*『1Q84』にまつわる出来事 

〜一行の雨月200Q年〜


「ねじまき鳥」以後、ひさしぶりの村上春樹・ものがたりの世界である。
オーム真理教に関するエッセイ等、興味あるものは読み繋いでいたから、待望の一冊であった。

1984年、私は友人とふたりでホノルルマラソンに参加、5時間30分で完走して、「FINISHER」とプリントされたTシャツと貝殻で編まれた首飾りをもらった。
当時、32歳。 〈天吾〉、〈青豆〉と同じぐらいの歳だった。
『1Q84』の主人公である〈天吾〉はNHKの集金人である父(?)に育てられる。〈青豆〉は「証人会」という宗教を信仰する父母に育てられる。
ふたりは小学校の3〜4年生の時に同級生であり、自分と同じ匂いを持つ相手に出会い、互いに強くひかれ合う。
物語は20年後、今現在(1Q84年)のふたりのエピソードが交互に語られ、宗教団体「さきがけ」の実態と秘密に迫りながら、現代人の精神世界を多くのキャラクターに託して展開してゆく。
時代設定の1984年、まさに村上春樹も私も同時代の同じ風の中を生きていたこことになる。

 <藤原新也に聞く>
9月27日の午後3時、烏丸三条の「大垣書店」に於いて、藤原新也氏のサイン会が行なわれた。
1979年、私は石油関係の業界紙の記者を辞し、インドへと初めてのひとり旅に出た。
あのころの自分の衝動がどんなものであったのか、今では何も覚えていない。ただ、私は全く社会的な人間ではなく、漠然と「小説家」のようなものになりたいと憧れていた。
そして、できることならすべての困難な問題を一気に解決してくれるグル(導師)のような存在を求めていたのかもしれない。
例えばバグワン・シュリ・ラジニーシのような、もしかしたら麻原彰晃のような。

それから4年後の1983年、『東京漂流』という一冊の本が出版され、「人間は犬に喰われるほど自由だ」という衝撃的なアンソロジ−と、ガンジス河の中洲で野良犬が死んだ人間の足に食らい付いている一枚の写真が日本中にセンセーションを巻き起こした。60〜70年代の13年間、全東洋の街道を踏破した藤原さんは「東京漂流」以後は基本的に日本にとどまり、バブル崩壊から現在に至るまで、この混迷した社会に警鐘を鳴らしつづけて来たのである。
ことに金属バット事件、酒鬼薔薇少年、オーム真理教についての検証と考察は彼のライフワークといっても過言ではない。
私は著者の考え方やものの見方に大いに共鳴し、その後につづく彼の著作をことごとく読み尽くした。
1987年には二ヶ月間、スペイン、ポルトガル、モロッコを巡った。 パリ、アルル、バルセロナ、アンタルヤ、セビリア、グラナダ、アルヘシラス、タンジール、マラケシュ、リスボン、ナザレ、コインブラ、マドリッド。
1989年には大阪港から「鑑真号」に乗り、それから10ケ月の間、上海、蘇州、杭州、黄山、成都、大理、石林、麗江、海南島、香港、バンコック、アユタヤ、チェンマイ、クアラルンプル、ジョージタウン、ジャカルタ、イスタンブール、クシャダス、エフェス、カッパドキア、コンヤ、パムッカレ、ドゥバヤジッド、テヘラン、イスファハン、などの町を巡った。
いろんな国のいろんな町ですれ違うバックパッカーはほとんど、藤原組東京漂流派か、もしくは沢木組深夜特急派に属していた。

さて、大垣書店である。
新刊「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」が発売され、今、全国いくつかの書店に於いてサイン会が催されている。
私は初めて実物の「藤原新也」を見、声を聞き、その存在の有り様を肌で感じる機会を得ることができた。
とても優しい顔、おだやかな話し方、攻撃的で先鋭なオーラはない。
新刊の裏表紙に自分の名前と「中島葱男様」という字を筆ペンで書き(自分のサインはすごく芸術的な象形だが、「葱」の字を書く時にはやや首をかしげ、「男」まで少し戸惑った様子が見えた。)、最後に親しげな顔で右手を差し出す。
「藤原さんは『1Q84』は読まれましたか?」
「僕は本は読みません。(藤原)」
「えっ?、・・・(全く予想していなかった答) そうかあ・・・、もっぱら書くほうですか・・・。旅の途中でも本を読まなかったのですか?」
「読みません。高校まではたくさんの本を読んだけれども、大学を中退して日本を旅立ったあとは旅のさなかにも本は読まなかった。(藤原)」

