*身世打鈴/カン・キドン

〜恨・怨・韓パンパッチョリのちやつきらこ〜


カン・キドンさんの「キ」の字はパソコン(私のMacでは)では変換できない。したがって、このようにカタカナ表記で彼の名を記すことになる。 (ちなみに姜「キ」東さんの「キ:王偏に其」の字の字義を「漢語林」で調べてみると、「美玉の名」とあった。)

●鳥雲にアリランコゲを想ひけり

この句の「コゲ」も漢字変換できない。
「山偏に見」で「峠」という意味だと思われる。(同じく「漢語林」では字義としては「湖北省の南にある山の名」とある。)
歌手の新井英一(和名だが)は、1996年、「清河への道」が日本レコード大賞「アルバム大賞」を受賞した。 そして彼はパンパッチョリ(半日本人、半朝鮮人)としてアリラン峠の歌をカーネギーホールの舞台に立って唱った。
姜さんから新井氏へのお祝の一句。

●冬虹や俺のアリランコゲをゆく

姜さんは現在、(株)「文學の森」の代表として、月刊誌「俳句界」の出版をはじめ、「俳句文学」にかかわる出版事業に意欲的に取り組んでおられる。
そこに辿り着くまでの彼の実業家としての艱難辛苦、波乱万丈の人生の軌跡は、おそらく中西和久君が率いる京楽座公演「WE・アウトロー/望郷篇」の舞台にドラマチックに描かれていることだろう。

●マスクの眼韓人同士すぐわかる
●霾や「在日」てふ語のざらざらす
●藁塚に拳突つ込み故郷なし
●永住権貰ひにゆくや河豚食ひて

これらの句を俳句と言ってよいものかどうか、御自身が、これは俳句ではない、パンパッチョリの生きて来た証である、というような意味の事を句集のあとがきに述懷している。
日本人ではない、「在日」としての作者が、その思いを日本語で書き、表現すること自体に最初からどうにもならぬ捩れが存在する。
だからそれは俳句というよりも「唄」や「叫び」に近いものかもしれない。
ところで、私の大好きな画家に松村光秀という一風変わった絵を描く人がいる。
彼の「姿」という作品集に、「身勢打鈴」という一連のシリーズがあり、かねてからその独自の世界観、絵画表現に強く惹かれていたのだが、今回、姜さんの「身世打鈴」に松村氏の絵を共演させてみたくなった。
句の解説はなくとも、おのずと彼の絵がカン・キドン俳句の本質を語ってくれるだろう。

水汲みに出て月拝むチマの母

チョゴリ着て羞ぢらふ妻や冬薔薇

●孫生れなば伽耶と名づけむ花槿 
●花ならばてうせんあさがほの毒となれ

●ちちははの超えし海峡薔薇を投ぐ 
●夕焼けや「アボジ」「オモニ」と呼んでみる

●哀号」と口癖の母餅焦げても
●賀客来てチョゴリの母は隠れけり

●東京が好きで越冬つばめかな
●月おぼろ李朝の碗に酒そそぐ

句:「カン・キドン」氏・句集『身世打鈴』より〜
絵:「まつむら光秀」氏・作品集『姿』より〜