*「現代俳句の海図」を読む:片山由美子篇

〜麒麟にもアルビノ生るる麦酒かな〜


今、正木ゆう子さんに替わって、「NHK俳句」の選者を担当している片山さん。我々と同級生の昭和27年生まれ。27才から俳句を始め、鷹羽狩行に師事。
画面の印象では(まだテレビに慣れていないのか)ちょっと固くて、生真面目で、どこかの女学校の国語の先生みたいな風貌だが、意外に彼女は大学のピアノ科を卒業した音楽家でもある。
その句姿は私がもっとも好きな性向である、女性的な感性、抒情性と、一方ではインテリジェンスに裏打ちされた哲学性を合わせ持っているように思う。
今回はこのふたつの面をジャンル分けして、片山由美子俳句についてアプローチしてみたいと思う。

*由美子の女性的感性
●海はまだ遠くて雪解川迅る 【雨の歌】
(正木ゆう子には「やがてわが真中を通る雪解川」があるが、片山の場合は少し焦りがあるようだ。彼女の才能がまだ充分に世の中に認められていないころの野心家の作。)
●ひとところゆつくり見せて走馬灯 【水精】
(思わせぶりな表現に自分に対する自信がうかがえる。野心家=自信家である。)
●立春の酢の香ただよふ厨かな 【水精】
(厨だから「酢の香」が漂っていてもおかしくはない。この句が成功したのは季語の斡旋にあるだろう。) ●若鮎に刃のごとき日の光 【水精)
(若い男の裸の上半身を「鮎」に喩えているようにも思える。)
●カステラに沈むナイフや復活祭 【風待月】
(カステラがポルトガル語で、長崎に降り立った宣教師が伝えたものなら、復活祭はやや付き過ぎの感もあるが、中七の「沈むナイフ」がイマジネーションをかき立ててくれる。
●思ふこと雪の速さとなりゆけり 【風待月】
(由美子、渾身の代表作。「雪の速さ」は速いのでも襲いのでもない。次から次へと降って来る「思い」のせつなさ、哀しさなのである。) *由美子の哲学的思考
●てのひらを返しては夜の蟻這はす 【雨の歌】
(気持ち悪いことと気持ち良いことの間には何があるのか、表裏一体の存在の重量がある。それが重たいものでも軽いものでも。)
●数ふるははぐくむに似て手鞠唄 【天弓】
(しだいに増えてゆく数には果てがない。無限なるものを掴むには、あるいは無視するには「瞬間に生きること」意外に方法はない。まだはぐくまれる前の嬰児が時間という概念を知らぬまま手鞠をつづけるように。)
●その下を掃き雪吊の仕上がりぬ 【天弓】
(「美しさ」とはそれ自体ではなく、それになるための心構え、言い換えれば「美」はその輪郭の外郭によって守られている。)
●まだ声に出さざる言葉あたたかし 【天弓】
(声に出してしまうと急激に冷める場合もございますので充分に御注意下さい。)
●聖者には永き死後ありリラの花 【風待月】
(「永き死後」で暗喩されるものは歴史であり、記憶である。)
●降りて来ぬ一羽あらずや夕雲雀 【風待月】
(「メメント・モリ」、常に死を想え!)
●朝ざくら家族の数の卵割り 【風待月】
(家族ひとりひとりも、もとはといえば、柔らかい卵の殻を破ってこの世に生まれてきたのである。)
●柚子咲くや五十の我を父知らず 【風待月】
(父の知らない五十の我は、ある意味では未完成な存在である、と片山は表白している。愛する恋人を失ったような大きな喪失感を埋めるだけの詩は生まれたのだろうか。)