*【さらば八月のうた】  原作 マキノノゾミ  脚色 中島葱男


〜いざさらば八月そして仲間たち〜

■2010年8月

ここは横浜にある、とあるラジオ局。いましも音楽番組の収録が行なわれているところである。
時は現在、2010年の8月。テンポのよい、気の合ったふたりの会話がはずむ。もう長い間コンビをつづけているのは「神崎カオル」と「柴田睦朗」。それもそのはず、カオルはもう26年間もこの番組の看板DJを続けている。学生の頃からバイトで始めた仕事だから、さすがにもう若いとは言えない。柴田とも、20年以上の付き合いである。
この四半世紀、ふたりは良きパートナーとしてずっと番組を続けてきた。息もぴったり、ふたりはまるで家族のようでもあり、どんなことでも話せる親友でもあった。少なくともカオルはそう感じていた。
しかし柴田の気持ちは少しだけ違っていた。柴田にとってカオルはずっと憧れ続けてきた先輩DJであり、良き仕事仲間であり、同志のような存在であった。と同時に(5年前に最愛の妻を亡くし、一人身となった柴田にとって)、今やカオルの存在はそれ以上に必要不可欠なもの、当たり前のようにずっと愛し続けて来たひとりの女性でもあった。

今日の「街かど中継」は横浜埠頭に停泊する豪華客船からである。
その船には長い長い歴史があった。 
戦前にはサンフランシスコと横浜間を就航し、多くの日本人をアメリカへ運んだ。戦時中には慰問団を戦地に運んだり、傷病兵を帰還させる「病院船」として銃後を守った。戦争が終わっても十数年の旅客船時代があった。港に錨を下ろしてからは、豪華レストランやカフェ、ライブステージを併設する、横浜名物のアミューズメントスポットとして新しく生まれ変わり、今に至っている。

一世紀にもわたる船の歴史を間近で見つづけてきた男がいた。「矢代良一」という有名な作曲家が今夜のゲストである。

現場ではリポーターの竹本チナミが矢代にインタビューをこころみていた。しかし、あまりにも高齢のため、矢代の話す言葉は全く不明瞭で要領を得ない。そばに付き添っている弟子の女性演歌歌手がなんとか通訳をしようとするのだが、彼女にも彼が何を言おうとしているのか分からない。「ときどきこんなふうになることがあるんです。」、そう言われても困る。これではとても放送にならない。そのうちに矢代は力が尽きたかようにがっくりとうなだれてしまった。
このままでは放送事故にもなりかねない。万策つきたチナミは一旦マイクを、スタジオに返すことにした。
放送にはハプニングがつきものである。こんなことは毎回のことである。カオルと柴田はあわてることなく放送をつづける。
船内にはふたりの楽しい会話と懐かしい音楽が流れている。

***********

甲板の丸テーブルに、昼過ぎからずっと腰掛けているグループがあった。
白髪の老婦人、シズ江とふたりの老紳士。
ひとりは吊りズボンを履いて眼鏡をかけている。ソフト帽をかぶったスーツ姿の男のほうはどうやら左足が悪いようで杖をついている。三人は誰か人を待っているような様子である。
シズ江は待ち合わせにあらわれない人物のことを随分、気にかけているようだった。
約束の時間を3時間も過ぎているのだから、来ないと思ってあきらめるのが普通だろう。それでもシズ江は待つことを諦めようとしない。なにしろ好きな男との一年ぶりの再会なのだ。

シズ江は戦後もずっと独身で、ずっと看護婦の仕事を続けてきた。結婚はしなかった。病院船ではじめて会ったときから、彼女は盲目の松岡少尉のことがずっと好きだった。
「八月会」と名付けられたそのグループは、船がレストランに様変わりしてから毎年、こうしてこの船に集まった。彼女にとって「八月会」は夏に恒例の一大行事なのであった。
しかし、集まるメンバーの高齢化は避けようもなく、参加者の数は一年、また一年と減っていった。去年はついに4人だけになった。シズ江とふたりの老紳士と松岡少尉、彼等は敗戦の年、偶然この船に乗り合わせ、苦楽をともにしながら一緒に日本へと引き上げてきた傷病兵や看護婦たちのグループなのであった。
彼等「八月会」のメンバーは一年に一度、ここに集まっては旧交を暖め、互いの無事をよろこび合い、互いの健康を祈ってはまた別れた。
会の最後に、みんながそろって歌う歌があった。それは戦地から引き上げる船の中で、「宮下そら子」という人気漫才師が彼等に聴かせてくれた思い出の歌である。

