*丘ふみ倶楽部/お誕生日句と花

砂太:4月16日
●春雨やうつくしうなる物ばかり=千代女 *ヤマブキソウ:すがすがしい明るさ

※春雨も砂太先生も時間を経るにつれて千代に八千代に美しうなるばかりである。
七十を越えた極太の元体育教師に向かって、還暦も近い中年の男が投げかける「美しい」という言葉に、言われた当人もさぞかし面映い心持ちがするだろう。けれども、これは元、教え子の正直な気持ちなのである。
冬でも裸足で雪駄履きの「男らしい」恩師は、その句の真っ正直なところ、句柄のおおらかさや大きさがまづ目につくけれども、ちょっとした文章の端々に感じられるのは人への心遣いと優しさ、そして決してどんな環境や立場の人間に対しても偏見、差別なく真正面から関わろうとするその姿勢である。
その無垢な眼差しとエネルギーに於いて、そして人や物と交わることの歓びを一番知っているのが砂太先生だとしたら「美しうなるものばかり」と謳う千代女や砂太先生こそが「美しい」のだと、私は思っている。
誕生日の花「山吹」の花言葉は「すがすがしい明るさ」。
芭蕉によって、「古池」にとって変わられた「山吹」だが、其角が提言したように、砂太先生の蛙には清清しい「山吹」こそがよく似合う。

二六齋:11月11日(本当のお誕生日)
●水引の紅を奪ひて夕日落ち=坊城としあつ *ミズヒキ:慶事

※この句、何故「夕日落つ」でなく「落ち」なのだろう? 夕日の落ちたあと、何ごとかの慶事がおこったのだろうか。
とにもかくにも「丘ふみ」にとって「二六齋」宗匠を得たことはまことに「慶事」であった。しかし、紅を奪われた「水引」の慶事というものは、手放しで万々歳と喜べるほどそう単純なものではない。「好事、魔多し」とはよく言う譬えだが、ここでは「慶事、魔多し」という造語をもって、夕日のあとの風景を眺めてみる必要がある。
本当の「誕生」とはそのようなものであるだろう。
冠婚葬祭の熨斗袋に結ばれる水引は赤、黄、黒の三色と白の糸によって縒られている。
紅を奪うと夕日が落ち、黄色を奪うと精気が落ち、黒を奪うと二極の対比が失われる。
戯れに「ケイジ」の音を辞典で調べてみると、「慶事」の他に「兄事」、「啓示」「形而」「刑事」「掲示」「計時」等が見つかった。ケイザブロウよりはむしろケイジロウでしょうか、なんて??? うむむ。

12月11日(戸籍上のお誕生日) ●斧入れて香におどろくや冬こだち=蕪村 *ヤドリギ:困難に打ち勝つ

※「戸籍上」ということは世間のルール上では、ということだろう。
相手の存在を過小評価して我が身の凡庸さを錯覚していると、「ああ、こんな人がこんな素晴らしい香りを発するのか」とびっくりする事の連続である。
自分の話で恐縮だが、今、私の周りに俳句の「師匠」だと思える人物が8人いる。
その8人ともが大木であり、「斧」と言わず、ちょっとつつくだけでとても素晴らしい香りを放ってくれる。
「丘ふみ」の砂太先生、「め組」の二六齋宗匠、「はるもにあ」の満田春日女史、神戸百鳥の原田暹さん、大阪百鳥の森賀まりさん、無所属(?)の池田澄子さん、故人の田中裕明氏、そして句友の金子敦さんの8名である。
ところが「俳句」という深遠広大無辺な世界は、かつて「数学、倫理、文学、科学、医学」が「哲学」というひとつのアカデミアに融合されていたようにシンプルなものではなくなってしまった。(または、なくなってしまったかのようである。) それ故に私は「数学」も「倫理学」も「科学」も「歴史学」も「言語学」も「論理学」も「社会学」も「宗教学」も「経済学」も「法学」も学ぼうとするのかもしれない。
しかし、それではいつまでたってもせいぜいが「ヤドリギ」であって、真に強い香りを放つ「冬木立」としてひとり立つことはできないだろう。
「斧」でバッサリと叩き割られてなんの香りもしない脆弱な木から少しづつでも成長したいものである。
そのためには「哲学」という一本の大木を見極めねばならないだろう。
百鳥の同人であり句友でもある徳永真弓氏の句集「神楽岡」がフランス堂から出版される。その本の装幀の仕事を無事に終えたら、今年いっぱいで「百鳥」会員の席を立ち、ふたりの師匠のもとを離れようと今考えている。しかしそれは確かに非常に困難な命題でもある。
かつて二六齋は困難に打ち勝って、みずからのポエジーとオリジナリティーとシステムを矜持として世間のルールから逸脱したのだった。 戸籍上の誕生日は真実の「誕生」とは全く異なった世間智の増幅作用にすぎない。

