*「雪月」満田春日 

満田春日さんは私が参加させていただいている俳句季刊誌「はるもにあ」の主宰です。
今回は、「ふらんす堂」から出版されている彼女の第二句集「雪月」から、特に印象に残った句を自分なりに鑑賞してみました。
まことに稚拙な感想ですので主宰に対しては大変失礼かと思いましたが、皆さんに彼女の句を紹介するつもりで書くことにしました。
満田さんは昭和30年生まれ、28歳の時に「海」に入会され、平成2年には35歳という若さで第7回海賞受賞。
平成8年には第1句集『瞬』を刊行し、その後、故田中裕明氏の「ゆう」に入会、平成16年には第5回ゆう俳句賞を受賞されています。(俳人協会会員)

 その夢の泰山木として開く

 傘ささずをれば日の差す花馬酔木

 虹の根に辿りつきしか合格す

常に毅然とした態度で現実を直視することを怖れず、真摯で一途な心構えを持つ者にとって、「生」は大きな喜びに満ちるものであるだろう。
「虹」、「泰山木」、「花馬酔木」の措辞には、夢がいつかは現(うつつ)に形象化される事を信じ、自らの人生を肯定的に歩もうとする作者の強い意志が映されているように思える。

 石の影短し梅の影長し

 山鳩の何かついばみつつ恋す

 てのひらに釣銭四色春の宵

花鳥を詠ずるにあたって、作者は万象の内実に無用の軸を付け加えようとはしない。
対極にあると見えるものであっても、ふたつの形を「詩情」というステージに置いてみれば、二者の実体は等価である。
時に石は梅よりも香り、食する事は恋することよりもロマンチック。コインはその金銭的な価値よりも色彩の方に意味がある。
考えてみると真ん中に穴が開いている黄金色のコインなんて、世界中探しても見つからないだろうし・・・。

 これよりを夕日と呼べる茄子の馬

 くわりん咲くけふまだ雲を知らぬ空

茄子に割り箸の脚を挿す。すると不思議なことにそれまで「茄子」だったものは突然、「馬」に生まれ変わる。
人の日常にはこのように、いくつものエポックメーキングが訪れる。
単なる日没の時間が素晴らしい夕日に変貌するようなことだってあるかもしれない。
今までは普通だったことも、視点が変われば特別な出来事になる場合だってあるだろう。

 柿潰れとなりの柿を濡らしけり

 玉砂利にささつてありし木の実かな

 八月の硬貨冷たきメトロかな

作者には瞬間、瞬間を確実に感受する「俳人としての習性」がすでに備わっているのだろう。
例えるならそれは、中田ヒデや俊輔が最終のキラーパスをどこに出すか、瞬時に本能的に判断する時の、天性の資質のようなものかもしれない。

 ぺらぺらの襟ごと吹かれ赤い羽根

 春落葉引き擦りゆくは孔雀の尾

 歩くうち国が変はりぬ冬の草

本来なら主役を張るべき役者が、ある場面では脇に回り、背景にいたはずの名脇役がいぶし銀の演技で玄人筋をうならせることがある。
映画、演劇にしても俳句にしても、それはもうひとつの無常の愉しみである。

 攫(さら)はるるなら虎落笛鳴る中を

 苜蓿(うまごやし)うつむきに寝て涙出づ

女性ならではの句であるにも拘わらず、作者の心には骨太の性根がしっかりと座っているようにみえる。
壇一雄級の無頼でもなければ到底花に逢うことは難しい。

 梅に寄るてのひらに影落つるまで

 菊の香のいづくへも這へ赤ん坊

 水仙の葉厚けれど日に透けて

繊細にして豪胆、彼女の句にいつも同時に備わっているのがこの相反する資質である。
それは豊かな感受性と生きる勇気からもたらされたものだろう。