〜いざ さらば ふるさとの山よ 川よ せせらぎよ♪〜

今夜はまだ「別れのうた」を歌っていない。シズ江は松岡に連絡をとるよう、なんども白髪の紳士に催促してみた。しかし、ふたりの老紳士は曖昧な態度をくり返すばかりだった。
レストランはあと10分で閉店である。ウエイトレスがそう伝えにきたとき、シズ江はもう10分待たせてくださいと、ウエイトレスに頼んだ。 松岡の元気な顔をみるまでは帰れないと思った。
と、その時、意を決したように、杖の老人が席を立ち上がった。眼鏡の老人が押しとどめようしたが、すぐに諦めた。杖の老人は万感極まったように息を詰まらせながら、ゆっくりと事の真実を話しはじめた。

松岡は去年の冬から肺癌にかかり、闘病生活をつづけていたのだった。松岡はそのことをシズ江には伏せておいてほしいと、戦友たちに頼んでいた。入院後も松岡は最後の最後まで「八月会」に出席するつもりでいた。しかし、彼の思いも空しく今朝、家族から連絡が入った。松岡は、ともに戦って敗れた、多くの英霊たちの列に新たに加わったのである。


■2010年8月 その翌日

翌日、仕事を終えた柴田は珍しくカオルを食事に誘った。昨日番組で中継した船上レストランだ。
カオルには予感があった。どうもこの数カ月、柴田の様子がおかしい。案の定、柴田はいつになく真剣な表情でカオルに話をきりだした。

「『ラジオの神様』って本当にいると思う?」
柴田は高校の修学旅行で、はじめてこの船に遊びにきた時のことをカオルに話した。
同じように修学旅行で横浜に来ていた、地方の女子高生に柴田は一目惚れしたのだった。
柴田の友人達は策をひねって、女子高生と柴田を引き合わせようとした。よくある筋書きである。まず友人達が彼女に話し掛ける。見ず知らずの学生にからかわれて困っているところへ、偶然通りがかったようにして柴田が現われる。その場をうまくとりなした彼を見て、女子高生は安心する、そして彼に心を開く、という単純な計画だった。柴田はその女子高生に感謝され、彼女と話をすることができるだろう。
ところがこれが大失敗、友人達が彼女をからかっている時、間の悪いことに地元の不良高校生たちがふらりと現われて、柴田の友人達とにらみ合いになってしまったのだ。
物陰から見ていただけの柴田は結局、彼女と話しをするきっかけをつかめず、彼女は彼女で、嫌な思いをしただけで何も良い思い出は残らなかったに違いない。。

柴田は修学旅行から帰ったあともその時のことがずっと気になっていた。
そしてある夜、意を決して、さる若者向けのラジオ番組に投稿することにしたのである。
横浜の船上レストランでの出来事を柴田は葉書に綴った。そして、もし万が一、その時の彼女が放送を聴いているなら謝りたいと書いた。
ラジオノ神様は時々信じられないような演出をすることがある。女子高生は偶然にもその番組を聴いていたのである。彼女は柴田の話を聞いて驚いた。奇蹟がおこったのだ。
「僕達はやがて文通をはじめた。大学にすすんでからは、何度か此処でデートをした。社会人になって、僕は彼女にプロポーズをした。そしてこの船で結婚式をあげることにしたんだ。 ね、『ラジオの神様』って本当にいるだろう? その女子高生が5年前に亡くなった僕の奥さんです。」

カオルにはある予感があった。最近、変に柴田の態度が優しいのだ。それに、柴田が亡くなった奥さんとのいきさつを詳しく彼女に話すのは今日がはじめてだった。
「ねえ、なぜこんなところにわざわざ私を呼び出したの?」
カオルは柴田に訊ねた。
柴田は黙ったまま、八月の星空を見上げていた。
「番組、打切りになるの?」
「・・・分かっちゃった?」
「分かるわよお〜! そんなことぐらい・・・。一体何年あんたと付き合っていると思ってるのよ。」
「だからどうしても此の場所で話をしたかったんだ。 カオル・・・ 僕と一緒になってくれないかな?」


■1932年8月

ここはサンフランシスコから横浜へ帰国する船の上。夏の月の夜。矢代が率いる混成合唱団は無事にアメリカ公演を終えて日本への帰途についていた。合掌団のメンバーのひとり「宮下そら子」が仲のよい友人「カナ子」に打ち明け話をはじめる。
「この楽譜、先生が私だけに、って作ってくれた曲なのよ。私、帰国したら先生と結婚するかもしれない。 カナ子、結婚式にはきっと出席してね!」