信じられない答である。異境の地に長く滞在してもっとも強い乾きを覚えるのは日本の食べ物でも風景でもなく「言葉」なのだ。ましてや藤原さんが旅をしてきた多くの場所には日本人の姿はほとんど見当たらなかっただろう。母国語を話す機会を持てずに何日かが過ぎると、猛烈な乾きが起こって来る。そんな時旅人は一冊の文庫本を開くのだ。そして、和漢混交の魅力的な言葉に出会い、みずからの心を潤す。

「・・・何故?(藤原)」 彼はなぜ私がそんな質問をするのかちょっぴり興味を持ったようだった。
「オームだから。」
「おもしろい?(藤原)」
「すごく面白いです!まだ四分の三しか読んでいませんが。」
「そう・・・。(藤原)」
それ以上のことは何も聞かず、彼はただ楽しそうに笑った。
「どうもありがとうございました。」
一瞬、藤原さんのオーラを感じたのは「なぜ?」と問い返してきたときだった。色は銀。重厚で、強い鎧をまとったローマ戦士の兜のような銀だ。

 <1Q84読了>
現物の藤原さんと握手をしたその夜、私は『1Q84』全章を読み終えた。
翌日は早起きをして、どうしてもやっつけておかなければならない仕事を6時から9時までに済ませた。
そして昨晩読んだばかりの『1Q84』第二巻の最終、23章と24章をもう一度読み直した。
その内容と言葉と結末がどんなものであったかを再確認するためだ。
そうしないと意識はまだ白日の夢の中に放り込まれたままで、日常のリアリティを実感できないような不思議な麻痺の感覚が続いていた。 読み直した物語の最終章は昨日と何も変わりがなかった。
しかし二度目に読んだ今朝のほうがその筋書きに納得することできたし、自分自身の精神もいくぶん救われたような気がした。
午前中の時間は静かな気持ちでマーラーの交響曲第3番ニ短調を聴いた。(このCDは高校時代の親友が単身赴任の大阪から東京本社へ転勤を命じられた時、ふたりだけで歓送会をした夜にくれたものです。)
最終楽章の終わり方がなんとも見事な曲である。
そして、心が少し落ち着いたところで前日に購入した藤原新也の新刊をパラパラとめくってみた。
藤原新也が100册の本を売るためにサイン会を引き受けたのではないように、私も一冊の本を買うためにサイン会に行った訳ではなかった。藤原新也は自分の読者がどんな風貌をしているのかじっくりと眺めるために全国をまわり、私は生身の彼の存在を実感するために書店へ出向いたのだ。
だからこの新刊の内容をよく知らなかったし、そこに集められたいくつかの短いストーリーにそれほどの期待をしていた訳ではない。
しかし、ことの次第は全く違っていた。
最初の物語「尾瀬に死す」を読み終えて、私はこの本の著者と『1Q84』の著者は全く同じ精神を持っていると強く感じた。

『均衡そのものが善なのだ』
1Q84:BOOK2の第11章のタイトルです。
何が善で何が悪か、なんてことは誰にもわからない。
ただ人は必要に応じて、たとえそれが他人から見れば想像もできないような奇妙な行為だとしても、みずからの精神の均衡を保つために成さなければならない事がある。
それはおそらく、藤原新也の母が亡くなった時の話と呼応しているかもしれない。
「死が訪れようとしている時、人は他者の言葉によって、あるいは自らの思いによってひとつひとつこの世の未練を取り除き、死を受け入れる心が生まれ、刃物も薬物も必要とせず自分自身で命を閉じることができるのだと、僕はそう信じます。」(「尾瀬に死す」より)
そんな風に藤原新也は言う。

天吾の父親(?)が療養している「猫の町」の話ではないが、以前私も猫を飼っていたことがある。もう30年も昔の話しである。
名前を「フライパン」と言った。その猫は私がインドへ初めての旅に出る数日前にみずから家出して野良猫になった。猫の名前は奇妙だが、とても素敵な猫だった。猫は人の精神や人間関係の均衡にとても役立つ動物だと思う。
「1Q84」を読み終えてあらためて考えることがある。
これからの少ない人生の時間の中で、私が私でありつづけるために為されるであろうこと。
『たとえそれが他人から見れば想像もできないような奇妙な行為だとしても、みずからの精神の均衡を保つために成さなければならない事。』

私はパシヴァとなっていろんな猫の句を詠みつづけるだろう。それからもちろん、ふたつっきりではなく、たくさんたくさん月の句も。

●女子が漕ぐ月の自転車ふたりのり
●初月夜バレ句を81/2
●新月や玉はビーダマ目は真珠
●指先を濡らして月の幽霊船
●πr二乗の月と吾の事情
●家なき子満月を抱くことなし
●一行の雨月200Q年