*「街」と今井 聖 

今井 聖は1950年、新潟生まれの、今が旬の俳人である。
彼の主宰する「街」にはなぜか知り合いが多く(ネット句会のお仲間)、先日、「記念句集」の御礼にといって、「街」所属の友人から最新号が送られてきた。
まず見開きの1ページ目(表紙裏)には彼の堂々たる「街宣言」なるるものが書かれている。

私たちの俳句よ
魔法のような遠近法に固執しながら
鮮烈な色彩とイメージの連繋によって
リズムは決して意味よりも出しゃばらぬよう
言葉から言葉以上の思いが湧き出す奇跡を
花や鳥や風や月や
歯車やネジやボルトや一切の情趣の束縛を解放して
もっとも素朴なかたちの中に強靭な認識と原初の驚きが拮抗するように
私たちの俳句よ
驀進する「今」という機関車に跳び乗ろう

私の好きな池田澄子、中原道夫等とも仲がよさそうで、そこいらに乱立する有象無象の習い事俳句結社とは少し意気込みも違うかもしれない。

2008年10月号の主宰巻頭の句は「VISIBLE(25)」と題された11句。
その中から特に好きな句を3句、抜粋してみよう。

●捕虫網二本持ちたる白髪かな
(これはひょっとしたら同輩の「中原道夫」の事でも詠んでいるのかもしれない。)

●シロナガスクジラ降り来る青田かな
(雲の形を形容しているのだろう。 使う措辞にもダンディな今井氏の姿が重なる)

●銀杏から銀杏へフランスデモの幅
(シャンゼリゼはマロニエだから、銀杏の並木道は地方都市かもしれない、市民運動のロマンとフランス人のシニカルで文学的な性格が伝わる。)

続いて「先鋒三十」というコーナーから「今井 聖」選の「街」の同人、会員の句をいくつか取り上げて、彼等の美意識を探ってみたいと思う。

●万緑の一樹と揺れず人を焼く  大類つとむ
(まさにリアリティの句、作者は現代に訴える力を句に魂込めて詠んでいる。)

●よく転ぶ子がゐて神輿十基来る  高山邦夫
(冷静な観察力、「ものに語らせる」とよく言うが、この句の眼目は生命の讃歌だろう。)

●母歌ふ金魚の水を替ふる時  松野苑子
(小さな動物から母までのおおきな生命の幅に同じ暖かい愛情を抱いている作者の心の広さが印象的な作品。)

●水打つや暖色となる晩年図  上田貴美子
(「晩年期」とか「林住期」とか時間を言わずに「晩年図」と一枚の絵にしたところががいいですね! 今の一瞬を切り取るのが俳句の骨頂、残りの人生、「寒色」にならないように頑張らねば。)

●メロン切るある日いきなり一人なり  古川佳子
(悲しい現実から逃げずに、それを深く見つめた句、人はだれでも同じなんだというのが前提です。いくら子や孫や親や知人、友人に多く恵まれていたとしても「人間、生まれる時は母の胎内から押し出され、死ぬときはひとり」まわりに愛する家族がたくさん見守っていてくれたとしても、結局は一人で旅立つのです。 鷹女の言うように「孤独」を詠むのが俳句、「行きて帰るこころ」とはそういうことのような、気がします。)

●白服被せ逝かせこれほど恋ひ始む  秦 鈴絵
(いいなあ〜、素敵な句だなあー、これほどに自分を出して、なをかつ句の姿が上品なものにはなかなか出会えない。与謝野晶子の恋の歌にも比肩できます。「侘び寂び」だけが俳句じゃないぞ!)

●母が家黒電話に白レース  杉山文子
(携帯もパソコンもipodもない母の家、けれどもその「静かさ」のなかに、ゆたかな心を持って充実した人生を送って着た母の姿がある。 幸福とは何か、真剣に考えないと、情報に振り回されるだけの人生になってしまってはいけません。)

●片影のところどころの昔かな  石田義風
(エンニオ・モリコーネの哀切きわまるメロディーが聞こえてくるようです。ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ニッポン。) たしかに今井 聖は現代のリアリティと生命と人間をしっかりと見据えているようです。 人生の後半を迎え、ある程度社会にも成功をおさめたマダム連や、多彩な趣味を持つ小金持ちのロマンスグレーが道楽として遊ぶものが「俳句」なのではありません。 今井 聖氏はそんな事を語っているように思います。