すべての物語がここから、この船の甲板から始まったのだ。

先生と呼ばれているのは若き作曲家「矢代良一」その人である。
カナ子はそら子の話を聞いて驚いた。実は彼女も以前、矢代と付き合っていてことがあり、別れの際に、そら子と同じように曲をプレゼントされたことがあったのだ。矢代には音楽の才能があり、若さがあり、とても精力的で魅力的な人間だったが、と同時に女好きで浮気症な、恋多き色男だった。
「そら子ちゃん、それはあまり期待しないほうがいいかもしれないわよ。先生は女と別れるときに、決まって自作の曲をプレゼントするらしいから。」
カナ子はそう言うとそら子をひとり甲板に残して自分の部屋に戻っていった。そら子ははじめて聞く友人の話に大いに戸惑っていた。
「本当に先生は、カナ子が言っていたようなひどい男なんだろうか?」
彼女がひとり物思いに耽っているとき、甲板に当の御本人、矢代良一がうら若き女性の手を引いて現われた。そら子は咄嗟にデッキの階段の影に身をひそめた。

女は、桑港にも支店を出す、大手銀行の頭取の娘だった。矢代は彼女に夜ばいをかけて、彼女を恋の虜にしようと目論んでいるのだった。
娘は言った。
「こんな風に私と逢い引きしているところを誰かに見られたら、先生には都合の悪い女性が他に居るんじゃありません?」
「何を馬鹿なことを!」矢代は言った。「それより、モモエさん、ちょっと眼をつぶってみて下さい。貴女にプレゼントしたいものがあるのです。」
矢代はうら若き頭取の娘、「桜島モモエ」に婚約指輪を差し出した。

とそのとき、背後にうつるそら子の影〜。
矢代はあわててモモエを説得し、あとで部屋を訪れるから鍵を開けておくように言い添えて彼女を自分の部屋に帰した。

汗を拭きながら矢代が弁解した。
「なんだい君、とんだところを見られてしまったなあ。 すまん、許してくれ。君の気持ちはよく分かる。しかし、君が僕を愛してくれるなら、そして僕の音楽の才能を愛してくれるならどうか理解してほしい。僕には今、お金が必要なんだ。僕の才能を買ってくれるパトロンが必要なんだ。申し訳ないけど君にはお金がない。しかし、彼女のお父さんは大金持ちなんだ。 そら子さん、どうか分ってほしい、分ってくれるね!」

そら子はなにも言わなかった。そしてなにも分からなかった。

物陰から突然セーラー服を身に纏ったひとりの若い男が飛び出してきた。男はやにわに矢代をなぐりつけると肩で息をしながら叫んだ。
「話はさっきから端で聞かせてもらった。 どうにもこうにもひどい話があったもんだ。 どこの誰だかは知らないが、お前みたいな男は人間じゃねえ!」
不意をつかれた矢代は大いに面喰らった。
「君はこの船の船員か? 船員が客を殴るとは一体なにごとだ、このことはあとで船長に報告させてもらうぞ!」
捨てセリフを残して矢代はそそくさとその場を立ち去った。

船員は「幾太郎」と名乗った。船の甲板が彼の仕事場だった。
そら子は、突然のできごとに混乱し、絶望のあまり海に身を投げようした。幾太郎はそら子を後から羽交い締めにしてとめた。
「離してください! どうか私の好きにさせてください!」 
彼女がどうしても言うことを聞かないとみると、今度は幾太郎が、「分かりました、それなら自分も一緒に死にましょう」と言い出した。
「ひとりで死ぬのは寂しいでしょう。実は私も失恋をしたばかりなのです。この先、生きていたって詮の無い身です。 実は先日、故郷の言い名づけから手紙が届いたのです。彼女は長い航海を続けている私を見限って、待つことに疲れたのでしょう、新しい男と一緒になると手紙に書いてよこしました。」

今度はそら子が幾太郎をとめる番だった。
「まだ若い身空で死にたいだなんて、もっと自分を大切にして下さい。」
ふたりはともに抱き合ってその場に泣き崩れた。夏の月がふたりを見守るように青く静かに光り輝いていた。
そのとき、そら子はお腹の中に、矢代の子を妊っていた。

不思議な運命の糸で三人は結ばれていた。
11年後、そら子、幾太郎夫婦は同じこの船の上で、偶然にも矢代との再会を果たすことになる。


■2009年8月

(カオルは26年間の月日を思い返していた。 ラジオが、そして26年続けてきた自分の番組が彼女の青春のすべてだった。 多くの人に出会い、多くの人と仕事をともにし、多くのリスナーに支えられ、苦しいことも楽しいこともたくさんの経験をしてきた。忘れられない素敵な思い出がいっぱいあった。 そして心残りなできごともいくつかあった。 番組が打切りになると知ってからはより一層そのことが気にかかった。)

リクエストの葉書の中にリスナーからのこんな問い合わせがあった。
「どうしても聞きたい曲があります。その曲は誰が歌っているのか、誰が作った曲なのか、タイトルもなにも分かりません。ただ、いつのまにか私の心にしのび込んでいて、どうしても消えない美しい曲なのです。確か、こんな歌詞でした。」

