*無法投区/マリア月

〜聖五月星のバッヂを付けし君〜

*白鴨の海=香久夜

白髪鴨さんへの哀悼の気持ちを共有したく、一文を投稿します。

●白鴨の海より夢に翔びたてり

いつも、丁寧なコメントをくださって、何とイメージの豊かな、ロマン溢れる方だと思っておりました。少々難しいことばが多かったのですが、稚拙な句にも、夢を読みとってくださり、自分でも気付かないところまで表現してくださいました。
こんな形で句友がいなくなるとは、思いもよらないことでしたが、白髪鴨さんのご冥福をお祈りしつつ、またコメントをもらえるような句を詠めればと思います。


*博多どんたく=葱男

白髪鴨さんを葬送したあと、告別式に参列していた「丘ふみ連中」と昼食を伴にした。(原幸範校長だけはご一緒できませんでした。)
集まったのは原孝之君、栗原隆司氏、久保田幸江さん(以上、丘ふみクラブ)、真鼻守正氏、西秀樹さん、土屋雅裕君と私の7名。
前日のお通夜には白川先生と水球部の吉田君が来ていて、彼と西君、一木君は「島根大学」の同窓生だったそうである。
弔電は井本大野城市々長と「関西一杯呑もう会(濱地禎憲会長)」から届いていた。

一木君は「男前でモテる」男なのだが、スポーツマンでもあり、文学や音楽、芸術にも造詣が深く、温厚で優しく、男らしい性格だったので女性陣からはもちろんのこと、「男からも好かれる男」であった。
ガオカ(筑紫丘高校)の同窓会で私が彼と仲の良いことをほのめかすと、「俺のほうがもっと一木の友達だった!」などと妙に対抗してくる男達が何人かいる。

このように人間というのは人それぞれなのだから、「一木君の若すぎる事故死」に対する感慨もまた、人それぞれなのだろう。今はあまり深い言葉は必要ない、それぞれが思い思いの心を残しながら、いつもならわざわざ会う事もないだろう「ふしぎな集い」を終えた。

尊敬している仕事上の知人がmixiにこうつぶやいたことがある。
『会えない者は死んだのと同じ。だから死んだ者は会えなくなっただけなのだ。一緒にいた人がいなくなっても嘆かなくていい。一緒にいた時間は幸せを与えにきたのだ。もう一度いう、いなくなったのではない。天国から与えにきたのだ。(大切な人をなくした人へ)』

帰りは最終の新幹線博多20:00発の「のぞみ」を予約していたので、それまで「丘ふみ」部員(雪、五、喋)4人で4時に中洲で待ち合わせ、ちょっと「博多どんたく」も見物することに。

* *

天神から中洲の手前まで、「明治通り」は歩行者天国に。
歩道には「いかにもこれぞ博多!」といわんばかりに屋台が並んでいる。

* *

名物の「一蘭らーめん」ビルの手前の橋に陣取って、パレードを眺める。

*

●万緑の大向かうから吹奏楽 葱

もう40年間、この「どんたく」を取材している栗原カメラマンがなんでも解説してくれる。私達が学生のころに比べると、パレードの踊り子さん、楽団連中の年齢層がどうやら、大幅に若返ってきたらしく、お化粧をした中高生の女の子が可愛いユニフォームを着てつぎつぎと行進してくる。

* *

見物客のあまりの多さに気後れして、ひとつ川上の「出会い橋」に避難、午後の残照が川面に煌めくなか、1缶500円也のベラボーなスーパードライを飲みながらしばし博多の思い出に耽る。

* *

●残照や友を攫ひし五月の海 葱

さすが博多では有名なカメラマンだけあって、「どんたく」に参加しているチーママが目ざとく喋九厘さんのことを見つけて話し掛けて来た。

*

後日、この写真をfacebookに載せたら阿Qさんからこんなつっこみが届いていた。
「写真家なんだから撮られてどうする!」

5時半に博多駅前の「つぼ八」で乾杯!
いつも付き合ってくれてありがとう、みんな。

告別式の会場で、事故の時に一木君と同乗していたヨットのオーナーにひとつだけ質問をした。
「あの、ヨットの名前の《メタクサ�》ってどんな意味ですか?」
人の良さそうなオーナーは照れながら「あれは昔、もっともっと小さなヨットを買った時にいい加減に付けたもので、ギリシャのお酒の名前なんです。」

●マリア月ギリシャの酒に溺るるか 葱


*白鴨忌=雪絵

時間をつくれるのなら仲間たちとの語らいにも使いたいと、この年齢になって強く思うようになっていたのですが、こんな悲しい別れもあるということを、思い知らされました。
突然の別れにただただ戸惑い、葱男部長に取り乱したようなメールを送ってしまって、申し訳なく思っています。

3日の通夜では一木君が亡くなったことをこの目で確かめ、4日のお葬式ではさよならを言って、顔のそばに花を添えてきました。

神奈川の海で長くヨットに乗っていたという一木君にとって、北に位置する博多の海は新しい発見のようでした。そしてそのことを自分に言い含めるように語っていました。
でも結果的に命を奪った信じ難い海でもあったということ。
今、一木君はこのふる里の海を、一体どんな思いで見ているのでしょうか・・。

