に合格したので,その春休みに東京まで出かけた。当時はまだあさかぜ・さくら等の寝台特急か昼間の電車特急はと・つばめで新大阪乗換新幹線乗り継ぎが一般的だったが,行きは北陸線・信越線経由,帰りは山陰線経由で往復した。鉄ちゃん成り立てで,食う(駅弁),撮る,買い集める(時刻表,きっぷ)ことを始めだしたので,せっかく東京まで行くならば,名物駅弁をなるべくたくさん食べられるルートを考え出した。東京には昭和29年に母と行ったことがあったが,記憶にはまったくなく,今回が実質初めての東京行きであった。

博多から大阪までは特急には乗らず停車駅が多い電車急行はやともに乗った。当時のはやともは博多−名古屋間の長距離電車急行,手元に当時のアルバムがなく正確な時間はわからないが,博多発は7時で一日山陽線に乗り大阪に17時ごろに着いたはずである。
大阪から直江津までは青森行き急行日本海に乗った。当時の大阪駅ではコンコースに夜行列車別の待合場所があり早くから列を作っていたが,3時間日本海の列に並んで待った。当時大阪から青森に行く列車は昼間の特急白鳥と夜行の日本海ぐらいしかなく,13両編成で1等寝台,1等車,食堂車,2等寝台を連結していたが半分は2等座席車である。3月下旬なので列車は結構混雑しており,ボックスの四人席はすべてふさがった。米原からは北陸線へ,米原-田村間はSL牽引が残っており汽笛が確かに聞こえたと記憶している。敦賀を過ぎると北陸トンネルを通過したが,ここが日本一のトンネルと緊張して外を眺めていた。金沢や富山は深夜であったが,初めての北陸の町の駅の風景をじっくりと眺めて過ごした。

親不知は既にトンネルの路線に変わっており,日本海をじっくり見ることはできなかった。結局座席で眠ろうともせず,朝5時ごろに直江津に無事到着した。大阪からの乗客は途中あまり降りず,多くは新潟や更にその先の東北各県に向かうようで,青森からさらに青函連絡船で北海道方面に向かう客もいたと記憶している。下車した直江津駅はまだ薄暗かった。
また待合室で3時間以上待って上野行の急行妙高に乗車した。短い8両編成の電車急行である。高田から妙高高原にかけてはまだ雪が深く,初めて見る雪原にえらく感激した。電車は長野で満席となり,上田・小諸と止まるたびに通路まで乗客があふれトイレに行くのも弁当を買うのも大変だった。横川の峠の釜飯は必死になって買い求めた。おそらく15時ごろには上野に着いたのではなかろうか。博多を出てから30時間以上は経っていたはずである。上野から東京駅に向かい,中央線の快速で武蔵小金井の祖父の家に向かった。東京には1週間以上はいたはずである。(手元に資料がなく不明・・・)



*

1968年3月  感激の雪国初体験
信越本線 妙高高原駅(当時は田口駅)付近の車窓
妙高山2454m(現日本百名山)が見える

福岡から坊主頭の高校入学前の小僧がやってきたので,祖父母をはじめ・叔父・伯母たちは皆大変だったと思う。銀行マンの母の兄の落合の家には初めての地下鉄東西線で出かけ,私の希望の交通博物館に連れて行ってくれ途中ニコライ堂と大原交差点(当時は平面交差で超渋滞)を教えてくれた。国立の父の妹は横須賀線で鎌倉に連れて行ってくれた。北鎌倉で下車,ここで父の姉と待ち合わせ,駅前の蕎麦屋(この蕎麦屋は今でも残っていて,時々入ることがある)で昼食ののち円覚寺と建長寺を回って鶴岡八幡に向かった。平成16年3月に在京の丘23で実施したシャベ栗と歩こう古都鎌倉の旅とほぼ同じルートである。
高徳院の大仏から江ノ島まで足を伸ばし最後は大船から横須賀線で帰った。鉄道マニアの叔父にすっかり洗脳されて一緒に上野駅への撮影に行ったことをきっかけに,単独で青梅の鉄道公園,千葉県の佐倉機関区(当時千葉県はかなりSLが走っていた)に出かけた。巨人ファンの祖父は後楽園球場に巨人のオープン戦(巨人-南海戦と記憶する)と東京タワーにも連れて行ってくれた。大の巨人ファンの祖父は昭和63年に亡くなるまで国鉄の定期券を買い後楽園ネット裏の指定席に通い続けたのです。私が福岡に戻る日の晩親戚一同東京駅まで見送りに来てくれたが,私が福岡に戻ってさぞかしホッとしたのではないだろうか。
東京駅から寝台急行明星の2等寝台で京都に向かった。