〜いざ さらば ふるさとの山よ 川よ せせらぎよ〜♪
〜忘れない 今も 心の中に くりかえし よみがえる〜♪
〜さらば ともがらよ 父よ 母よ 恋人よ〜♪

「誰が歌った歌なのか、曲名が分ったら教えて下さい。そしてもしできることならレコードをかけて下さい。」

カオルはその曲をよく知っていた。子供のころから耳に馴染んできた歌だった。ただ、カオルにも曲のタイトルは分からなかった。誰が歌った歌なのかも分からない。けれどきっと有名な曲に違いない、カオルはそう思った。
「××さん、分かりました。私もその曲を良く知っています。放送中にレコードを探してみますね! きっと見つかりますよ、約束します、番組の威信にかけても。(笑)」

しかし、スタッフが総力を上げていくら資料を掘り返してみても、心当たりの曲は見当たらなかった。柴田に聞いても全く知らない、聴いたことがないと言う。不思議な話だ。私はこの歌をよく知っている。そうだ、子供のころ、高知のお爺ちゃんがいつもそばで歌ってくれた。カオルの両親はまだカオルが幼いころに亡くなっていた。室戸颱風が高知に上陸した日のことである。家は雨に流され、ふたりは小さなカオルを板の上に乗せ、かばうような恰好で死んでいたそうだ。あとでおじいちゃんから聞かされた話である。おじいちゃんはカオルの両親の話をするとき、決まってこの歌を歌った。
誰も知らないなんて・・・。

高知にはたくさんの友人がいた。
カオルの番組を一番に支えてくれたのは故郷のたくさんの知人、友人、同級生たちだった。
そう言えばヨシエはどうしているだろう? カオルは思った。 カオルは、20年も前につまらないことで喧嘩をして、それっきり音信不通になってしまったひとりの同級生のことを思い出していた。彼女はカオルの番組のとても熱心なリスナーでもあった。ヨシエにはひどいことをしてしまった。あれからもう20年の月日が流れたのだ。


■1990年8月

DJを始めてやっと6年が過ぎたころ。
だんだんラジオというものが分かりかけてきて、その分、勉強しなければならないこともたくさん出て来たころだった。
日々のスケジュールと仕事に追われ、人には相談できないようなややこしい恋愛に追われ、独身の女がひとり都会で生活していくことに疲れを感じたとき、いつも励ましてくれたのがふるさとの友人や同級生だった。ヨシエは毎週のように番組に葉書を書いてよこした。「苺のアップリケ」という信じられないペンネームにハートマークがいっぱいの文字。中学生でもあるまいし、いい歳をした大人の女が書く文章とも思えなかったが、中学のころとちっとも変わらないヨシエをカオリは羨ましくも思った。
ヨシエは高校卒業後も故郷にとどまって、地元の酒屋の息子と結婚をしていた。ふたりのかわいい男の子にも恵まれていた。実はふたりめの子供の名付け親はカオル自身だったのだ。
というよりも葉書にそんな主旨のことが書いてあったので、軽い気持ちで冗談でつけた名前だった。「苺のアップリケ」だから「イチゴロウ」。まさか、本当に命名するとは思っていなかった。しかし、ヨシエは自分に二人めの男の子が生まれたとき、同級生のディスクジョッキ−が考えてくれた「イチゴロウ」という名前を息子につけた。しかも長男の名が「イチロウ」だというのに、である。これには驚いたが、それはカオルのせいではない。

ヨシエから電話があったのは、彼女が友人の結婚式でたまたま横浜に出て来たときだった。同級生でもあり、大切なリスナーでもある彼女の誘いを無碍に断るわけにはいかなかった。
待ち合わせの場所にヨシエはまるで「おのぼりさん」のような田舎者丸出しの恰好であらわれた。そして会った途端に生っ粋の高知弁で喋りまくった。都会で働く独身の女に対する妙な憧れと嫉妬。ラジオという「華やかな世界」に住む同級生に対する羨望。それに比べて自分の生活にはなにも面白いことがない、田舎の専業主婦の毎日はつまらないと彼女は言った。仕事で少し疲れていたカオルにはうんざりする話ばかりだった。
こんな、センスのない女の話相手ばかりしていられないとカオルは思った。
「あなたのほうこそ羨ましいわ、働き者の旦那様がいて、ふたりの可愛いお子さんにも恵まれて。」
しかしヨシエは、今、家の中に大きなトラブルを抱えこんでいた。 旦那の浮気である。
「あなたみたいにまったく別世界の、華やかな場所で生活している独身の女に、私の気持ちなんか分かるもんですか!」
そうなれば売り言葉に買い言葉である。 カオルにだって人に言えない辛いことは山ほどある。
「えーそうよ、私はあなたみたいな田舎者とは違いますからあなたの気持ちなんて全く分かりません、大体なによ、そのセンス!」カオルはフリルのついた白いブラウスとヒダの大きなフレアスカートを上から下まで舐めるようにして眺めた。
「分かりました、もうあなたには何の話もしたくありません、金輪際あなたを友達とは思いません、ラジオも聴きません!!」
「どうぞ御自由に!、何もあなたひとりが私のリスナーではありませんから!」
それでも別れ際、カオルは番組のステッカーと備品をヨシエに手渡した。
「言っておくけれど、これはあなたに上げるんじゃないわよ、イチロウ君とイチゴロウ君に上げるのよ!!」

