*1Q84〜1X84

〜ししむらに熱はつなつの月さやか〜


今、日本中で話題となっている村上春樹氏の小説「1Q84」だが待望の「BOOK3」がついに発刊された。
以前、「丘ふみ」の「俳句日々是葱々」のコーナーでも異例の小説鑑賞を試みたのだが、今回の文章はそのつづき、『1Q84』の完結篇にあたる。

これから当の小説を読もうと思っている人にはまことに申し訳ないのだが、「ネタバレ」が絶対に嫌だという人は「1Q84」全3巻を読んでしまってから再度、このページを開いてもらいたい。
話は変わりますが、実は、私は“mixi”においても「1Q84@村上春樹」という名のコミュニティに入っていて(“mixi”には『村上春樹』関連のコミュニティだけでも64のグループがあります。「1Q84@村上春樹」はその64種類のグループの中の一つにすぎません。)、その参加者の数は2288人。この数字だけを見ても村上さんの小説に対する現代人の興味がどれだけ深いかが分かります。ここのコミュニティは実には楽しい。老若男女の村上ファンが好きな事を勝手きままに、それぞれが自由にコメントを寄せています。
たとえば「登場人物のイメージは?」というタイトルのトピックでは、皆がそれぞれに「1Q84」の主要な登場人物を自分なりにイメージして、「青豆役はXX、天吾役はXXと、好きな俳優(有名人)の名前をあげてまるで、じぶんが映画監督になったような気分になれます。面白い企画なので私もちっくと(ちょっこし)乗ってみました。
ちなみに私が勝手に選んだ理想の配役を並べてみると。

青豆(青豆雅美)…池田晶子
天吾(川奈天吾)… 西島秀俊
ふかえり(深田絵理子)…本仮屋ユイカ
あゆみ(中野あゆみ)…木村カエラ
大塚環…須藤理彩
老婦人(緒方静恵)… 田中優子
タマル(田丸健一)…北野武
戎野先生(戎野隆之)… 養老孟司
アザミ…多部未華子
小松(裕二)…古舘伊知朗
牛河(利治)… やしきたかじん
深田保(「さきがけ」リーダー)…高橋和巳 
安田恭子(年上のガールフレンド)…石田ゆり子
天吾の父親… 佐高信
つばさ…森田童子
安達クミ…綾瀬はるか

それでは自分がドラマのキャスティングボードを握ったつもりになったところで、観念小説「1Q84」の骨格となるシナリオの、基本的な構図を私なりに考察してみます。

*****1Q84*****

●マザは森羅万象、この世界のすべてのもの、八百万の実体である。
(マザ:「mother」が基本だろうけど、マリア的な母性と、ガイア、テラ、に含まれる大地のイメージ、自然の産物のイメージもあります。勿論、生物はすべて、人間個人もその中に含まれます、怪物的、悪魔的、英雄的、魅力的な人間は特に。)

●ドウタは自然界にはないもの。ヒトが作り出した「作品=モノリス」のようなものである。
(「daughter」がそもそもの概念だろう。実際の子供たちの存在はむしろ「マザ」である。ドウタはあくまでも「かたしろ=人形」、仮想的現実イメージを具現、偶像化したものである。近年、障害者や高齢者のあいだにコミュニケーション用のロボットの効用が注目されているが、たとえば音楽におけるCDや映像におけるDVD、あるいはテレビジョンやパソコン等もこの範疇に入るのではないか。)

●八百万のものには「神」が宿っていて、それを象徴的に具現化したものが「ドウタ=作品」である。
(一般に「マエストロ」と呼ばれる職人や芸術家はみずからの「美意識」を作品化する。また、茶道、華道、俳句などの芸能においては「師系」という伝統と系譜に繋がる「宗匠」という一個の存在に「美意識」の規範が継承される。また、普遍的には宗教的、企業的団体にもその組織に独自の美意識が備わってて、時代や特別な才能を具えた研究者の出現によってすこしづつ変化している。)

●ドウタは、たとえば「芸術作品」として、「宗教的祭事」として、「科学的成果」として形を与えられているが、それはあくまでも「象徴」であり「ハリボテの神輿」であり、「天然の実体とは異なったバーチャルなエイリアス」である。
(そうだとするならば『1Q84』という小説作品自体がドウタだと言うこともできる。この場合にリトル・ピープルとはどんな存在かを考察してみると面白い。それは「村上春樹」氏個人とは限らず、出版部、編集者、読者、全国各書店でさえもリトル・ピープルの一員となっているはずである。)

●善いマザからは、リトル・ピープル〈小さな人間達〉によって「空気さなぎ」が紡がれ、その〈さなぎ=繭〉の中には善いドウタが生まれる。当然のことだが、悪いマザからは悪いドウタが生まれる。
(かと言って、何が善悪であるのかの判断はだれにも推し量ることはできない。歴史を学び、その人類史の軌跡を辿ったとしても一体、何が善で何が悪か、という問いに対する明確な答はない。そこにあるのは不明確な「立場」だけである。たとえ、どんなに素晴らしい未来から優秀な頭脳がそれを推し量ろうとしたとしても。)

●レシヴァ(リーダー)は天の声をドウタ(パシヴァ)を通して聴くことができる。
(「天のこえ」とはたとえば「世論」のようなものだろうか? ローマ皇帝の時代にはコロシアムに集まった大勢のローマ市民の前に「時の皇帝」が現われて時代の風を読んだという。たとえば皇居で開かれる「園遊会」は「天のこえ」を聞こうとする天皇制のシステムであるかもしれない。「園遊会」には「時勢の人」が招かれてヴォルテ−ジの高い「現代の声」を謳うのである。

