*「現代俳句の海図」を読む:田中裕明篇 

〜はつなつのすこしさみしきまどゐかな〜


いよいよ、田中裕明について話す時がきた。
これまでに、我々と同世代の俳人を小川軽舟の案内によってさまざまに論じてきたが、4人目となる(共鳴句の多い順番にひとりづつ取り上げて書いてきたので)彼の俳句に、実は一番瞠目しているのである。
それでは何故、正木ゆう子、中原道夫、櫂未知子よりも彼に共鳴する句の数が少なかったのかというと、当たり前の話しではあるが、私には田中裕明の俳句が分からないのである。もう少し違った言い方をすると、私の持っているつたない想像力だけでは勿論のこと、無責任な空想をもってしても彼の句の世界を覗き見ることすらかなわない。しかし、それにも拘わらず、全く理解できないそれらの17文字が、なぜだか頭にこびりついて離れない。そればかりか、彼がどんな世界を逍遥していたのかが、とても気になるのである。そして、そんな彼の見ていた世界をいつか自分でも見てみたいと切に思う。
田中裕明とは私にとってそれほど魅力的な俳人だ。 例えば、

●たはぶれに美僧をつれて雪解野は
「雪解野は〜」どうなのでろう?楽しいのか、美しいのか、はかないのか、淫靡なのか、快楽なのか、罪悪感があるのか? 茂木健一郎なら、それが「雪解野のクオリア」だと言うだろう。 かつてウィトゲンシュタインは「語りえないことについては沈黙するほかない」という告白をして、その著「論理哲学論考」の最後の行を締めくくった。
ところが、田中裕明は沈黙しないのである。まさにそれが俳句である、と言わんばかりに彼は自由自在に「語り得ぬ世界」を詠みつづける。例えば
 
●渚にて金澤のこと菊のこと
この句に出会って私が強く感じたのは、際限なく羽ばたく個人の感性と詩性は本来、おのずから表現の自由を内包している、というものであった。
なんであっても、自分の頭蓋に沸き起るすべての不思議な意識は表現される自由を最初から抱いている、ということである。
こころみに生理、感覚、記憶、欲望、感情、理性、意志、悟性、認識とでも名づけうるようなの九つの識閾は、無限に循環して留まる事無く言葉を発情しつづける。
「渚にて、金澤のこと、菊のこと、家族のこと、科学のこと、詩のこと、どこまでも彼は瞑想を迷走させて一つところに留まろうとはしない。自由こそがまづ、すべての生物の存在の基盤にある。 例えば

●悉く全集にあり衣被
全集に、何があるのか、それも全集をもってして悉くあり、他のものは無に等しいという、その「言葉の集積」の意味はおそらく衣を被ったまま、真実の姿を顕わすことは永遠にないのである。言わば、それが「全集のクオリア」なのだ。
このように、例をあげればきりがないので彼の難解な(平易な言葉を遣った)句はひとまず此処におくとして、次に、私の愛してやまないいくつかの句を鑑賞してみよう。

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●夕東風につれだちてくる仏師達(花間一壷)
春先、東から吹いて来る柔らかい風、仏師達は春とつれだちて、なにを伝えにくるのか。この句が収められた「花間一壷」という句集のタイトルには李白の詩「月下独酌」のなかの最初の一行が使われている。「花間一壷の酒、独酌相親しむ無し。杯を挙げ明月を邀むかえ、影に対して三人を成す。」 人間は遂に最期までひとりである。しかるに、月と我が影と三人で酒を酌み交わすことこそが人生に他ならない。

●雪舟は多く残らず秋蛍(花間一壷) 飯田蛇笏は芥川竜之介の死に際し、『たましひのたとへば秋のほたる哉』という句を詠んだ。
私は友人の母の死の報せを聞き『たれか死す春の蛍のおぼろかな』という句を献句した。
雪舟の絵は図太く、力量に満ち、装飾を排した建築のような絵だ。彼の描いた絵の数の多少を私はよく知らないが、「絵を残す」という世俗的な欲が雪舟にあったとは思わない。描き終わったものは雪舟にとってなんの執着もなかったのではないか。 芥川が才能に執着しても命には執着しなかったこともまた、「たましひ」である。

●小鳥来るここに静かな場所がある(先生からの手紙)
「静かな場所」という同人誌がある。裕明夫人の森賀まりさんをはじめ、田中の句を愛した若手の才能溢れる俳人6名による年刊誌である。
メンバーはまりさんの他に、満田春日さん、山口昭男さん、対中いずみさん、和田悠さん、そして中村夕衣さんの6人。
年刊ということでいまだに3号を発刊しただけの俳句誌の中にはたしかに「静かな場所」がある。
してみれば、そこに集う6名は小鳥なのだろうか?
間違い無く、まりさんは小鳥である。

●大人より子供の淋し竹の秋(先生からの手紙)
本当は大人になりきれない大人が淋しいのであるが、大人はそうも言っていられない。若竹の葉が枯れたように黄ばむ晩春の時期を「竹の秋」という。本当は、子供の時から大人みたいな子供も淋しいのである。つまりは子供も大人も人間はなべて少し淋しいぐらいのほうが正直なのだ。

●空へゆく階段のなし稲の花(夜の客人)
ついに句集「夜の客人」の句に入る。
私が俳句を始めて、これを続けようと心に決めた一冊がこの「夜の客人」という句集である。
田中裕明は1959年大阪生まれ、高校在学中から句を詠み、82年、京都大学を卒業した年に「童子の夢」というアンソロジーで「角川俳句賞」を受賞。2000年に「ゆう」を創刊するも白血病を発症し、04年12月に逝去する。
年明けの05年の1月、句集「「夜の客人」は刊行された。
私は稲の花の咲く田園の彼方には、空へと昇ってゆく階梯がきっとあるのだと思う。私は世界中の美術館の天井画にそれらしい階段を数限り無く見つけることができた。

●目のなかに芒原あり森賀まり(夜の客人)
をりとりてはらりとおもき芒なのだろうか、今度御会いした時にまりさんの目の中にどんな芒原があるのか覗き込んでみよう。

●爽やかに俳句の神に愛されて(夜の客人)
白血病を発病した時に詠んだ句である。前詞に「発病」とだけある。
白血病よりも俳句のほうが大きな課題であることを裕明さんはここに宣言した。
死よりもこの世界のすべてのものよりも俳句のほうが重要であると言い放った人間がかつてそこに存在した。

●みづうみのみなとのなつのみじかけれ(夜の客人)
ひらがな十七文字だけで詠まれた「夏」の短さと美しさを、私はひとりの日本人としてこころして胸に刻もうと思う。

●教会のつめたき椅子を拭く仕事(夜の客人)
もしそんな仕事でできるとしたら、私はきっと、俳句を詠むことができるのかもしれない。
しかし、今の私の仕事は衣に絵を描くことである。
だから私は一生、俳句を詠むことができないのかもしれない。
田中裕明は多くの才能のある文人達に自分の俳句を取りざたされて、今、空の階段の上から下界を眺めてにこやかに笑っているのだろう。
「わっかるかなあ〜? それともわっからないかなあ〜?」ってちょっと古いギャグですねえ、裕明さん。