*無法投区/

〜沸かすたび煤ける薬缶冬来る〜

*俳句界への招待=葱男

「俳句界」11月号の「俳句界への招待」のコーナー(p202)に矢作十志夫さんの5句が掲載されました。

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今月の矢作さんは「投句コーナー」でも大活躍!

雑詠の部では
●一斉にボートの櫂のうらがへる  (伊藤通明 秀逸 山本洋子 佳作)

兼題「人」の部では
●川柳のやうな人ゐて渋団扇 (大高霧海、田中 陽 佳作)

なお、水音さんは俳句ボクシングで大きな文字。
砂太先生も何句か佳作、葱男も1句だけ佳作があり、「丘ふみ」から4名が名を列ねました。


*小春日や百周年の幼稚園=資料官

●小春日や百周年の幼稚園 *大濠公園/吟行・句会/投句
●先生の若き丸顔聖五月 *丘ふみ游俳倶楽部第58号(H21.6)

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昭和34年卒園アルバムより
幼稚園園庭
廃車になった市電の車体を設置

生まれてから10年近くは福岡市の西の方,草ケ江(現草ケ江2丁目)と別府北町(現鳥飼4丁目)に住んでいた。現在草ケ江は中央区,別府北町は城南区であるし,ちょいと西または北方向に出ると早良区と微妙な位置にある。昭和30年に草ケ江小学校前の間借りから樋井川を越えて別府北町の4階建ての県協会住宅に移り住んだ。2DKの狭い造りではあったが,自宅用風呂や水洗トイレがあり,4階からの見晴らしも大変良かった。周囲にはまだ田畑も残っており,特に南方面ははるか油山まで農村風景が続いていたと記憶する。道路は砂利道ばっかりで,ボンネットの西鉄バスが砂埃を立てて走っていた。アパートのすぐ南側には国鉄筑肥線が走っており,まだその頃は小さな蒸気機関車の姿を見ることができた。近くに鳥飼駅がありここから祖父の住む松浦へたびたび出かけた。今は廃止になった筑肥線の区間である。

同じアパートに同年のTとHとRが住んでいた。私は第2棟の404号室,Tは第1棟の406号,Hは第2棟の303号,Rは私の隣の403号だったはずである。当時私は弟一人しかいなかったが,TもRも一人っ子,Hは3人兄弟の末っ子で年が離れた兄貴がいた。彼らとは私が平尾に引っ越した小五の頃までよく遊んだ。時は流れ,福岡市役所に勤務していたHに平成15年ごろ天神で再会することができたが,Tは年賀状のやり取りだけ,Rは学生時代に会ってからはまったく音信普通である。

昭和32年4月,4歳で舞鶴幼稚園に入園した。Tとは舞鶴に一緒に通ったが,HとRは別のところに通っていたと思う。舞鶴は西鉄城南線の鳥飼電停前にあり,アパートから約800mはなれていたので子供の足では少々遠かった。舞鶴まで樋井川の土手を歩いて通ったこともあったが,普段は西鉄循環バス(現在の6系統)で別府橋から鳥飼まで通った。初めて定期券を買い,プラスチックのケースに入れ首から提げて通っていた。当時の子供の運賃は5円だったと記憶している。
鉄道少年探偵団のMも同じ舞鶴に通っており,アパートから途中にある平屋の社宅に住んでいた。彼のように舞鶴を出て鳥飼小・城西中に進んだものも結構いる。私が小五で転校してから長い間音信不通となっていたが,平成17年のSL写真集の発刊がきっかけとなって交流が頻繁になっている。たまに会って酒を酌み交わすことがあるが,大昔の話に花を咲かせることがある。

舞鶴幼稚園はキリスト教保育の幼稚園だったので,土曜日が休みで日曜日には献金(輪ゴムで指に結んだ五円玉)を持って日曜学校に出かけていた。おかげでイエス様とマリア様のこと,賛美歌と聖書のことを知った。年末恒例のクリスマス劇も印象深く,遠足や運動会,七夕などの一般的な行事も盛りだくさんだった。春の遠足は香椎公園(1年目は雨が続き西公園に変更),秋は立花山のミカン狩りが恒例であったと思う。当時のことはほとんど記憶になく,卒園アルバムや父の撮影した写真を見てああそうだったのかと思い出す程度である。唯一記憶に残っているのは,廃車になった西鉄の路面電車の車体が工作用具の置き場として2台設置されていたことだろう。
舞鶴の2年間は私にとって初めてのグループ・集団生活だったが,先生方に個性を尊重して頂きのびのびと成長した時期だったのだろう。後年,当時主事をされていたT先生が平成5年にある冊子に私のことを「中々のワンパク坊やで園内の著名人(?)」書かれているのを見てびっくりしたことがある。先生方には相当ご迷惑をおかけした問題児だったらしい。

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昭和34年卒園アルバムより
幼稚園園庭にて 人気の箱車
後列左から2番目小生,その前T

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昭和34年卒園アルバムより
昭和33年10月23日
年長運動会

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昭和34年卒園アルバムより

その後,上の弟も舞鶴に通い,下の弟は我が家が薬院に引越してからも市電に乗って舞鶴まで通った。親が安直に上二人と一緒のところで構わないだろうと考えた結果であろう。そういうことがあってか,下の弟は舞鶴のある鳥飼に住むことになり,その子供たちまでが親と同じ幼稚園に通うことになる。

その舞鶴幼稚園が今年(平成25年)100周年を迎えることになった。舞鶴の先生をしていた中学校時代の友人の姉上がそのことを知らせてくれた。11月9日(土)に記念式典と祝賀パーティーが西南学院のチャペルで開催されるので,今年は筑紫丘の同窓会には失礼をして舞鶴の100周年に参加することにした。私が通っていた頃の先生方もまだお元気にされていると聞き大変嬉しく思っている。当時20歳代のうら若き先生方も今は80歳代のおばあ様だが,あのワンパク小僧が還暦過ぎのおやじになった姿を見てきっと驚かれることだろう。

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昭和34年卒園アルバムより
卒園式 西南学院大学ランキンチャペル
後列左端小生,前列左から4番目M

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昭和34年卒園アルバムより
幼稚園の先生方
前列左端 主事のT先生

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創立80年誌より
当時の幼稚園の風景


【編集後記】

今月は16日に高校の同窓会で博多入り。会場が能古島なので翌日は吟行句会を開きます。 白髪鴨さんの骨が散骨された玄界灘の海の色を眺めて来ます。 欠席投句をお待ちしています。締め切りは13日(水)、ひとり5句までです。 当季雑詠で結構です。

 (文責 葱男)


■風信

満癒姫さん、夏海さん、ひら百合さん、君不去さん、ちかごろとんと音沙汰がありませんが、みんな元気にしてますかあ〜〜?


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