*杉山久子「春の柩」=葱男


 
■杉山久子
1966年山口県生まれ。
1997年、第三回藍生新人賞受賞。
2006年、第二回芝不器男俳句新人賞受賞。
2007年第一句集「春の柩」(愛媛県文化振興財団)刊行。
  猫と旅が好きで、第二句集「猫の句も借りたい」(マルコポ、コム)、第三句集「鳥と歩く」(ふらんす堂)、超新撰21(共著、巴書林)


* 

**********************************

「春の柩」、私は杉山さんの句集のこのタイトルにまず惹かれてしまった。
「柩」という文字は決して明るく優しいイメージの言葉ではない。にもかかわらず、その前に「春の〜」という暖かい日差しを添えることによって「柩」は単に屍体を安置する箱から、その人の生涯をいつまでも閉じ込めておくことのできる魂の小部屋のような、そんなポジティブな印象が生まれる。

話は少し飛ぶが、理論物理学者の保江邦夫氏との対談集「ありのままで生きる」の中で、多くの緊急医療の現場に立ち会ってきた医師、矢作直樹氏は「魂」と「霊」の違いについてこのような考え方を述べている。

俗に人の言うところの「玉の緒」、人間という生き物に付いている電気コードのようなものが現実の肉体と繋がっていればそれが「魂」であり、そのコードが外れるか切れるかして肉体から離れたものが「霊」であると。
つまり、魂と霊にはなんの違いもなく、そのふたつのものの本質、根源は変わらない、というのである。

矢作氏と保江氏のこの対談集の中ではさまざまなスピリチアルヒーリングの話、超常現象、幽体離脱、生と死にまつわる不思議な体験談が語られるが、緊急医療、理論物理学の大御所のふたりが、このような精神世界のことがらについて、自らの体験も含めて真摯に語っている姿は、「俳句とは何か?」 ということに興味を抱いている私にとっても、とても示唆に富んだ内容が含まれていた。

「春の柩」から話が飛んでしまって申し訳ないが、杉山さんの俳句を鑑賞するにあたり、文学史、俳句史をふまえた論理論考的な、謂わば俳句評論に使われる言葉だけではとても説明しきれない部分を、私はスピリチュアルヒーリングの言霊の世界の力を借りて鑑賞してみたいと思った。

これは多くの俳人、いや、文学や音楽や美術、科学の世界に共通して語られる言葉だが「真理はある日突然、天啓のように空から降りてくる。」という話をよく聞く。
天啓的で、美しく、直感的でシンプルな真理ほど、そのように発見されるという。
一般的な、優秀な研究者が、膨大な時間とデータ収集と研究と実験を繰り返したあとに証明することができるもの、それは真実ではあるには違いないが、自然界の謎を解き明かす発見としてはそんなに奇跡的なものではない。
自然摂理の美しく絶対的真理は、彼ら天才たちの目の前に、ある時不意に突然立ち現れる。
それはあたかも彼らが魂と霊を通して神域と呼ばれているような世界と行き来、交信できる力を持っているかのように私には感じられるのだか、はたしてどうなのだろうか?

私は、私の好きな俳人の何人かの句に、そのような気配を察して慄然とすることがよくある。
何か、人間の枠を超えた言葉、祝詞、或いは自動書記のような十七文字に出会うことがある。
田中裕明は、自分の不治の病を悟った時にこんな句を詠んだ。

●爽やかに俳句の神に愛されて

この句が天啓から生まれたものなのかどうかは分からないが、確かに、「俳句の神」に愛された者だけが詠める、いや、「俳句の神」の代わりに詠まされる俳句、というものがあるような気がしてならない。

杉山さんに直接聞いてみたことはないのだか、みずからが句作を続けるなかで、「杉山久子」という俳人はそんな体験を多く自覚しているのではないか、というのが私が彼女の俳句に接した時に一番強く感じたことである。

彼女の句には自然と人間、精神と肉体、喜怒哀楽といった正反対の物が相互に交感しながら仲良くハーモニーを奏でながら響き合っているような不可思議な句が多い。
「無私」とでもいうのか、自分がそこに居ながら、もう一人の自分がそれを宙空から見ていると言うのか、まるで幽体離脱した霊が、自分の魂を客観視しているような印象の句が多くある。