考えれば大人気ない話だった。疲れていたせいだ、とカオルは思った。そんなことがあってから、番組への「苺のアップリケ」さんからの葉書はぷっつりと途絶えた。


■1943年8月

吹奏楽団、人気の落語家と漫才師、芸人たちを乗せた一隻の船が南方の島へ向かっていた。
戦争前には遠く、ハワイ、サンフランシスコまで就航していた豪華客船も、時代の渦に翻弄され、大きな戦争の中に巻き込まれていった。
慰問団のメンバーの中に、矢代良一と宮下そら子の名前があった。
矢代はみずからが率いる吹奏楽団の団長として慰問団に参加していた。
そら子は幾太郎と結婚をし、その後、ひょんなことから漫才師として芸の道に進んでいた。そら子・幾太郎の夫婦漫才は浅草でも大変な評判をとっていた。破天荒で底抜けに明るいそら子と、生真面目で頑固一徹の幾太郎のコンビは笑いに飢えた大衆の人気をさらった。今ではふたりは、ダイ吉・コウメをはじめ、何人かの弟子をかかえる、漫才界の大御所になっていた。

同じこの船で別れてから11年、三人は偶然にも戦地慰問団の一員として不思議な再会を果たしたのだった。

矢代のプレイボーイぶりは楽団員の間ですこぶる評判になっていた。彼は旅先で出会った女性たちとの間に数々の浮き名を流していた。
「団長のいつもの悪い虫がまた出たな。」団員たちは囃し立てた。
そんなおかしな噂を聞いて、ダイ吉・コウメのふたりは幾太郎師匠のことがとても心配になった。というのも、そら子師匠の破天荒ぶりにはこれまでにもいくどとなく悩まされてきた経験があった。
幾太郎師匠が彼女にふりまわされるところを、ふたりははたから見てよく知っていたのだ。

しかし、今度ばかりは少し様子が違うようだった。矢代とそら子は昔、本当の恋人同士だった。つまり、焼け木杭に火がついたのである。どうやら、今回ばかりは矢代も本気のようである。
「きっぱりと今の妻とは別れますから、どうか、私とそら子を一緒にさせて下さい。」矢代は幾太郎にそう言って頭を下げた。
そら子は泣いて幾太郎に懇願した。どうか息子のキイチロウを私から奪わないでほしいと。幾太郎は彼女の純粋な気持ちを汲んで、キイチロウの親権をそら子にゆずる決心をした。
考えてみれば、もともとキイチロウの本当の父親は矢代なのだ。
人の良い幾太郎はすべてを受け入れることにしたのだ。

矢代とそら子は兵隊さんたちに楽しんでもらえるように、ステージの舞台構成についていろいろと話し合いをした。11年前、矢代がそら子のために作った曲に彼女自身が歌詞をつけ、それをふるさとを思う戦地の兵隊さんたちに捧げる歌とした。
南の島へと向かう船の舞台の上でも、歌を歌った。ガラッパチのそら子ではあったが、その声はとても清らかに澄んでいて、兵士達の心には懐かしい故郷の景色が浮かんだ。

ところが話は思わぬ方向へと進む。
戦地から戦地へ移動する船に或る日、矢代宛てに一通の電報が届いた。それは、結婚して10年来、子宝を授からなかった矢代の妻からの報せだった。医者から懐妊の事実を告げられたというのだ。
晴天の霹靂とはこの事である。
「自分の子供を妊ったばかりの妻に、どうして今、離婚を迫ることができるだろう?」
矢代は昨日までの決意とは裏腹に、前言をひるがえしてそら子との結婚話を白紙に戻したのである。
そら子はまたしても矢代に裏切られたのだ。
しかし心のどこかでそら子は、自分と矢代のことをひとごとのようにあざ笑っていたのである。
これ以上、幾太郎に迷惑をかける訳にはいかない、幾太郎の優しさに甘える訳にはいかない、そら子は思った。これからはキイチロウとふたりだけで生きていこう、そら子は心に誓ったのである。


