*丘ふみ俳句:俳精神派(香久夜・資料官篇)=葱男

香久夜(葱10選)

●烏瓜ならべし翁嵯峨野みち
●明日咲くや木蓮と陽を分かち合う
●しゃくなげや墨絵の前に活けられり
●黒豆やとろ火のわらい暮れ早し
●赤鰈俳趣は真子の味に似て
●梅雨近し伐採の幹白々と
●大西日ピレネー犬の毛の硬し
●青空をレースに透かし冬紅葉
●ぽってりと太りし冬の夕日落つ
●開花待つ石の六条橋ぬくし

高校時代、香久夜さんは花の女子バレー部のキャプテンでした。あの、個性的で魅力的な面々をひとつにまとめてゆくのは、さぞかし大変だっただろうとついつい想像してしまいます。たしか、砂太先生が顧問だったのかな?先生、女子バレー部はどんな雰囲気でしたか?
香久夜さんの句を読んで思うのは、彼女のキャプテンシーのことです。部員をひとつにまとめ、ひとつの目標に向かって個々の部員の能力やスキルを相乗に効果させるには主将としてどうあることが望ましいのか。例えばヒューマニティーの問題。まず、自身がノーマルであること(これは当たり前のように見えて結構難しいことです)、その上にノーブルであること、我を出さないでいて芯を持っていること、ぶれないこと、さわがないこと、時に母性やフェミニンを発揮できること。
彼女の句からは以上のような人間性をすべて感じとることが出来ます。

気を衒うこともなく、才気に奔ることもなく、淡々と詠むことが彼女の人間性、言い換えれば「俳趣」なのかもしれません。赤鰈の真子の幽かな苦味と芳醇な甘味はそのまま彼女の経験の味なのでしょう。「烏瓜」「翁」「嵯峨野」「墨絵」「黒豆」「梅雨」「西日」「冬紅葉」「六条橋」などの漢字表記の語群は、決して派手ではないけれどもじんわりと心にしみ込むような味わいがあります。それは香久夜さんの「人となり」でもあります。
よく鑑賞してみると、上記10句にはすこしも彼女自身の心模様が詠われていません。「翁のこと」「木蓮のこと」「しゃくなげのこと」「黒豆のこと」「赤鰈のこと」「伐採の幹のこと」「ピレネー犬のこと」「紅葉のこと」「夕日のこと」「橋のこと」がそこには詠われています。客観写生とはこのようなことを言うのかもしれません。多くの俳人は心にカメラや虫眼鏡を携帯して、「何か俳句の種になるようなものはないか?」と覗き込むように「写生」をしますが、「気づく」ことよりも「気づかされる」ことのほうにより俳精神としての「無我」があるように思います。
また、香久夜さんの内にある「女性性」は母から娘、娘から稚子へと繋がる系譜の途上にあり、決して「我が女の性」というインディビジュアルなものではありません。

●ほととぎす母の手折りて色をます
●初釜の母の草履の艶そろう
●新涼や笑顔の間中赤子泣く
●草滑り抱っこの先の青林檎
●ほほ染めし遠き小春のけんけんぱ

これらの句には「女性史を受け継ぐもの」としての彼女の「無私性」が感じられます。
本来、キャプテン(部長)たるものはこのように、「無私の心」を携えて事に臨むべきなのでしょうが、どうも私自身のことを振返ると「葱々たる」ものがありますね。(笑)

●盆帰り草抜く畑の土黒し
●土ほぐれ白梅の香を含みけり

地に足をつけて生きている香久夜さんの「人となり」を見習いたいものです。

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資料官(葱10選)
●台風の贈りし夏の富士を見ゆ
●秋暁や路面電車の曲がる音
●マドンナのままのほほゑみ実むらさき
●ちちははの賀状のんびり届きけり
●汽車を待つむかし少年夏あざみ
●雪晴れや鉄道唱歌のアナウンス
●マフラーに父とたばこの匂ひ合ふ
●春泥や無人駅まで急ぐ道
●つばめ来て肥後の石橋水放つ
●浅き夢いろはに散りぬ寒雀