君不去:4月9日
●翁草父母のくらしを忘れゐし=増田宇一 *オキナグサ:華麗、告げられぬ恋

※折りにふれ、時に感じて「ああ、老いた父母のことを忘れていたなあ〜」とみずからをたしなめる孝行息子の姿がここにある。この句の場合は「父母のくらし」とあるから、少し離れた故郷にまだ元気で暮らしている親御さんに対する思いであるだろう。父母が元気で御存命の人もそうだが、片親、または両親を既に亡くしてしまった人にも同じような感慨が訪れることがある。しかし、「親孝行したい時には親はない」であって、せめて仏壇に線香を上げ、好きだった白桃を供えることぐらいしかできない。
日々、テレビのニュースなどを見ていて思うのは、親子の情愛とはいってもそれが天与のものではなく、親子それぞれの日々の暮らしと付き合いの中から培われていくべきものであるということである。
「丘ふみ」の友情も同じ、かつて同じ町に住み、ただ机を並べたことがある、というだけでは真の句友とは言えるはずもない。君不去さんのように、相手を思い遣る気持ちをもって常に接してくれる会員がいるからこその「丘ふみ」であります。
君不去さん、いつも心から「丘ふみ」を応援してくれてありがとう! 貴女の暖かい心とユーモアにはいつも癒されています。

水音:4月17日
●春をしむ人や榎にかくれけり=蕪村 *ハナビシソウ:希望

※なかなか解釈の難しい句ですが、ものの本によると「榎」は街道の一里塚としてよく植えられた木だそうです。
彼は何故「春を惜しんで」木に隠れたのでしょう? また蕪村は何故、榎に隠れた人を見て「春を惜しんでいる」と思ったのか。 うむむ。よく分かりません。「希望」という名の花菱草は芥子科の黄色い花です。そう言えば砂太先生の誕生日が16日で「山吹」も黄色。「水の音」は芭蕉に由来するのではなく、古池よりも山吹の黄色を選んだ其角=砂太路線を「師系」として、その後に続け!という暗号なのでしょうか? えらい無責任な話しで申し訳ありません。 「まどか歳事記」の連続入選の快挙が水音さんの未来に繋がりますように!!

喋九厘:5月31日
●谺して山ほととぎすほしいまゝ=杉田久女 *タニウツギ:豊麗

※やりましたね! 喋九厘殿! まさに「山ほととぎす」が谺する場所こそ「旅グラファー」に一番ふさわしい場所です。
その山からのアングルで「鉄道写真」をほしいままにして下さい。「久女」は「高浜虚子=ほととぎす」をほしいままにはできなかったけれど、「丘ふみ」は喋九厘さんのほしいままです。「皆勤賞」おめでとうございます。

ひら百合、五六二三斎:6月23日
●指さしてわがものとする崖の百合=橋本美代子 *ヒメサユリ:飾らぬ美

※全く同じ日に「ひら百合」さんと「五六二三斎」さんが誕生しました。
このふたりの人生のどこかに共通項があるのか、どうか? まったく想像もつきませんが、この橋本美代子の句には「強い思い込み」に裏打ちされた揺らがぬ「意志」のようなものを感じました。
そしてお誕生日花のヒメサユリ。ひら百合さんが「百合」なのはすっくと立つことが彼女の天命であり、「飾らぬ美」は五六二三斎殿の良き血統のなせるわざである、ということになるでしょう。

夏海:7月20日
●大正の恋のいろして凌霄花=原田咲子 *ノウゼンカズラ:名誉

※この、なかなか色っぽい「大正ロマン」の句が、夏に生まれた夏海さんには本当にぴったりと、ぐっときますね。「恋」も大正の色をしているならば、貴女の名誉を汚さないノーブルなものとなるのではないでしょうか。
これからも気品のある恋を大いに実践して、そのインテリジェンスの溢れる夏海句の世界がより一層、潤ったものになることを期待してやみません。