●レシヴァとは組織を司る司祭神のようなものであり、ファラオもカエサルも始皇帝も卑弥呼も天皇も大統領も教皇もいかなる小さな組織の「宗匠」といえどもリーダーであることに変わりはない。パシヴァとはつまり、その組織の文化的産物である。
(卑近な例をあげるならば「丘ふみ游俳倶楽部」の宗匠は小山二六齋である。われわれ部員が詠む俳句こそがパシヴァであり、好き嫌いはあっても俳句の「善し悪し」は推し量れないことになると思う。)

●「青豆」は教団「さきがけ」のリーダーを殺した瞬間に、地理的には遠くに離れている「天吾」の子供を身籠る。
(「さきがけ」のリーダーである深田保は、天の声を伝えることに疲れ、自ら死を選ぶようなかたちで青豆のアイスピックを首に受け入れたのである。)

●旧体制はそのリーダーを失い、次の体制(組織あるいは新しいシステム)の種が青豆の体の中に宿る。
(青豆と天吾の間に誕生した新しい生命体は「ドメスティクバイオレンス」の正統性、必要性に断固として異を唱えるだろう。)

●その同じ瞬間、天吾は「ふかえり」(リーダーの娘)の子宮の奥に不思議な射精をする。

●「ふかえり」は遠くに在るもの同士を結びつける力を持った(マザではなく、おそらくはそのドウタ)である。

●「天吾」と「青豆」は「ふかえり」を通して結びつき、処女懐胎〈正確には性行為なき受胎〉の事実を通して新しいドウタを妊る。

●ふたりは幼い頃似たような迫害の中にあり、互いに特別の同志的感情を抱いていた。「天吾」は〈NHK〉という組織の奴隷であったし、「青豆」は〈証人会〉という教団の奴隷であった。ふたりは間接的な「家庭内暴力」にさらされていて、「家族的な温もり」を肌で感じることができなかった。

●「家庭内暴力」はときに「教育的目的」と取り違えられ、多くの弱者にむごい体罰を加えてきた。〈肉体的にも精神的にも〉

●「大塚環」「老婦人の娘」は家庭内暴力によって自死している。
「中野あゆみ」「安田恭子」は組織的暴力によって殺された可能性が高い。(鏡を裏返すと、「リーダー〈深田保〉」も「牛河」も対立する「組織的暴力」によって抹殺されたのである。)

●しかし、「1Q84」のテーマはあくまでも「大きくて正常な月の横に緑色を帯びた月が同時に存在する」歪んだ世界を、正常でまともな「1984年」に還すことであった。
1Q84年、それを受け取るリーダーの資質が時代からズレ始めていることによって、あるいはリーダーの背負う大きな疲弊によって、「天の声」は歪み始めたのであろう。「ふかえり」はそれを敏感に察して教団を離れ、教団を解体させるために「空気さなぎ」というファンタジー小説を世に送り出したのである。

●そして、旧体制を破壊し、新体制の種を宿す役割を担うものとして「青豆」と「天吾」が選ばれた〈誰に? 「神」に? 「ふかえり」に? 「春樹」に?〉。「青豆」の腹の中には「新生児=次の時代のドウタ」が宿り、三人は「1Q84年」から、「月がひとつしかない『1984年』」に脱出することに成功する。

●しかしそれは本当の「1984年」でもさらになく、あるいはもうひとつの新しい「1X84年」であるかもしれない。
「青豆」は物語の最後にこう決意する。

《ここがどんな世界か、まだ判明してはいない。しかしそれがどのような成り立ちを持った世界であれ、私はここに留まるだろう。青豆はそう思う。私たちはここに留まるだろう。この世界にはおそらくこの世界なりの脅威があり、危険が潜んでいるのだろう。そしてこの世界なりの多くの謎と矛盾に満ちているのだろう。行く先のわからない多くの暗い道を、私たちはこの先いくつも辿らなくてはならないかもしれない。しかしそれでもいい。かまわない。進んでそれを受け入れよう。私はここからもうどこにも行かない。どんなことがあろうと私たちは、このひとつきりの月を持った世界に踏み留まるのだ。天吾と私とこの小さきものの三人で。》

「BOOK・3」は完結した。
このさき、「BOOK・4」として〈青豆や天吾の未来〉を物語として想像〈創造〉するのはむずかしい。
けれども、「1Q84」の世界に残されたまま、行方を知らずに彷徨っている魂のなんとたくさんあることだろう。
「戎野先生と〈ふかえり〉とアザミの生活はどうなるのか?」
「安田恭子は何故、どんな方法でその存在を消されたのか?」
「老婦人の美貌と生命力の行方は?」
「小松の定年後の生活設計は?」

*****2010*****

1984年に32才だった私は2010年の5月現在で57才である。
ときおり夜の空を見上げることもあるがお月様がふたつ見えたことはまだない。
けれども、すくなくとも1984年の12月、42、195kmを走りつづけ、ダイヤモンドヘッドからカピオラニ公園に戻ってきた私には「貝殻のネックレス」と「1984/HONOLULU  MARATHON FINISHER」とプリントされたTシャツが与えられた。
2010年、私は今でも気が向くと、早朝の5時に起きて、鴨川までジョギングすることがある。けれども当時と比べてみても世の中は少しも正常な世界には戻ってはいない。早い朝の白茶けた月がうっすらとした西の空に沈みかけている。
世の中のせいだけではない。
強く手を握りあうだけで体中のすべての動脈に限りない力を感じることのできた時代は終わった。
それは誰のせいでもない。ましてや時代のせいではない。

●読み了へてよはひ白茶の四月盡


■葱々集〈back number〉
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