資料官さんは喋九厘さんと同じ「少年鉄道探偵団」の一員であり、高校時代から筋金入りの「鉄ちゃん」であることはあまりにも有名です。
だから、当然と言えば当然のことですが、資料官さんの俳句のモチーフに占める「鉄道」指数は非常に高い。10選にも「路面電車」「汽車」「鉄道唱歌」「無人駅」と「鉄道ノスタルジア」の句がありますが、それ以外にも秀句はたくさんあります。

●星好きも汽車好きもいて虫の声
●なはみずほさくらあさかぜ春の夢
●秋声や鉄道記念日の汽笛
●はとつばめかもめはやぶさ夏果てぬ
●木守りの林檎寒かろ五能線
●遅き日のひかりメトロに差し込めり
●猫じゃらし風に吹かれて小海線

資料官さんにはこの勢いでどんどん全国の省線や私鉄沿線の句を網羅してもらいたいものであります。そして、ゆくゆくは鉄道写真と俳句の合体本という、新しいジャンルにチャレンジしてほしい。現代俳句に於いて「写俳」、つまり写真と俳句のコラボレ−ションによる自己表現の方法は随分確立されてきました。俳画、俳文の蕪村、芭蕉はもとより、例えば中西和久君の演劇「アウトロー WE 望郷篇」や浅井晋平の「二十世紀最終汽笛」、大高翔の「キリトリセン」等の試みは俳句の可能性を広げる試みの所産だと感じています。
男の子というものは女子には想像できないような、いろんな収集癖があるものです。ただ、資料官さんの場合はその俳号の所縁をひも解くまでもなく、『過去生』に関わるあらゆるジャンルの情報を「資料」として保管しているのではないかと疑われるふしがある。例えば、私達が「筑紫丘高校」に入学した年度の、出身中学校別の合格者の名前が載った新聞の切り抜き、例えば修学旅行の全スケジュールやその時に配られた駅弁の包み紙等、 資料官さんに頼めばなんでも出て来ます。
そんな訳で、部長である私がいつぽっくりいっても「丘ふみ游俳倶楽部」の全資料は「中楯図書室」に完全な形で保管されていると思うととても安心です。(笑)

そろそろ俳句の話に戻りましょう。 資料官さんの句をあらためて鑑賞し直してみて気が付くのは(ちょっと意外な発見でしたが)、そのデザイン性(工芸精神)です。たとえば上記の「なはみずほさくらあさかぜ春の夢」「はとつばめかもめはやぶさ夏果てぬ」、10選の名句「浅き夢いろはに散りぬ寒雀」、そのほかにも「文京区本郷界隈夏休」「父の日や小鹿田黒牟田小石原(おんたくろむたこいしわら)」といった句には字面と音韻とリズムに「ことば遊び」のような軽快感があります。句を(あるいは「汽車」や「電車」を)楽しんでいる心の弾力が感じられます。
もうひとつ、資料官俳句の大きな柱は「中楯家の人々」にまつわる心の交流の物語です。

●黙とうの祖父の背中や敗戦日
●母からの柚子を浮かべて長湯する
●ちちははの賀状のんびり届きけり
●母の日の嫁の手料理圧力鍋
●年玉や甥っ子姪っ子従兄の子
●年の夜やよろよろ暮らすちちははと
●向日葵や母背伸びしてタオル干す
●藤房の母の顔まで垂れにけり
●グラジオラス傾きそうな母の肩
●普段着の父の遺影に秋果積む
●父上のジャケット羽織り年惜しむ
●アマポーラ母へみやげのペンダント
●義妹(いもうと)は白ワイン好き酔芙蓉
●読みさしの父の蔵書や秋の暮
●マフラーに父とたばこの匂ひ合ふ
●初しぐれ母足早に神だのみ
●妻と娘のブーツ林立居場所なし
●母ひとり花一輪の福寿草
●寒菊に寒菊そへて父の墓
●鶏頭の朱携へて父に会ふ
●仏壇の祖母のほほゑみ雛飾る
●花嫁のベエール若葉風抜けた
●凌霄花をばの遺影のすまし顔

生きて在る人達だけでなく、すでに亡くなってしまった家族とも、変わらずに暖かい会話を続けるのが彼のやり方であり、終生変わらぬ生き方なのでしょう。

次回は「丘ふみ俳句:俳精神派(五六二三斎篇)」です!