香久夜:7月27日
●手に余る仕事に松葉牡丹かな=中村汀女 *マツバボタン:無邪気、可憐

※高校時代はバレー部のキャプテン、あの個性的な面々を統率するのはどれだけ大変なことだったかと想像を逞しくしてしまいます。高校を卒業してからも就職、結婚と、たとえ関わってきたメンバーがその都度変わったとしても、そんな風に「手に余る仕事」をすすんで引き受けてしまうのが香久夜さんの性格ではないかと、わたくし、とても勝手な想像をしてしまいます。
「関西一杯呑もう会」で見せてくれる香久夜さんの素顔が、まことにマツバボタンの花言葉にふさわしいものであることは会長の前鰤さん、会員の久郎兎さん、白髪鴨さん、澄響さんもきっと同意してくれるはずですよ。

久郎兎:8月20日
●てにをはを省き物言ふ残暑かな=戸恒東人 *センニチコウ:変わらぬ愛情、不朽

※変わりませんねえー、兎さんの身の処し方も生き方、「俳句」への関わり方、対し方。 ひとつだけ変わったのが、十七文字を三つに分けなくなったこと、かな。 三段切れも最近あまり見なくなりましたが、やはり「てにをは」は一番省くタイプではないでしょうか? それが俳句への兎さん流の「変わらぬ愛情」なのかもしれないと、最近思うようになりました。

小夜女:9月18日
●消してより秋の灯(あかり)と思ひけり=永井東門居 *ゲンノショウコ:心の強さ

※一番新しい会員さんの小夜女さんですが、ずっと昔に数年、俳句を齧ったことがあったようです。
そうだろうなあ〜、とても初心者とは思えない俳句的な視点を持つ彼女。今後の句がとても楽しみ、慣れてきたらすぐに佳い句を詠んでくれるはず。
秋灯の句は「小夜」の月明かりを連想させる素敵な句ですね。「消してより〜」の下りは逆転の発想による俳句手法のひとつ。「月のいろ雲にかくして小夜女かな」。
ゲンノショウコは「現の証拠」と書きます。「俳句」にとって重要なもののひとつに「リアリティ」があります。
非凡な空想句より、全く平凡な写生句が時として多くの人の心を打つのは、その「リアリティ」の力に拠っています。
「丘ふみ」にも何人か、素晴らしい「リアリティ」の俳人がいますが、きっと小夜女さんもその中のひとりになることでしょう。

資料官:10月29日
●大空に風すこしあるうめもどき=飯田龍太 *ウメモドキ:明朗

※その人柄から多くのファンを持つ飯田龍太の句が資料官殿のお誕生日に当たりました!
資料官殿の人柄の良さも「丘ふみ」ナンバーワン!それは丘ふみ部員のみんなが認めるところ。ある意味では彼が「丘ふみ」をひとつにまとめている、と言っても過言ではありません。C部門の投稿も創刊以来のことで、たくさんの美しい日本の風景写真と出張旅日記は我々を日本中いろんな場所へと案内してくれました。
「大空に風すこしあるうめもどき」は、まるで資料官さんの「全仕事=大空」のうちの「丘ふみ原稿=うめもどき」」のことを詠んでいるようです。
資料官殿、60号全号の「無法投区」に投稿ありがとうございました。貴殿の「出張旅日記シリーズ」に対して「特別功労賞」を授与させていただきます。

葱男:10月30日
●雁や残るものみな美しき=石田波郷 *ニギナタコウジュ:匂い立つ魅力

※「匂い立つ魅力」には笑っちゃいますが、波郷のこの「雁」句は葱句がめざす「俳句の美」のひとつの道標(ケルン)となる句です。「見送る側の美しさ」「残るものの悲しさ」をこれほど絵画的に詠んだ句はそうそうありません。
「雁渡し寄せるものみないとおしき 葱男」。

白髪鴨:11月1日
●野ざらしを心に風のしむ身哉=芭蕉 *サクラタデ:愛くるしい

※きっと白髪鴨さん本人の心に一番しみ込んでゆくのではないか、と思われるこの句。
「風」は一番俳句に詠みたいモチーフでありながら一番「俗」に流れ易い句材でもあります。
さすがに芭蕉翁、品格、風韻、余情、すべてにおいてあますところのない「風」の姿がこの一句にはあります。
俳号の「白髪鴨」、この架空の生き物自体にすでに「品格、風韻、余情」が含まれています。
ひとの心にしみいるような歌を一番に詠めるのはおそらく「白髪鴨」さんだと私は思っています。