■1945年8月

離婚してからもそら子と幾太郎はふたりの漫才コンビを解消しようとしなかった。 慰問団としての戦地公演は今も続いていた。 お国からの要請というよりも、ふたりは自分たちがみずから志願して戦地に赴いた。
そら子はこの3年間、いくつもの南の島で、また、大陸の凍土の上で命がけで漫才をし、命がけで歌を歌ってきた。そうしなければ、命がけでたたかっている兵隊さん達に申し訳がない、という気持ちがあった。 けれども大平洋をめぐる過酷な旅の中で、そら子の体はしだいに蝕まれていったのである。
ふたりは今、みたび、この船に乗り合わせていた。
長く厳しい公演を終え、戦地から帰国することにしたふたりに、幸運にも乗船許可が下りたのである。
船には多くの傷病兵と、彼等を手当てする看護婦の一団と、数人の軍人が乗り合わせていた。

病院船の背後には乗組員を監視するかのように、敵の潜水艦がずっとあとをついていた。
戦場で深く傷付いた兵士達は、それでも日本へ無事帰国できるという安心感と、手厚く看護してくれる看護婦たちによって、すこしずつ笑顔を取り戻してゆくのだった。

傷病兵の中に、すらっと背筋が伸びてひときわ背の高い男がいた。松岡少尉である。彼は爆風に焼かれて両目を失っていた。看護婦のシヅ江は松岡の手足となって、毎日つきっきりで介護をした。
松岡は多くの部下から厚い信頼を得ている様子だった。意志のつよさと物腰の柔らかさ、礼儀正しい言葉遣い。部下を統率する上官としての資質を彼は全部具えていた。彼のまわりにはいつも彼を慕う兵隊たちがたくさん集まって来た。シヅ江は盲目の松岡の「眼」になりたいとひそかに思った。

とある夜のこと、司令部からの通達があった。非常事態宣言である。 
実はこの病院船には国際法上、ルール違反となる兵器が積み込まれていたのである。もし敵の視察が強制的に行なわれた、その事実が発覚するようなことが起これば大変なことになる。 司令部はもしもの時にそなえて、船と命をともにする覚悟の志願兵を募ることにした。
船は敵の視察団に兵器を発見される前に自沈する。司令部、船長はもとより、傷病兵の中に覚悟の殉死を志願するものを募り、名簿を提出させることになった。 
まず、松岡が最初に志願した。彼を尊敬する兵士達も相次いで志願することを決めた。その時、みずからの命を捧げてこの船と運命を共にしたいと申し出たふたりの女性がいた。 そら子とシヅ江である。
松岡は彼女達の申し出に深い感謝の気持ちを抱くが、民間人を巻き込むことようなことは決してあってはならないと胆に命じていた。

松岡はこの甲板で漫才をしして見せてくれるよう、そら子に頼んだ。今、この船上にいるものは、芸人も兵隊も看護婦も関係ない、国を思い、家族を思う気持ちにはどんな違いもないと松岡は思った。 のちに「八月会」を結成する仲間達がここに集まっていた。
「病院船」に偶然乗り合わせた人達には不思議な一体感が生まれていた。

そら子は健康のバランスを失っていた。公演の過密スケジュールと現地での猛烈な暑さ、寒さが彼女を襲った。いつ敵の奇襲があるかもしれないという不安を解消するため、また、積み重なる疲労を回復させる手段として彼女はついにヒロポンに手を出してしまったのだ。今では舞台に上がる前に薬を服用する習慣が身についていた。体はボロボロだったが、不思議とその、高く澄んだ声だけは変わることがなかった。

「兵隊さんたちに下手な芸は見せられへんねん。」
そら子は幾太郎に耳打ちをして薬をもらった。
甲板の上で一夜限りの舞台公演が始まった。
ふたりの漫才は生きている人間の喜びとエネルギーがいっぱいに溢れていた。みんなの笑い声が夏の夜空に無限に広がっていった。
最後にそら子は歌を歌った。

