*「夜の雲」浅井慎平 

〜よく熟れし桃から遠ざかるナイフ 〜


本屋の俳句のコーナーには「歳事記」や俳句ノウハウ本ばかりでなかなか新刊の句集は置いてないものだが、カメラマンとして名が出ているせいか、浅井慎平の句集を見つけた。
彼の第一句集はいわゆる写真俳句集であり、(「二十世紀最終汽笛」というタイトルで、紹介文には「映像詩人のオフ・ブロードウェイ。銀河劇場へようこそ!浅井慎平の写真と俳句が星空に舞っている。」とある)そちらも読んだけど、ほとんど俳句以前の一行詩という感じの軽いエンターテイメントだった。
ところが今回の「夜の雲」はいい! 勿論ページには俳句という「文字」以外のメディアは使われていない。
詠まれている題材には「映画」「小説」「外国の街」「大人好きな玩具としての道具や機械」などに限定されてはいるが、彼が本来持っている、純粋な「少年的感性」と中年男としてのダンディズムやノスタルジアが入り交じる、独特の俳句世界を作っている。
勝手な感想をつけながらいくつか好きな句を取り上げてみよう。

●しずかさや神の手帖の冬銀河
(星を「文字」として読む古代人の知恵を、いつごろからか人間はどこかに置き忘れてきた。「銀河」と「神」は慎平句のキーワード。) ●知らざれば乳房は遥か雪の丘 (慎平の句にはしばしば「少年」の貌がのぞく。「乳房」「雪」も彼のキーワード。)

●昆虫館ピンを打つとき冬に入る
(このように表現する時、「死」もまた一行のポエムとなる。)

●石鹸のつるりと滑る神無月
(人間の業の深さも神の領域から眺めれば、石鹸がつるりと滑ったぐらいのものかもしれない。)

●風花や燐寸するとき夜の雲
(句集のタイトルとなった「夜の雲」を詠んだ句、やはり、寺山修司には相当の思い入れが感じられる。)

●冬の日や猫流れゆく神田川
(ヴァラナシのガンジス河には赤子の屍体が流れて来るそうです。)

●ぼたん雪江戸までもどる橋の上
(今の日本橋にはなんの情緒もない高架の下の道路ですが、それでも「ぼたん雪」が舞うときに「時間」はワープするのです。)

●胸奥の降る雪昭和の積もりけり
(昭和世代の我々にはきこの句と共有できる類想がいくつもあるはず。)

●雪やんで凶のみくじをひき暮れる
(「ひき暮れる」にペーソスがあり、人生の真実がある。)

●二月尽く香水の名はエゴイスト
(この句集での、最高の一句としました。「二月尽く」の季語は秀逸!)

●猫抱いていのちとおもう冬の雷
(多くの猫好きの俳人達に捧げたい一句。)

●初雪や赤きバケツに二粍ほど
(この句の視点はカメラマンとしての彼の面目躍如というところ。)

●月からの雫枯野に転がれる
(この情景も写真家としては画像として表現したいものではないだろうか。)

●さみしさという定型や去年今年
(「さみしさ」を句に詠むというタブーも歳晩なら許されるでしょう。)

●ヒヤシンス女優の声の低きかな
(勝手な感情だが、女の声はあまり甲高くないほうが色気を感じる。風邪声で「悪いね・・」なんて言われたらたまりません。)

●百代を舞い降りつづく桜かな
(につぽんに吹き寄せられし花埃  葱男)

●雲ひとつ浮かんで夜の乳房かな
(この句の曖昧さに強く惹かれます。何故だろう?「詩」が夜の空に遍在しているからか。)

●潮風や星になりつつ人の骨
(「昆虫館」と同じく「死」がポエムであることを教えてくれる一句。)

●七月や少年の自涜青々と
(寺山へのオマージュに思えてなりません。)

●プラハ駅カビの匂いのかすかなり
(めずらしく写生句、プラハの街の歴史と美しさにつきます。)

●夏嵐カフカの机傷いくつ
(句集、ベスト2の句とします。夏の嵐は古きイタリア映画にも世紀末のヨーロッパにもイメージを繋いでくれます。)

●色のなき写真の中のレモンかな
(「夜の雲」、ベスト3とします。モノクロの檸檬は地中海沿岸の街に共通の、哀しい夕焼けの中に生まれます。)