前鰤:11月10日
●返り花ひとりになればまたひとつ 中岡毅雄 *ガマ:救護

※今回のC部門についつい許可もなく前鰤さんの詫び状を掲載してしまいました。貴方の本意でないことは分かっていますが、その一文と遅刻俳句の泣き笑いがなんとも暖かい気持ちを私に運んでくれたので、誠に申し訳ない。
前鰤句のペーソスは俳諧味の一ジャンルとして我等市井の凡人、サラリ−マンには涙ものの応援歌でもあります。
小春日和のころ、陽気に誘われて季節はずれに咲く「返り花」。そんな珍しい花もひとりになれば目に止まったりするものだ、というのがお誕生日句の意味ですが、今の前鰤さんにはそんな余裕はなさそうですね!
きっと、際限のない付き合いのよさで毎日仕事に仕事を重ねていることでしょう。仕事で体を壊して、療養俳句の達人にだけはならないよう、逆に「救護」を必要とされないよう気をつけて下さいね。

メゴチ:1月31日
●手袋の左許りになりにける=正岡子規 *ギョリュウバイ:密月

※ちょっとユーモアがあって、あっけらかんとしているところがメゴチさんを彷佛させる句ですね!
肺病で俳病の正岡子規が詠むから一段と俳味があるのでしょう。
メゴチさんは今のところは「釣り病」の御様子で、きっと海の魚達との蜜月を楽しんでおられるのでしょう。

雪絵:2月11日
●まんさくに水激しくて村静か=飯田龍太 *マンサク:神秘、直感

※「才気の夏海」「天為のスマ」「観察眼の水音」「実感の雪絵」、ひそかに私が命名している「丘ふみ」の女流四天王のひとり。一番句歴は浅いのですが、一番俳句に熱心に取り組んでいるのも彼女です。 その直感力と神秘性が思う存分に発揮されれば近い将来にはとても魅力的な雪絵俳句の世界を築くことができるでしょう。 「丘ふみオブザーバー」のメーリングリストには30名ほどの俳人が含まれていますが、一番ファンが多いのが雪絵句であることも事実です。そう言えば、わが砂太先生が一番の雪絵句ファンかもしれません。 (^0^)

スライトリ・マッド:3月25日
●連翹の雨にいちまい戸をあけて=長谷川素逝 *レンギョウ:達せられた希望、情け深い

※不思議ないきさつと縁でいつのまにか私の妹となったスマさん。
それは俳句という幻世の仮寝の夢の中に生まれた血縁なのです。
涌き水のごとく、汲めども尽きることのない生命エネルギーが連翹のエローカラーのオーラで貴女を包んでいるようです。
きっと希望は達成される、そんな強い気配がスマさんには宿っているように思います。
有情の扉を何枚も何枚も開けて、遠く鹿児島の地から毎月素晴らしいエッセーを届けてくれるスマさんには丘ふみ60号360句完全投句という偉業も讃えて「特別功労賞」を贈ります。

澄響:3月30日
●遠ざかる人まだ見えて花大根=高田正子 *ダイコンの花:適応力

※客人を見送る暖かいまなざし、その瞳の奥に光る素直さ、一途さ、信頼感をひそやかに咲いた大根の花に譬えた高田正子の句が澄響さんに贈られました
。 雑詠欄へ、毎月一句のみの投句が、ここ数年間恒例の、彼女の丘ふみへのメッセージです。
そのたった十七文字のプレゼントが彼女の「丘ふみ倶楽部」に対する友情のかたちなのです。ですから彼女の句の半分は作者名を明らかにされぬまま、ひっそりと私のパソコンの無選句の書棚(フォルダ)に眠っています。
私は前鰤さんと澄響さんのふたりの句については一切、句評めいたコメントは述べません。ただ彼等の友情のかたちをその言葉のままを鑑賞するばかりです。
何故なら有季定型旧仮名を基本とするさまざまな俳句のルールが、彼等の友情の證としての投句を妨げる理由とはならないからです。 大根の花言葉:「適応力」とは、人との関わりの中で、その心の交流を決して自らせき止めるようなことをしない、無垢で無防備な心情をよく伝えてくれています。
澄響さん、毎月かかすことなく、貴重な一句の投句をありがとう。
(※みなさんそれぞれのお誕生日句と花と、その花言葉はNHKサービスセンターの「ラジオ深夜便」シリーズの「誕生日の花ときょうの一句」から引用しました。入鈴さん、男剣士さんのお誕生日は結局確定できず、葱鑑賞はなりませんでした、あしからず。)