*

1968年3月
羽田空港に行くモノレール 大井競馬場前
浜松町−羽田空港たしか250円とやたら高かった記憶
当時はこんな色をしていた



*

1968年3月
横須賀線 北鎌倉席を発車する横須賀線電車113系
これから踏み切りを渡って円覚寺へ



*

1968年4月
佐倉駅に進入する長い煙突のC57牽引総武線列車

京都からは山陰線経由の博多行き特急まつかぜに乗車した。現在山陰線は益田−幡生間のように特急列車が走らない区間があるし,西部を走っている特急は2両編成の貧相な姿となってしまった。昭和43年のディーゼル特急まつかぜは食堂車と1等車を連結した堂々10両編成(米子−博多間は6両編成)ていたし停車駅も山陰の主要都市を止まるだけで,特急としての格調があった。始発京都から終点博多まで乗っていたのはおそらく私ぐらいだったと思うが,博多まで結構席は埋まっていたと記憶している。鳥取駅では念願の松葉かに寿司が買えたし,米子駅が近づくと雪をかぶった大山が車窓に姿を現した。京都から12時間以上乗っていたのに博多駅に降り立つ時にはまだ物足りなさを感じていた。



*

1968年3月
博多駅を出発する京都行特急まつかぜ
旅行の時の写真ではありません

【注】大阪を経由するので山陰線は福知山から。このため山陰線の二条−綾部間がまだ未乗車区間で残っている。
【注2】列車の編成等はさすがに記憶はなく,時刻表やインターネットで確認した。

◎行き
博多_大阪 急行はやとも(博多発−名古屋行)2等車自由席
大阪_直江津 急行日本海(大阪発−青森行)2等車自由席
直江津_上野 急行第1妙高(直江津発−上野行)2等車自由席
◎かえり
東京_京都 急行明星(東京発−大阪行)2等寝台
京都(山陰線経由)_博多 特急まつかぜ(京都発−博多行)
2等車指定席
【注】当時は1等車2等車と分かれていたが,昭和44年5月に等級制が廃止になり1等車はグリーン車に変わった

この旅行で食べた駅弁
門司駅(散らし寿司),福山駅(鞆の鯛寿司),大阪駅(大阪寿司),直江津駅(散し寿司),軽井沢駅(ゴルフ弁当),横川駅(峠の釜飯), 豊岡駅(とんかつ弁当),鳥取駅(かに寿司),米子駅(かに寿司)
正確ではないが,こんな弁当を食べたはずである。


かごんま日記:“「赤い靴」 ” = スライトリ・マッド

2012年4月1日(日)

