*「瞬く」を読む 

〜物の音の澄みてことさら井戸深し〜

森賀まりさんの第二句集「瞬く」が上梓された。

まりさんは私が月に一回通っている百鳥大阪句会の直接の先生であり、夭折の俳人「田中裕明」氏の奥様である。
この「瞬く」を手にし、パラパラと数ページを繰っただけで、私はそこに裕明さんの俳句に漂っているものと同じ気配、哲学的で、詩的で、優しい滋養に満ちた、同じ質の言語宇宙を感じ取ることができた。
それはまるで深い井戸の底に湧き出す、澄んだ地下水のような味わいであり、香りであった。 

大阪の句会では通常100〜150句から5句を選句するのが常だが、私はいつも決まって1句、まりさんの句を選んでいる。逆に考えると、あとのまりさんの4句を選び出す鑑賞力が私にはまだ備わっていないとも言える。
まりさんの句はそれほどみずからの姿を隠し、気配を消し、心の深奥を覆うようにしてひそかに詠まれているように見える。
ひねくれた言い方をすれば、まるで彼女は、他人からの安易な共鳴を拒否しているかのようでもある。
彼女が句を詠むのは凡そのところ彼女の心の均衡を保つためか、それとも、若くして亡くなった裕明氏に今の自分の姿を語りかけ、伝えようとする所作にすぎないのかもしれない。
しかし、はからずもその句には深く悲しい詩情が秘されている。
彼女の思惑とは関係なく、「ポエジー」はそれを欲するひとの手に因って深い井戸の底から汲み上げられることになる。

これら、まりさんの句に対する私なりの鑑賞はあまりにも極私的なアプローチであり、彼女の本意とは違うところのものかもしれない。
それを承知で何ごとかを語るとするならば、私は「一度この世界に放たれた句は、畢竟、その読み手のものである」という都合のよい免罪符に頼らねばならないだろう。
私は森賀まりさんの俳句の一ファンであって、決してそれ以上のものではないのだから。

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●我を見ず茨の花を見て答ふ
※「茨の花」が答の内容を暗示させる。「何故、貴方は私を見ないのか!」 「優しさがどれほど残酷なものか、すべてをひとりで受け止めようとするなら、私は貴方にとって何者であるのか!」

●銀杏や一人で歩くときのかほ
※「GIN/NAN」の音にはいくつかの苦々しさが含まれている。それは「苦吟」であり「難題」であり「難渋」でもある。 一緒に居るときの顔ではない。ひとりになって相手を思うときの貌である。

●鉛筆のころがる音は枯木の音
※指から離れてころがる鉛筆。枯木のようであるのは鉛筆だけではなく、その指だとも思える。
すこしの水分を失い、コントロールも失ったかのように見える指は意外にか細く、今にも折れてしまいそうな指である。

●雪吊を大きな風の離れけり
※ 《ふかくうなづきともに雪吊へゆかむ  裕明》
雪吊はふたりの幼子の手をひく母のよう。
雪吊を包み込んでいた暖かく大きな風が今、そこから離れようとしている。
風はどこへ去ってゆくのだろう。

●ふらここや岸といふものあるやうに
※あるのかないのか此岸と彼岸。此の岸があるのなら彼の岸もある。
まるで永久運動のようにブランコは揺れ続けている。

●立つ人の白しと思ふ蛍の夜
※「立つ」人は「旅立つ」のである。「人」は三人称ではなく、同定されたまぎれもない一人称としての「人」である。
「人」として指し示されているのはただひとりの「人」である。

●裏返るとき蛍の強き火よ
※私の兄は数え年の45才、白血病で亡くなった。
その最期を病床で看取った私は兄の死の一部始終を見ていた。
咽に痰がつまっていた兄は少しでも呼吸が楽な体勢を維持してそれまでずっと右側を向いていたのだが、ある瞬間、大きく息を吐いて頭を左方向に寝返ったのである。痰が兄の咽を塞ぎ、兄はその時に逝った。
それはみずからの死を自分で選びとった兄の決断と勇気の顕われであり、彼の最期の自己表現だったと私は思っている。

●香水に守られてゐるかも知れず
※いまにも萎えてしまいそうな心を抱いているときに、それでも人は社会に参画しなければならないことがある。
そんな時、自分自身を奮い立たせるために女性なら香水を身に纏う。
香水の名は「エゴイスト」。

●月入るや人を探しに行くやうに
※失われし「人」を探しに月は今、世界の裏側を照らしはじめた。

●長き廊下は悴みて立つところ
※0病棟の長い廊下にはいろんなものが佇んでいる。戦争も平和も、愛も憎しみも、希望も絶望も。
外界に開く窓もなく、冷たく長い一本道は永遠に続いている。

