*丘ふみ俳句:俳精神派(水音篇)=葱男


水音(葱選10句)

あめんぼう水くぼませる重さかな
ドーナツの穴の静けさ鳥雲に
やはらかくやはらかく水分けて鮎
神の留守羽毛のやうに告知さる
風の名を思い出せずにハンモック
どこにでも水売っている原爆忌
虫しぐれ和文和訳をしてもらふ
オリーブの花や胎児も遊びをる
手ぬぐいの結び目固し田植唄
大根引く城下町よりはみだして

水音さんの俳句世界全体をイメージすることは難しい。彼女の世界にはまことに多くの精神性が重層的に渦巻いていて、これが彼女の句の特異点だ、という「核」のようなものをまだ同定できないでいる。それほど水音さんの文学的領域は広いように思う。
ただ一つ、ここでは彼女の作品世界をひも解くヒントとして、彼女の句に潜んでいる「負の想像力」といったものに注目してみたい。
松岡正剛著「フラジャイルな闘い/日本んの行方」によると、「負の想像力」は日本の風土が生み出した、日本人に特異の方法だということである。それは「侘び茶」の美学である「引き算」の方法、「枯山水」で云うなら、「水を感じたいから水を引く」という方法である。
「いまそこに何かがない」ということが「見える」ということの美学が日本人の中には育まれている。

10選の句に表現された、「あめんぼうの重さ」「ドーナツの穴」「羽毛の冷たさ」「和文和訳」などの句は、あえてものごとの本性を引き算する、あるいは裏にひっくり返すことによってうまくその本質を際立たせている。10選の他にも「負の想像力」によって立っている水音さんの句は多い。

ボクサーの華奢な拳や新樹立つ
分校の山椒魚の棲むプール
公園の蛇口上向く梅雨晴間
ひっそりと不登校児いる盆踊り
豆飯や母に乙女の潜みいる
をりとれぬほど逞しき芒かな

これらの作品に感じられる奇妙な「舌触り」と不思議な感興は、「負の想像力」に因るものである。そしてもうひとつ、水音さん独特の冷笑的なシニフィエにも注目してみよう。

ひらひらと落ちゆくコイン水の秋
かぼちゃなど転がっている子ども部屋
ヴィーナスになりそこなって柚子湯する
雪道を原人のごと歩きをる
さくらんぼエンドロールのエキストラ
鳩いづる帽子の闇やすすき原
石鹸玉受胎告知といふおまけ
ゆふぐれの百合より白しわが恋は
小春日を恋ふるわたしは猫不足
寄せ鍋や懺悔終えたる神学生
歌留多とり恋しらぬ手のたかだかと
非常ベル鳴らしてみたし笑茸
砂時計のくびれのあたり去年今年
わが地図に空白おほし炭をつぐ

これらの作品には少なからず「諧謔精神」が宿っていて、一種、文人俳句の趣きがある。
上等の諧謔には、「俳句」の本道である「詫び錆び」の禅味が含まれているものだ。水音さんの「諧謔」にもそれがある。
俳句という短詩型の文芸が獲得してきた形式美の歴史を読むならば、そのからくりが見えてくる。
ではここで、もう一度原点に立ち返って俳句の成り立ちを遡ってみよう。

大昔、若い男女が大きな原っぱや浜辺に集まって互いの気持ちを鼓舞するように「歌い、踊る」風習があった。それを「歌垣」といい、いまでも中国南部やインドシナ半島の山岳地帯の少数民族には同じような風習が残っている。まだ文字のないころのこと、「歌垣」は多くの場合、固定的な「音数律」に従っていた。一般にはそれが「和歌」のルーツだと言われている。

やがて漢字が伝わり、ひらがなが生まれ、「和歌」の五、七、五、七、七の基本的なリズムが定着する。詩歌の様式は時代とともにすこしづつ変化し、敷衍されて、「連歌」に「俳諧」に、そして「短歌」「俳句」へと歴史を繋げてきたのである。
「歌い、踊る」風習の「歌」の部分がそうであるとするならば、「踊る」のほうの形式はどのように発展していったのか、これを舞踊の歴史に照応して考えてみると、「雅楽」「能(狂言)」「歌舞伎」「演劇」という芸能に符牒するかもしれない。
このように、表現形式というものはいつの時代にも移り変わり、様変わりして生成、発達、収斂、破壊、分裂し、そして再構築されてゆくのだろう。
そうさせているものはまぎれもなく人間の精神であり、仮に、生成する働きを「実験精神」、発達させる働きを「詩精神」、収斂させる働きを「俳精神」、破壊するものを「諧謔精神」、再構築させる働きを「工芸精神」と呼んでみることにする。

こうして「文学=俳句」を編集してみると、次ぎのような図式が自己表現のサイクルとして見えてくるのではないか。

「純」という美意識=実験精神=生成=歌垣

「雅」という美意識=詩精神=発達=和歌(雅楽)

「侘び寂び」の美意識=俳精神=収斂=連歌(能)

「粋」という美意識=諧謔精神=破壊=俳諧(歌舞伎)

「妙」という美意識=工芸精神=再構築=現代俳句(現代演劇)

これら美意識は「純」←→「雅」←→「侘び錆び」←→「粋」←→「妙」←→「純」と相互に共振しながら循環し、どこまでも再生をくり返す。それはまるで宇宙や魂の運動論と同じ様相を呈している。
話が哲学の卒論みたいになってきたので、この辺でやめておきます。
結論、という訳で上等な俳精神と諧謔精神は相互に行き来してお互いを内包しているのです。で、ここまで鑑賞してきて思うのは、水音さんの俳句はどちらかというと「諧謔精神派」かな? ん?
ではもう少し水音さんの句を見てみましょう。

草紅葉山並みふわり持ち上ぐる
草の穂の向きそれぞれに鳥の影
無花果を煮る人の世のはじまりに
風薫る子らは遊具のてっぺんに
極月や寂しき時に麒麟鳴く
二歩目には駆けだす子らや春の雲
薄氷や指の力をもてあます
一番は母であること福寿草

ちょっと長くなったので「俳精神派」、残りの香久夜さん、資料官さん、五六二三斎さんは次回ということに。



■葱々集〈back number〉
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