*澄子/晶子論 

池田晶子:1960年生まれ。慶應大学文学部哲学科卒業。専門用語による「哲学」についての論ではなく、哲学するとはどういうことかを日常の言葉を用いて示し、多くの読者を得る。
著書に、『14歳からの哲学−考えるための教科書』(トランスビュー)『帰ってきたソクラテス』『悪妻に訊け』『さよならソクラテス』(新潮社)『考える日々』(毎日新聞社)『睥睨するヘーゲル』『オン!―埴谷雄高との形而上対話』(講談社)『残酷人生論』(情報センター出版局)『メタフィジカル・パンチ』(文藝春秋)『REMARK』(双葉社)『ロゴスに訊け』(角川書店)等。
2007年2月23日、進行がんにより死去。

僕はいずれ、大好きな池田晶子氏の哲学と、これまた好でたまらない池田澄子氏の俳句を比較研究してみたいと思っているのですが、というのも、この二人の池田さんが表現しようとしている内的世界はまるで符牒を合わせたかのように、本当にピタリと重なり合うように思えるからなのです。
池田晶子は、最期のエッセイ「人間自身(考えることに終わりなく)」‘生死は平等である’の項に、「世間」すなわち人間社会の現象の本質は〜中略〜「生死」「自分」「言葉」といったものである、と語っています。
そして、その人間社会の現象の本質を見事に捉えていると思われるのが池田澄子の数々の俳句作品です。
ここでは初めての実験的な試みとして、この三つのキーワード「生死」「自分」「言葉」というカテゴリーを使って、澄子/晶子の不思議な存在論的世界を紹介したいと思います。

【言葉】
つくづく、この国は言霊の幸ふ国である。言葉を愛する我々なのである。
これは素晴らしいことではないか。得難いことではないか。
言葉のうえの議論をやめ、現実に目覚めよなどと、野暮な人間は口走る。
逆である。言葉を愛することのできない人間に、現実という意味はわからない。
〜内容ではなく形式こそ命、文体が印象されなければ、何を言っても同じです。「何を言うか」ではなくて「どう言うか」。
〜文章には花がなければなりません。
〜ところで一方、意味の不思議に自覚的に語られる言葉、〜それは自分を超えている、〜こういう意味の普遍性もしくは遍在性に気がつくとは、とりも直さず「自分」の消滅であります。(晶子)

天高し地軸をおもうと倒れそう
けしからぬ地動説かな初日の出
魔がさして親切にして立待月
煮凝りやなんとかするとはどうするか
遠方の遠方はここ天道虫
性格のよからんいそぎんちゃくぴんく
先例のかつては異例さねかずら
夕顔や元気が体を出てこない

【自分】
精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。これは奇跡的な確率である。
〜しかし〜本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。
なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。その生命体であるところのこの自分は、どのように存在したのか。
体が意志を超えた存在である〜では誰が作ったのかと言えば〜「自然」です。
〜自分であり自分でないところの肉体との付き合い方、間のとり方、その要領を覚えて〜「心の変化」が面白く感じられる。(晶子)

秋風にいちいち動くこころかな
秋風にこの形ゆえ我は人
目覚めるといつも私がいて遺憾
頚をもて揺れる頭や天の川
手に指があってビールのコップに取っ手
秋暑し耳朶ひっぱると伸びる
お辞儀してマフラー垂れて地上かな
頑張らざるをえない孔雀の尾の付け根
ニオイスミレ匂う範囲へ屈み入る

【生死】
人生というものを、生まれてから死ぬまでの一定の期間と限定し、しかもそれを自分の権利だと他者に主張するようなのが現代の人生観である。
しかし、人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。
始まりは痛みである。
人生は、過ぎ去って還らないけれども、春は繰り返し巡り来る。
一回的な人生と、永遠に巡る季節が交差するそこに、桜が満開の花を咲かせる。儚さは儚いままにやはり巡っている。
永遠的なものを知ることにおいて、人は、自分を自分と思うことの不可能と無意味を知るだろう。
生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きている者は必ず死ぬ。
癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。(晶子)

じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
死に順は突然決まる葉付き柚子
有り難く我在りこぼす掻き氷
知る限りいずこもこの世立つ蚊柱
噂では知ってます極楽の蓮華
蚯蚓鳴く日まで私は生きられぬ

※俳句はすべて、池田澄子さんの「たましいの話」から抜粋したものです。