●脱ぎすてしものに冬日の移りけり
※脱ぎ捨てたものにはそれを脱ぎ捨てた人の匂いやぬくもりが残っている。脱ぎ捨てたものに冬の陽があたり、脱ぎ捨てた人と等価の愛おしさが脱ぎ捨てたものにも移ってゆく。

●また本を開きし人と春を待つ
※本を閉じて未在の海を思う。本を開いて存在の海に遊ぶ。
ふたりして存在の春を待つ。待つ。そして・・・何も待ってはいない、今がここにあるだけだと「人」は思う。

●冬菫没後といへる時間きし
※ 《さきほどの冬菫まで戻らむか  裕明》
どれだけ戻ろうとも、もうその冬菫に会うことはできない。
冬菫は実在から抽象に変わり、頭頂葉にある大切な小箱に保管される。

●冬菫こちらの岸と見ゆる岸
※こちらの岸にもあちらの岸にも冬菫が咲く。
その両岸のあいだには清冽な「詩」の川が流れている。詩の淵に沈み、こちらの人もあちらの人も静かな 眠りにつく。

●春の月しづかに骨を照らしゐる ※言葉はない。月光のみが夜を想う。

●口漱ぐ音の響きぬカシオペア
※カシオペアの「W」はwhat,where,when,who,whyと無数の疑問符を投げかけてくる。

●合歓の花不在の椅子のこちら向く
※かつていつもそこに座っていた「人」は、今はいない。
しかし、椅子はいつでもこちらを向いている。
椅子はこちらを向いて彼女の声に耳をひそめ、彼女の仕種を見て愉しんでいる。

●創刊のころの付箋や花八手 ※2000年創刊の「ゆう」は2005年終刊というあまりにも短命な俳句結社であった。
しかし田中裕明氏の志はその後「静かな場所」「はるもにあ」「秋草」へと手渡され、その友情は池田澄子、石田郷子、今井聖、上野一孝、海野謙四郎、大井 恒行、大木あまり、小川 軽舟、小澤實、櫂 未知子、片山由美子、加藤喜代子、岸本尚毅、木村 定生、小林 貴子、小屋敷晶子、酒井 佐忠、境野 大波、坂原 八津、高田 正子、高橋とも子、高山れおな、筑紫 磐井、千葉 晧史、中原 道夫、中山 世一、西澤 麻、西村 和子、仁平 勝、正木ゆう子、マブソン青眼、満田 春日、八木 幹夫、山岡喜美子、山西 雅子、そして四ツ谷龍の心に印された。

●かすかなる空耳なれどあたたかし
※どんな季節のどんな季語を目の当たりにしても確かに聞こえて来る声がある。
空気をふるわせることのない声がかすかに彼女の鼓膜を震わせる。
季語の本意はそのとき、はにかんだように少しだけ熱を帯びる。

●山法師一つの朝に夜の来ぬ
※この句の下五をどう発語しろというのだろう?
「キヌ」でも「コヌ」でもない、そこに発音はふさわしくない。
この句にふさわしいのは「無音」であり「黙読」である。

●これよりは眠る蔵書や桐は実に
※彼の蔵書はもう開かれることがない。
彼の蔵書は悉く羽根をつけて天に届けられる。

●烏売骨のすがたのよき人と
※烏瓜の実は薬にも化粧料にもなる、好んで鳥が啄むという。
「骨のすがたのよき人」はいくらか烏瓜に似ているかもしれない。その季語の本意に則しているのかもしれない。

●眠ること字を書くことに草枯るる
※眠ることに疲れ、字を書くことに疲れ、他にすることもなし。
その他にするべきこともなし。

●合歓咲いてかたき箱なる全句集
※「田中裕明・全句集」には栞の紐が2本ついている。
固い箱は厚みがどっかりとして、それは宝物の詰まったエジプトの王の柩のようにも見える。
中を覗くと、此の世では見た事のないような美しい言葉がいっぱいに散りばめられている。


本を閉ぢ月に未在の海思ふ  葱男

ここまで、あまりにも片寄った選句をして、何の思慮もなく、過分な憶測もせず、ただただ気ままに自らの想像の羽根をひろげてまりさんの句を読んできた。
未だに存在しない月の海を、私は私の不確かな幻想の中に満たして、その波打ち際を夢中で泳いだ。
まりさんの月が白く美しい嫦娥だとしたら、私の見ている月は緑色に歪んだちっぽけな天体にすぎない。
存在の裡に立ち上がる有情を人為的に覆い隠すことはできない。そのすべては必ず存在の表に立ちあらわれる。それが生身の人間の姿であり、俳句というものの姿である。


●瞬きに月の光のさし入りぬ  森賀まり