●あをぞらのどこにもふれず鳥帰る

このような感覚は、一瞬自分が鳥になって空を飛んでいるときに感じたことを、今度はその光景を地上から見上げている私が詠んだもののように私には感じられる。

●風船をはなす刹那に似たるや死

この感覚は、一瞬だけみずからが死んで(つまり、肉体からコードを外して)、またすぐにこの世界に戻ってきてその経験を述べているようにも思える。

●人入れて春の柩となりにけり

これは他人の死を嘆き哀しんでいるような風情の句とは思えない。むしろ、「ああ、良かったなあー」という達成感とか安堵感みたいな心情がどこかに宿っている。
句友の利普苑るなさんはいみじくも、「柩」という文字の中に、久子さんの「久」という漢字が納められていることを指摘されていたが、そうなると、「人入れて」の「人」は久子さん自身であってもなんら支障のない物事であるかのようである。

●うぐひすに裁かれたくもある日かな

ここでも相反するもの、つまり、「裁く」という重々しくも厳しい行為が、軽やかでなんの罪もなさそうな平仮名の「うぐひす」に取りあわされ、哀しみと愉しさがそのまま同居してしまうような、自我からは遠く離れた感情が謳われている。

その他、久子さん独特の巫女さん的な感性で自然や人物にひととき憑依したかのような句を紹介してみたい。

それらの句は久子さんの魅力的な俳句の世界のほんの一部分にすぎない。 彼女の俳句の多様な魅力については、また次回にそれにふさわしいテーマを据えて鑑賞したいと思っている。
今回は私が勝手に名付けた「久子の幽体離脱俳句」のみを取り上げてみよう(^ ^)

啓蟄の波打際にフラフープ
カナリアをつめこむ春のトランクに
水底に鳥のあしあと夕桜
ゆふぐれの背をはなびらに打たれをり
花びらのやうなお骨となる日まで
蛍火や体内の水あふれさう
軍歌ふと秋の金魚にちかづきぬ
人形の電池抜かれて雪催ひ
無花果を喰み口中の闇ふやす
胸板をたたけば冬の音したり
枯野より飛んできたるは太郎冠者
氷海に果てあり髪をたばねけり
返信先は風花の摩天楼

これらの句に共通する(人為的でもダダイズムでも前衛でもない、にもかかわらず)唐突で突飛な不思議俳句の本情は一体どこから来たものだろう?
自分とは違う誰か、または何か別の生物や静物と魂と交感し、霊を往き来させながら詠まれたものではないのだろうか。

***********************

今回も引き続き久子さんの俳句の、違った魅力について鑑賞したいと思っています。
彼女の俳句の「料理的分析」について、今感じていることを簡単に説明します。

料理に一番大切なものはその旬の食材ですが、二番目に大事なものはその料理法、そして、三番目に重要なのは料理を盛る「器」です。

久子さんのお料理の器はどれもその食材を一番美味しそうに見せてくれるものが選ばれています。
彼女の俳句の特徴でもある「ひらがなの多用」は、謂わば料理を盛る「器」の役目をしていると思われます。
では、その食材(句材)と料理法について。

■第二章 「久子流俳句料理教室」

●春氷たれかとおくにうたひゐる

「春の柩」の第1章「はるごほり」の第1句目。
「春氷」という季語は、同じ意味の「薄氷(うすらひ)」をよく見かけるのだが、それを確かな感性で「春氷」と置いたところに私は久子さんの句の豊かさと個性を強く感じる。

●うすらひやたれかとおくにうたひゐる

と比べてみる。
俳句を料理として比肩してみると、
挙句の句材(具材)は「歌声」、料理法は上品な和風の出汁(ひらがなの多用)で薄味に仕上げた季節の炊き合わせ。
油で炒めたり、余計な香辛料は使っていない。
このようなあっさりとして淡白な煮物料理の器には(「薄氷」のように)あまり薄手の白磁や玻璃の食器よりも、程よい厚みの、温かみのある優しい器がふさわしい気がする。

「春」と「氷」は違いに相反するイメージをその軸として持ちながらも、互いの個性を補完し合うことによって融通無碍なる新しい季語へと昇華することがある。この句の場合、食材としての「歌声」の強度はそれほど強いものではない。作者はその歌声になにか強烈な感動や印象を持った訳ではない。
ただ、「歌声」を使った料理は、上手い酒の肴として、それほど構えずに箸を伸ばせる小鉢のように、とても胃に優しい一皿のようにあるだろう。
本当に味わいたいのは美味い酒(言い換えれば人生や生活や生命、つまりは時間そのもの)なのだろう。
そこにゐて、自分が自分でいることに安らいでいられる時間とともにある、苦も楽も、歓びも悲しみも、生も死も、自由に往き来できるような融通無碍な時間がこの句には詠まれている。

