*「遊戯の家」金原まさ子=葱男

〜闇富士のまぼろしを見て帰還せり〜


金原まさ子(きんばらまさこ)

■1911年 東京生
■1970年 草苑に創刊同人として参加
■1973年 草苑しろがね賞受賞
■1979年 草苑賞受賞
■2001年 8月「街」入会 10月同人

「遊戯の家」は春のこの一句から始まる。

●春暁の母たち乳をふるまうよ
※「愛」と「乳」はよく似ていると思う。それを必要とするものがいるとき、無償の恩恵のようにそれはふるまわれる。契約書があるわけでもなく、取り引きでもなく、貸し借りでもない。それはだんだんに減ってゆくものではなく、或日突然に、彼等がそれを必要としなくなったときに消えてなくなる。

●虫出しの雷やドバイより異母姉
※8・9のリズムで17音が紡がれる。「虫出しの雷」は虫だけではなく、人の想像をはるかに超えた「現実」を目覚めさせる。

●月夜かなめがねをかけた蝶々かな
※切れ字の「かな」をふたつ続けることによって、敢えてタブーに挑戦してまでも生み出したかったリズムがある。どうやら金原さんの絶対音感は俳句のルールには縛られないようである。季違いにも一興がある。わざと口語的な読み「月→月夜」「蝶→蝶々」をふって、 「俳句的意匠」からそっと抜け出す。金原さんによって、「俳句」が問い直される。

●あれは三鬼星バスタブ溢れだす
※ここにも8・9のリズムがある。 女体にて湯をあふれさせたのは桂信子だったが、こちらは、お風呂にお湯を張っていることも忘れて星を眺めていたのだろう。あるいは西東三鬼の句集を読みふけっていたのだろうか?

●三つ編をほどかせている夜の朧
●啓蟄が散らかっている小部屋だな
●三個かも知れぬ排卵春満月
●句読点打ち散らかして春の星
●鈴つけてわたしいきいき蓮華畑
※「春」は「命」も「生」も躍動する季節である。それは御歳100才にしての作者の実感であろう。

●鈍行でゆく天国や囀れる
※1911年生まれの100才、金原さんの俳句には革新性が横溢している。きっと天国には古臭い旧制度など全く存在していないのだろう。

●春風が耳打ち「ヒトハイキカエル」
※100才の魂の境地とはこのようなものだろう、季節としての「春」の本意は「甦り=黄泉がえり」に違いない。

金原まさ子さんの句を読み解くことは読者の楽しみである。俳句とは何か、俳句のルールとは何か、俳句にはどんな可能性があるのか、俳句の未来には何が見えるのか、そんなことを考えながら金原さんの作品を鑑賞してほしい。

めがねをかけた蝶々

●春一番豹全身を払拭中
●どこが異うかぼんぼん時計と春梟
●春の月枕の下に飼う小鬼
●首に巻き忘れてしまう藤蔓は
●突然よ木筆が指になったのは
●青い魚運ぶ春暁のたびはだし
●石に臥て待てば春の鹿寄り来
●すみれ窃かに青公達を吐きおりぬ
●天才は死ぬ鶯の谷渡り
●春落葉して塗櫛を匿すかな

鱶のかたち

●焼却炉より鱶のかたちが立ち上る
●蟇出でてアラブの唄をうたうかな
●螢袋のぞくと男巫がいた
●螢嵌めてよ私は青そこひ
●空蝉にガラスの座棺特注す
●金魚玉透かすとマチュ・ピチュが見える
●夕牡丹水を貰いにお化けたち
●鷭昨夜笑い死にしていたりけり
●両性具有とは蓴菜とじゅんさいの水と
●体温のシャツ借りる夕立がきれい
●先ずウニやアワビやトロや草田男忌
●灯ともすと怖い書斎のヒヤシンス
●昼顔のように枕へたどりつく
●青蜥蜴なぶるに幼児語をつかう
●砂のような鰈のよなわたしかな
●白蚊帳に寝て水の如父母は
●食いおわりたる蟷螂の号泣よ

不整脈

●したしたしたした白菊へ神の尿
●衣披モグラを剥くように剥きぬ
●蓑虫を無職と思う黙礼す
●すいっちょの髭触れている不整脈
●象色の象のかなしみ月下のZOO
●つまりただの菫ではないか冬の

ガーデン〜冬

●サンシキスミレは悪い花だなはいコーク
●百一回までよ老人の縄跳びは
●百二回までよ鞦韆も毬つきも
●月見草月光はお肌によろしくて
●ぼんやり胸さわぎ黒ユリの前にいて
●捨てられたようにゴボウの花の側
●摘むと失うローズマリ−の記憶
●くちびるを噛みきるあそびプチトマト
●骨片を埋めこんでイチジクの挿木
●水仙の根を噛み修道士にも飽きし

余談になるが、私が「俳句をやる」と聞いて、友人の若いアーティストがこのようなことを提案をしてくれた。
「17文字の季語」をつくったらどうか?あるいは16文字の季語を創ってあと残りの1文字の可能性に美を探究するのはどう?
あるいは18文字の「季語」を創って、必ず「字余り」となってしまう句の哀しみを表現してはどうだろう?
彼女は「俳句」については全くの素人なのだが、あらゆる芸術家は、つまるところ「既存の表現方法を革新しつづける魂」のことなのだと思った。

subikiawa食器店さんへ
●風はしゃぎ笑って巣引き泡と消ゆ  葱男