〜いざ さらば ふるさとの山よ 川よ せせらぎよ〜♪
〜忘れない 今も 心の中に くりかえし よみがえる〜♪
〜さらば ともがらよ 父よ 母よ 恋人よ〜♪

それがそら子の絶唱となった。


■2010年 番組収録最後の日

番組のスタッフとカオルは最後に賭けをした。 カオルは本番中には絶対に泣かないと決めていた。柴田や番組ディレクターはなんとかして最後に、彼女の涙を見たいと思った。打ち上げ会場となる三ツ星レストランの勘定を賭けて、ふたりは番組中にカオルを泣かせようといろんなプランを練った。
柴田は謎の曲の真実を探るために、カオルの父、祖父、祖母のことを調べた。 最終録音までには是が非でも謎の歌の秘密をあかし、それを番組最終回のはなむけにしたかった。 柴田の執念は「ラジオの神様」にも届いたようであった。先日、岡山の放送局から連絡が入り、地元のスタッフが「幾太郎・そら子」の弟子だった、という人物をついに探り当てたのだ。
彼等は今、JR岡山駅前にある老舗の菓子店で「もみぢ饅頭」を商いしていた。当時の芸名を「ダイ吉.コユキ」と言った。
ふたりは「そら子、幾太郎、矢代」の三人の不思議な出会いと別れ、彼等の運命的な喜悲劇を身近な場所でつぶさに見て来た。
「別れのうた」はカオルの実の祖父、矢代良一が作曲し、恋人だった宮下そら子にプレゼントしたものである。 
大平洋戦争のさなか、そら子は、その曲に詞をつけ、ふるさと日本の風景と家族の心を綴って、外地で戦う兵隊さんに贈った。
そら子はその歌を戦地でも歌った。戦下の南の島々で、大陸の凍える寒さの中で、戦地慰問団の一員として兵隊さんに向けて歌った。
戦争が終わっても、多くの帰還兵が歌を口ずさんだ。「別れのうた」は多くの兵士たちのこころに深くしみ込んでいたのだ。
矢代は「別れのうた」をレコード化することを思いつき、ひとりでひっそりと暮らす幾太郎のところへ相談しに行った。
歌い手には渡辺はま子や美空ひばりの名前が上がっていた。「そら子の供養にもなるだろう、悪い話ではない」と、ダイ吉も賛成して師匠に歌のレコード化を進言した。
けれども幾太郎はつぶやくように矢代に話したという。
「好きなようにしたらよろしい。けれどもあの歌を歌えるのはそら子だけだ、私は今でもそう思っております。」

結局「別れのうた」がレコード化され、世に出ることはなかったのである。 
あれからもう、50年の月日が流れていた。 
歌は末期を迎えた人の吐息のように、甘く、切なく、かすれながらどこか遠くの空へ消えようとしていた。

26年間続いたカオルの番組収録も、残りあと3分を切っていた。 柴田はリスナーに対するラストメッセージを彼女の手ににゆだねた。
「みなさん長い間、私と私の番組を応援してくれて本当にありがとうございました。今はどんなお礼の言葉も見つかりません。そのかわりにみなさんに歌を贈りたいと思います。私の祖母と祖父がふたりで作った歌です。」
カオルは幼いころにおぼえた「別れのうた」を歌った。 美しい歌詞とメロディがスタジオ中に響いた。彼女は溢れそうになる涙をかろうじてこらえた。
壁に目をやると、見慣れたはずの「ON AIR」の赤いランプがぷっつりと消えた。

「はい! お疲れさまでした! みなさんどうもありがとうございました! カオルさん! 実は珍しいお客さんがわざわざ高知から来てくれています。」
無事収録を終えて、番組ディレクターがカオルに声をかける。
薔薇の花束を抱えて、ひとりのうら若き青年がおずおずとスタジオに入って来た。
高知? カオルの頭の中にいろんな思いが一挙に涌き出でてきて、彼女を一層混乱させる。
「お名前は?」青年を見てカオリが訊ねた。
「イチゴロウと申します。」

彼女の頭のスクリーンにいっぱいフリルのついた白いブラウスの女の顔が浮かぶ。
「えっ? で、イチゴロウ君はいくつになったの?」
「25です。」
「そう、もう25歳になるの・・・。で、お母さんはどうしてらっしゃるの? お元気?」
「母は今、市内の病院に入院しています。」
また、彼女の脳みそが混乱し始めた。もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「残念ながら、自分ではどうしても此処に来られないので、代わりに僕がお祝いに来ました。」
カオルは少し狼狽しながらイチゴロウに訊ねた
。 「で、お母さんはどこがお悪いの?」
「実は・・・ギックリ腰をやっちゃって・・・」
〈ギックリ腰!〉 スタジオにいた全員がびっくりした表情を見せた。
「年に一度の相撲大会で・・・」
はずかしそうにイチゴロウが言った。

みんなが笑った。みんなの顔が安堵の表情に変わった。

「お母さんはこの26年間、一度もこの番組を聞き逃さずに、毎週聞いていたんだって。」息子のかわり柴田がに言った。

カオルの泣き笑いの顔を見て、イチゴロウが笑った。番組ディレクターも柴田も笑った。
「本当にお疲れさまでした!」
「本当にお疲れさま・・・。でもこれは本番中じゃないから賭けは私の勝ちだよ。」