どんたくや友は浄土に導かる
人垣に探す人影青葉風
北に在る海の青さや白鴨忌

合掌


*海峡を渡る浮雲啄木忌=資料官

●連絡船外はくらやみ啄木忌
●小走りに函館桟橋啄木忌
●函館の街の残像啄木忌
●はまなすやひとりぼっちの連絡船  20年8月

*1  *

1:1980年6月
函館市電 函館市青柳町付近

2:1980年6月
函館市電 終点の谷地頭付近

4月の兼題は「啄木忌」である。啄木は21歳〜22歳の頃北海道に滞在している。明治40年5月から翌年4月のわずか1年間であったが,函館から小樽・札幌を経て釧路の町に痕跡を残した。私も新人の22歳の頃からおおよそ5年間北海道で勤務をしたことがある。その当時なんとなく北海道の啄木に近親感を持っていて,機会あれば啄木ゆかりの地を訪ね歩いた。
 昭和50年4月社会人となって某金融機関の札幌支店に配属が決まり,4月半ばに東京での研修を経て札幌に向かって赴任した。飛行機でも良かったけど,迷うことなく青函連絡船での赴任に決め,特急はつかりで青森まで,夜間の連絡船で函館着,特急おおぞらに乗り継いで日曜日の朝札幌駅に着いた。札幌支店配属になった同期が前日飛行機で赴任しており,休みの朝にもかかわらず札幌駅まで迎えに来てくれた。その後2回ほど鉄道で福岡へ帰省したが,新幹線を使っても丸一日かかる列車と2時間半のJAL札幌-福岡便の差はいかんともしがたく,3回目からは飛行機利用になってしまった。

■函館

函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌(こひうた)
矢ぐるまの花

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたわむる

北海道では札幌と函館に市電が残っていた。函館は連絡船の街という雰囲気があり,大変情緒がある街だったと記憶している。終点の谷地頭や啄木が住んでいた青柳町付近の風景が好きでその界隈で撮影した電車の写真が結構残っている。啄木歌碑のある函館公園からは大海原も見渡せ,スケールの大きい北海道の街の風景を満喫した。5月母船式鮭鱒船団の出航風景を見るために,夜通しで車を走らせて函館に到着した早朝,時間つぶしに大森浜の啄木像や立待岬の啄木一族の墓を見てまわった。車での往復は高速道路もなく札幌からは遠かった。

*3  *

3:1979年5月
大森浜の啄木歌碑
潮かをる北の浜辺の砂山の
かの浜薔薇(はまなす)よ
今年も咲けるや

4:1979年5月
立待岬の啄木一族墓

■小樽

かなしきは小樽の町よ
歌うことなき人人の
聲の荒さよ

雪が深い小樽で車の運転には苦労した。道は狭く,坂を登らなかったり,道の横に滑り落ちたり。冬,仕事で出かける時は二人で出かけた。私が赴任した頃はすでに札鱒バイパスが開通していて車で楽に行くことができたので,夕食に寿司屋に出かけたり,スキーなどの帰りに立ち寄ったことも少なくない。まだそのままの小樽運河を埋め立てるかどうかもめている頃で,まだ素朴な雰囲気が残されていた。

* 

1977年6月
まだ素朴な小樽運河 このまま埋め立てられる可能性もあった時代

■札幌

しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほいよ

アカシヤの街_(なみき)にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記(にき)に残れり

札幌の事務所は大通公園に面していた。冬の雪祭りも良かったが,夏の屋外ビヤガーデンは最高のプレゼント。会社帰りにたびたび立ち寄ったものである。啄木が札幌に滞在したのはほぼ一ケ月間であったという。啄木が下宿していた北7条西4丁目は札幌駅の北側にあり,仕事でよく出かけた地域である。仕事に疲れると近くの北大の構内で休息したことが懐かしい。

*5  *

5:1978年9月
北大構内のポプラ並木 右は藻岩山

6:1978年8月
夏の大通公園 屋外にビヤガーデン登場

■釧路

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

釧路駅は学生時代の撮影旅行の時が幾度か下り立った。札幌から夜行列車で到着すると,根室行きと網走行きの二つの列車の先頭にそれぞれSLが連結される。朝日を浴びて二つの機関車が輝く姿が懐かしい。社会人になってから,昭和52年の秋に北海道にやって来た父達と出かけた「炉辺」という店の炉辺焼きが美味かった。

* 

1972年3月
釧路駅の朝 手前は釧網線網走行き,向こうは根室行き

後日談二つ
お題が「啄木忌」ということで昔の北海道時代の日記を見ていたら,青函連絡船を乗り継いで札幌に赴任したのが昭和50年4月13日(日)。なんとこの日は「啄木忌」だった。  小石川植物園は都心でもよく出かける場所。桜の季節はもとより,ほぼ年間を通じて花も木も楽しめるので昭和59年に東京に住むようになってから何度も出かけている。帰りは正門を出て播磨坂を上り地下鉄丸の内線茗荷谷駅に向かうのがいつものルート。播磨坂からちょっと右に入ったあたりが啄木終焉の地だということを初めて知った。先日そのあたりを訪ねてみたが,ビルの壁に説明の看板が貼り付けられているだけで,ビルの谷間に自販機が並んでいるだけ。昔あった石造りの碑も今はなくなっていた。

●啄木忌植物園の空青し
●通帳は貸越続き啄木忌

*7  *

7:2005年4月
小石川植物園の桜 啄木忌の頃の青い空

8:2013年4月
小石川の啄木終焉の地の案内板

便所より青空見えて啄木忌  寺山修司
5月4日はは寺山修司の30年目の命日でした


【編集後記】

天地清浄 天命無常 (風天のクロ)

屋久島の詩人山尾三省さんが好んで使っていた言葉である。
「月の夜には月が本願である」
これも山尾さんの詩の一節。
はたして「海と風の夜には海と風が本願」なのか?
一木君が落水したのは午前3時ころだったそうだ。


 (文責 葱男)


■風信

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