*千両の酒また酒や桜咲く

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える

先週の今日は私の誕生日。若いころはこんな年の自分なんて想像も出来なかったが、実際なってみると何のことはない。体のパーツはあちこちガタが出てきたものの精神構造は進化しているような気もする。最初のレベルが低いと、伸び幅も大きいものだ。その3月25日に鹿児島を発ち横浜にやって来た。4月3日が娘の入学式で翌日に帰鹿の予定。丘ふみ仲間の、いりりんが、初日に印西から赤プリに乗って娘の引っ越しのお手伝いに来てくれた。初めての土地で心細かっただけにいろんな心遣いがありがたかった。いりりんとは後日また互いの家族を連れ中華街で会う。同撥菜館で中華を食べた後、ホテルニューグランドでデザートとコーヒーを。デジャブのような建物と思っていたら、見た映画「有頂天ホテル」の舞台でロケに使ったとのこと。趣のある古いホテル。掃除とイケアの家具の組み立てに明け暮れて、ようやく暮らせる目処が立ってきた。今日は、めじろ遊俳クラブの句会がある日。遠いのでいつも欠席投句をさせてもらっていたが。たまたま横浜滞在中に句会の日が当たったのでせっかくのチャンスを逃すことはないと初めて参加することに。娘は横浜市港北に住む従兄妹の娘の昭子ちゃんと秋葉原に、私はJR目白駅に向かう。東京の電車はやっぱり便利に出来てるなあ。待ち時間はないに等しい。すぐに乗り換えが出来る。我が家の犬の散歩コースに朝日山があるが、バス停があって何気なく時刻表を見たら、なんと朝の2本のみ。車がないと生活ができないのが隼人。隼人に住む年金生活の元気なシニアたちの足は、圧倒的にパジェロミニかジムニー。電気自動車はまだ高いし、お手頃なのが軽の四駆なのだろう。東京は車なんか乗るとかえって渋滞に巻き込まれそう。電車で事足りるというのがうなずける。
さて今月の会場は豊島区目白のスペイン料理アカデミー。出席者は8名。早く着いて一番乗りだった。鉄馬さんのみ面識があったが、宗匠も含めみなさんとは初対面。ドキドキしたが、アットホームな雰囲気ですぐに打ち解けることができた。大変勉強になる講評や合評会で。有意義なひとときとなる。娘との待ち合わせまで時間があったので、駅前まで移動し二次会へ。隣に座った猫翁さんのお話も興味深く、刺激的で。洋書の何が好きか?何を読んだか?と問われ、なかなかそういう質問をする人や文学談義をすることは滅多になく、その時は、専攻は文学でなく教育で文学作品はまともに原書読んでないです。なんてヘロヘロな答えをしてしまった。初めて通して読んだのは、サミュエルリチャードソンの「パミラ」だ。近代小説の父と言われるのがリチャードソンでパミラは閨房小説だったなあ。以前音楽ディレクターをされていて、クィーンの話も。クィーンの秘蔵DVDをコピーしてくださるとおっしゃったが覚えてあるかな?二六斎宗匠、晶子さん、猫翁さん、風悟さん、九碼さん、鉄馬さん、一甫さん、後半で参加された、ぽんたさん、みんな皆ステキな方たちだった。お会いできてほんとによかったなあ!!明日は、宗匠が教えてくれた「ほかいびと:伊那の井月」をポレポレ東中野まで見に行ってみよう。

 *「赤い靴」 野口雨情作詩、本居長世作曲 (1922) より引用


■編集後記

「俳句界4月号」、水音さん、角川春樹の特選でした!
●青き地球すこし崩して葱を掘る 

「葱」入りの句だというので、めでたさも2倍、2倍です。
砂太先生や原たかゆきさんも「俳句界」の常連です。
みなさんもためしに「めーる一行詩」や「雑詠」「兼題」「俳句ボクシング」に投句してみてください。
一般誌の活字になるのは嬉しいものですよー。

 (文責 葱男)


■消息

水音
●青き地球すこし崩して葱を掘る  山下水音
『俳句界』4月号/「雑詠」【特選】(角川春樹 選)
●麒麟舎の肩のあたりの隙間風  山下水音
『俳句界』4月号/「俳句ボクシング」【ベスト8】(坊城俊樹 選)

●着ぶくれて片意地はつてゐたりけり  山下水音
『俳句界』4月号/「雑詠」【佳作】(奈良文夫 選)

砂太
●遠く来し父祖の地の丘曼珠沙華  白川砂太
『俳句界』4月号/「兼題/遠」【佳作】(大高霧海 選)
●孔子廟戸を八の字に落葉掃く  白川砂太
『俳句界』4月号/「雑詠」【佳作】(加藤耕子 辻 桃子 選)


葱男
●永遠に永遠に永遠にマスク  中島葱男
『俳句界』4月号/「兼題/遠」【佳作】(名和未知男 選)
●食べさしのリコッタチーズ春の風邪  中島葱男
『俳句界』4月号/「めーる一行詩」【佳作】


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