*齋藤愼爾句集「冬の智慧」

五木寛之は隠岐の中沼了三、佐渡の北一輝とともに、裏日本の島が生んだ三異才として、飛島の齋藤愼爾を「孤島のランボー」と呼んだ。 齋藤愼爾:昭和14年京城生まれ。現在、「俳句界」雑詠欄の選者のひとりとして異才を放つ。

「雷帝」「藻の会」所属。
 今回、句集「冬の智慧」に注目したのは、齋藤の、いくつかの特定の単語に対する偏執的なまでの多用に驚かされたからである。
僕らのような俳句初心者が句作の時にまず最初に指導を受けることは多作多捨、とにかくどんな季語でもとりあえずは選ばずに一通り詠んでみるのがいい、ということだろう。
ところが驚くことに齋藤愼爾はこの句集「冬の智慧」においてはほとんど四つの単語(季語)を執拗に繰り返し詠んでいる。
その言葉はまず第一に「母」の化身としての「蛍」。第二に「父」の化身としての「蝉(蜩を含む)」。
第三には自身の象徴としての「少年」と「蝶」、最後に家族全員(父母、祖父母、姉妹、弟)の象徴としての「雛」である。
全326句が集められたこの句集において、実に「母:蛍」の単語が詠まれた句は48句。「父:蝉」が詠まれた句が44句。「蝶:少年」が32句。「雛:家族」の句は28句ある。(のべにすると152句、およそ半数のの句がこれらの単語を使用していることになる。)
このような、特定の単語に対する偏愛には、そうとしか詠めない作者の特異な精神性が伺われる。
作句法としての善し悪しを超えた彼の「そうとしか詠めない」天性の宿命のようなものである。
彼は上手い俳句を詠もうとしている訳でも、作為的にテーマとしてしてそれらの季語を選んだ訳でもない。
それは紛れも無く、天上の家族から啓示のように降りてきた言霊(ロゴス)であったのだ、としか解釈しようのないものである。

【蛍】
老蛍満月に身を磨滅して
生家燃ゆ眉間の蛍消えしより
一糸まとわず草蛍の濡れてあり
てのひらを淵とし蛍吹雪かな
蛍火に月光という鉄格子
蛍火もて蛍の闇を測るかな

【蝉】
父の忌の空蝉母の忌の蛍
快楽のあとくらくなる空蝉よ

【雛】
月光のたてがみが見ゆ雛納
裏山の日暮が見えて雛祭
身の内の緋色に雛の間を出ずる
雛の間に拾う白髪われのもの
雛の間というすさまじき真闇あり

【蝶】
谷越えるまで夏蝶の待ち時間
はじめから烟りでありし冬の蝶
髪白くなるまでわれを追う蝶よ
蝶の意のままに墓石ねは殖えるかな
飲食のさみしきさまを蝶の舌