カオルは柴田のプロポーズを受けることにした。そして、自が下した決心に自分でも少し驚いていた。 (了)

*******************

■後記

マキノノゾミ原作・演出による「さらば八月のうた」の最終公演が8月29日、彼等の地元、京都の府立文化芸術会館に於いて行なわれた。
これをもって「劇団M.O.P」は26年間に及ぶ活動のすべて終え、解散することとなった。
即日販売のパンフレットや台本はすべて売り切れである。今のところ、一般消費者向けのDVDや本の発売、という話は聞いていない。再演の話が出るにはまだ早すぎるし、なにしろ、それは確定的なこととは言えない。だから、現在のところ、この美しい物語はある特定の人達の頭の中にだけ存在する、イメージの塊のようなものであった。

私は「さらば八月のうた」のイメージの塊を頭に抱えたまま、途方にくれてしまった。
というのも、まだこの劇を観ていない、私と繋がりのある知人、友人にいくら劇の素晴らしさを伝えたいと思っても、今のところ成すすべが全く見つからないのである。
「さらば八月のうた」のストーリーは、もしかしたらこのまま一部の人達(つまり、マキノノゾミとその劇団員、制作スタッフ、大阪、東京、京都の公演を観ることのできた少数の人達)の頭の中にだけ存在して、そのまま消えてしまうんじゃないか、私はそう思うとなんだか少し寂しく、少し勿体無いような気持ちになった。
そして、なんとかこの物語を私の繋がりのある友人達に伝える方法はないか、と考えたのである。

「さらば八月のうた」のストーリーは勿論、劇作家「マキノノゾミ」の脳みそが作り出したものである。私はただの一回、彼等の公演を観劇しただけの人間である。台本も持っていないし、手元にあるのはキャストと公演日程と劇団員の紹介文が載せられているパンフレットが一枚だけである。
そういう訳だから、葱男脚色によるこの物語「さらば八月のうた」は、ひょっとすると、マキノノゾミが意図したものとは全く違ったものになっているかもしれない。
例えばこの物語の柱となる「別れのうた」の歌詞は、まったくのでたらめで、マキノの書いた歌詞とはまるで異なったものである。
しかたがない、私はそれを敢然に失念してしまったし、正確な歌詞を記すには友人の手をわずらわすしか方法がなかった。
しかし、私はその方法を取りたくはなかった。つまり、劇団メンバーのひとり、劇中では「シズ江」と「ヨシエ」を演じた友人、「林英世」にそれを訊ねたいとは思わなかったのである。
理由は自分でもよく分からない、ただ、劇団が解散する、というその当の本人に、下世話な頼みごとはしたくない、と思ったのだ。

だが、かろうじてメロディの最初の部分だけは頭に残っていた。それは四分の三拍子のワルツだった。

♪ ミ−ドソ−ー ファソラソーー ファーミレーラソーーーーー
♪ シーミレーシソーレドーー・・・・

そのあとが続きません。(笑) 
しかし、それでも私はこの「イメージの塊」をなんとか形にしてみたかった、それ以外に人に伝える方法を思いつかなかったからである。

「劇団M.O.P」は同志社大学の演劇サークル「第三劇場」を母体とし、そのOBを中心に京都で旗揚げされた。
マキノノゾミは1997年、「東京原子核クラブ」で読売文学賞を受賞。2002年にはNHK朝の連続ドラマ「まんてん」の脚本を担当した。
劇団からはキムラ緑子(第32回紀伊国屋演劇賞、第12回読売演劇大賞女優賞、受賞)、小市慢太郎をはじめとして、多くの素晴らしい俳優が輩出した。昔からの友人である「林 英世」も創立当時からのメンバーのひとりである。

マキノは「最後の挨拶」と題した一文にこう書いている。
「〜今回の新作『さらば八月のうた』はとある『歌』にまつわる物語です。趣向的には『ズビズビ』(06)や『阿片と拳銃』(08)をさらに進化させたものといえるかも知れません。今回が最後なので、もういろんなことを正確に書いてしまいますが、この原稿の締め切り時点(7月1日現在)で、台本はまだ半分ほどしか上がっておりません。とある歌に関する物語と書きましたが、その歌の作曲を依頼した川崎晴美さんも苦しんでいて、まだ肝心の曲ができ上がっていません。(といっても詞を渡したのがほんの数日前なのですが)〜中略〜どうか愛児の卒園式を見守る母親のような気持ちでごらんください。 どんな挨拶やねん、最後の最後に」

物語はあたかも「劇団M.O.P」の26年の歴史に重なるように、仕立てられている。
「別れのうた」はそのままマキノが劇団員ひとりひとりに捧げたオマージュであり、「さらば八月のうた」の台本そのものなのである。


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