*「神楽岡」(徳永真弓第一句集) 

神楽岡」とは京都大学の裏手にある「吉田山」のことで、「吉田神社」の節分祭は全国にも広く知られている。

三高(京都大学)の寮歌の歌詞に

♪ くれない萌ゆる 丘の花 早緑匂う岸の色〜
♪ 都の花に嘯けば 月こそかかれ吉田山〜

と歌われているのが「吉田山=神楽岡」である。

真弓さんは同じ大阪百鳥の句友で、年令も同じ、ただ俳句に関してはずっと先輩で、いつも彼女の句からは多くを学ばせてもらっている。
大阪句会でも彼女は常に際立った存在であり、その豊かな感性と才能に共鳴する俳人は少なくない。
「神楽岡」が上梓され、こうして初学の頃からの真弓さんの句をずらりと並べて鑑賞できる機会を得、今あらためて彼女の俳句について考えてみた。

彼女はとてもクレバーな俳人であり、二句一章の取り合わせに於いてもそのセンシティブでイマジネーション溢れる措辞には大きな魅力がある。
けれども今回、句集の全314句を読み通して思うことは、今まで気づかなかった彼女の一句一章の確かさと豊かさであった。それは大きな母性のような句姿をして私を魅了した。
彼女の俳句の世界を底から支えているものはあるいはこの「母性」なのかもしれない、と思った。
それは「自己愛」を超えた「他者への愛」であり「他者への挨拶」である。
彼女の句の中に「主張する自我」を見つけることはとてもむずかしい。

句集「神楽岡」の跋文で森賀まりさんは真弓さんについてこのような感想を述べている。
<先に引用した彼女の小文の題は、「『私』ではない道を通って」というもの。投句のみの長い期間の後、句会に出るようになった真弓さんが、座という輪の中で「人との連なり、自然との連なり」を感じ、「自分自身への密着、思い込み」から離れていく思いがしたことが述べられている。そして、「自分に辿り着く」ためには、『私』でない道を通る必要があるかもしれないという。 この自覚が今、真弓さんの俳句を明るく涼やかな場所に立たせている。>

私は句集「神楽岡」の背後に瑞祥の気配としての聖獣・麒麟をデザインした。
自己から離れて詠まれる彼女の俳句の背後にも、そのような聖なるもの(マリア的なるもの)が隠れているような気がしたから・・・かもしれない。

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●前略と書き春雨を聞いてをり
※心は手紙を書く相手のほうへ流れている。相手の心を忖度するように春雨の静かな音に同調する。なにも書き急ぐ 必要はない。言葉がみずから立ち上がってくるのを穏やかな気持ちで待つ。

●動かざる闇びつしりと熱帯夜
※夜中に目覚めて真夏の熱い闇に包まれていることを知る。だからといってすぐに冷房をかけるわけでもなく、この火照った暗闇に包まれたまま自分もまたじっと動かない。熱とも闇とも戦うことをせず、そのままを受け入れてまじろぐこともない。

●初潮の子りんご齧って飛び出せり
※娘がしだいに成長してゆっくりと大人になってゆくことを喜びながら、それが「ゆっくり」となされる事に感謝の気持ちを抱く。「りんご」は幼さの象徴。少女は濃密な時間を経て一歩一歩ゆっくりと階段を登る。

●落葉してがらんと空の美しき
※紅葉が密に照葉を茂らせていた秋が過ぎ、木々は裸となって寒々しい季節、ふと視点を空に向けるとそこに冬青空の凛とした景色があった。空間に美しさを見い出すのは東洋人に特異な美意識とも言えるだろう。

●頬固くして向ひあふ冬の海
※厳寒の冬の海ではあるが、向かい合えば相手の温もりは伝わってくる。寒さに頬を固くして少し喋りづらいのだが、それさえも微笑ましく感じられる。

●梅一輪ひかり窺ふやうに咲く
※一句一章の鑑賞はむずかしい。そこには美しい言葉でそのままの情景が詠まれていて、二句一章のように二物のぶつかりようをこちらのイマジネーションで噛み砕く必要もない。「梅」が一輪、早春の光を窺うようにしてひっそりと咲いているのである。それだけを作者は言うのである。

●銀杏落葉輝きを地に降ろしたる
※輝きとは真黄色な銀杏の扇形の葉が、くるくると回りながら散る様を初冬の柔らかい光の中に見ている様子。 それを「降ろす」と表現する時に時間軸が少しだけぶれて目眩のようなときめきが生まれる。
このあとも真弓さんの静かな一句一章の写生が続く。
余計な鑑賞ほど興醒めするものはない。
映写カメラが光度を決めながら被写体にズームしていくように、万象は真弓さんの確かな眼で描写され、その美は適正に他者へと伝わってゆく。

●水槽に豆腐静もる寒さかな

●病む母の薄きまぶたに花明り

●六月の海光硬し人工島

●沖へ出ておのが泳ぎの音の中

●大鷹の肩を揺らして止まりけり

●聖菓抱く膝を座席に揃へけり

●囀のくすぐりまはる大樹かな

●校門のあたりまぶしき更衣

●冬帽子姉妹は凭れあひて待つ

●あめんばうどこも濡れずに跳び回る

●百合の香の中ブラウスを脱ぎにけり

●老僧のふはりと蠅を払ひけり

●朝顔をきれいな膝の過ぎゆけり

●新涼の鏡の中の部屋広し

●猿曳と猿の揃ひて一礼す

●風邪籠り子の教科書のおもしろく

●網ごしに運動場を見る兎

●なつかしき西瓜の重さ買ひにけり

●鰯雲呼び交わしゐる測量士

●手袋の右と左を教へをり

●自転車の籠ゆるるなよ桜餅

●ゆつくりと来る焼芋屋待つてをり

●下からも金魚の袋眺めけり

●わが膝の前の歌留多を叩かれし

●アイスティ氷の音を聞きたくて

●何編むとなく毛糸屋の色の中

●青き踏む川の名変るところまで

川は出町柳で鴨川から加茂川と高野川に分かれる。
出町柳からは鞍馬と貴船に向かう一両編成の電車が出ている。
吉田神社には白い狐が三匹と、おっとりとした麒麟が一頭棲みついていて、節分の鬼が退散したあと、都には弥生の春が訪れる 。