そのような、融通無碍なる季語を久子さんはよく俳句の器として使っているような気がする。

例えば

シャボン玉雀映してこはれけり
封筒に息吹き入るる桜冷
螢火に照らされてゐる父の首
いちはつや好きといはれて好きになる
白玉にやさしきくぼみあれば喰む
手花火の果て水底にゐるごとし
ぬくもりしイヤリング置く月の卓
ポケットの木の実にふれて旅果てぬ
食卓に雪の匂ひのエアメール

久子さんの俳句は、どれも美味い酒をひきたてる料理のようでもあり、挙句の場合、食材としての「歌声」の強度はほとんど弱いものである。作者はその歌声になにか強烈な感動や印象を持った訳ではない。彼女の俳句にはメインの大皿料理のように、のちのち胃もたれして不快感が残るようなものは一つもない。

気の合う友達と数人で、趣味の良い、こじんまりと落ち着く小料理屋やBARで、美味い酒を飲むときにちょっと食べてみたい料理だ。
きれいに盛りつけされた、質の良い器を眺めているだけでも十分満足な一品である。

螢火も桜冷も手花火も、違いに異なるイメージをふたつともに抱え持つ味わい深い季語である。

他の句に共通する印象も、彼女の心の深奥にあるものが「喜怒哀楽」といった単一の感情では言い表せない玄妙な場所に、ひとり静かに正座している作者の姿である。
シャボン玉はきれいなのか、その人のことは好きなのか、白玉は美味しいのか、イヤリングを外したときの気持ちはどうなのか? 旅は楽しかったのか? エアメールはそもそも良い便りなのか?

『そんなことはまあ、とりあえず横に置いておいて、「私」のそばにはいつも「私」がいる。』

久子さんはそう言いながら、いつもはにかむように小さく微笑んでいるように見える。


■ 葱々集〈back number〉
*大森健司・「あるべきものが、、、」*利普苑るな・第一句集「舵」*「筥崎宮・蚤の市」吟行句会*楠木しんいち「まほろば」*銀座吟行句会*Subikiawa食器店*ジャポニスム*金髪の烏の歌*Mac崩壊の一部始終*香田なをさんの俳句*能古島吟行句会*Calling you*白鴨忌*葬送*風悟さんの絶筆*小田玲子・「表の木」*初昔・追悼句*大濠公園/吟行・句会/2012,11,11金子敦「乗船券」丘ふみ俳句:丘ふみ俳句:韜晦精神派(久郎兎篇)丘ふみ俳句:協調精神派(前鰤篇)丘ふみ俳句:行楽精神派(メゴチ篇)丘ふみ俳句:ユ−モア精神派(喋九厘篇)丘ふみ俳句:俳精神派(五六二三斎篇)丘ふみ俳句:俳精神派(香久夜・資料官篇)丘ふみ俳句:俳精神派(水音篇)丘ふみ俳句:詩精神派(秋波・雪絵篇)丘ふみ俳句:工芸精神派(君不去・夏海)丘ふみ俳句:実験精神派(白髪鴨・ひら百合・入鈴・スマ篇)丘ふみ俳句:砂太篇俳句とエチカ現代カタカナ俳句大震災を詠む「遊戯の家」金原まさ子さらば八月のうた「ハミング」月野ぽぽな「花心」畑 洋子1Q84〜1X84「アングル」小久保佳世子ラスカルさんのメルヘン俳句「神楽岡」徳永真弓「瞬く」森賀まり『1Q84』にまつわる出来事「街」と今井聖「夜の雲」浅井慎平澄子/晶子論「雪月」満田春日 「現代俳句の海図」を読む:正木ゆう子篇 櫂未知子篇田中裕明篇片山由美子篇「伊月集」夏井いつき「あちこち草紙」土肥あき子「冬の智慧」齋藤愼爾「命の一句」石寒太「粛祭返歌」柿本多映「身世打鈴」カン・キドンソネット:葱男俳句の幻想丘ふみ倶楽部/お誕生日句と花