*「ハミング」月野ぽぽな

〜月の野にみつつぽぽなと月の花〜


7月10日、第28回現代俳句新人賞が月野ぽぽなさんの「ハミング」に決まった。
選考委員は伊東 類、浦川聡子、大井恒行、久保純夫、佐怒賀正美、鈴木 明、佃 悦夫(敬称略・五十音順)の7名である。
ぽぽなさんの作品は、俳句の未来にまたひとつ、これまでになかった新たな道を切り開いてみせてくれた。
そんな新しい才能に出会えたことは、自分の俳句の未来にとっても大変に喜ばしいことである。
「ああ、そうか、こんな風に詠む道があるのか。」
ぽぽなさんの句に出会ったことは、土肥あき子さん、金子敦さんに続いて、私がこれからそこへ向かおうとしている現代俳句の確かな抒情的世界をがあることを実感させてくれるものだった。

実は、「ぽぽな」さんという菜の花の子供みたいな可愛らしいお名前だけは、以前から存じあげておりました。
それは私が時々お邪魔している「つぶやく堂」というネット句会に、彼女もたまに参加されていたからです。
「やんまさん」が御主人をつとめるネット上の「俳句喫茶店」には清水哲男さん、土肥あき子さんをはじめ、多くの才能がお顔を見せてくれるのだが、「ぽぽな」さんもその中のひとりでした。
「つぶやく堂」の常連さんはみんな自分の誕生日特設季語というのを頂戴していて、自分のお誕生日には多くの句友からお祝の言葉に添えられて、当人の季語を詠み込んだ一句がプレゼントされるという嬉しい習慣がある。

例えば2009年の私の誕生日にはこんなお祝句をみなさんから戴いた。(※は、みなさんから戴いた句に対する私からの御返礼です。)

10月30日:葱男さんへ 〔誕生日季語:葱〕

●あまりにも葱的である線一本    つとむ
※生で齧るとちょっと匂います(>_<)
●葱祀り筆のうたふや後の月     なを
※十三夜がお誕生日とはあな嬉しや(^0^)
●ほなあんさんたべてみなはれ九条葱 弁慶
※甘いですよ〜〜、極甘!(^0^)
●葱一本落ちて三和土の深き陰   司馬
※時々鬱になる時あり(>_<)
●人集ふ京の町屋に葱きざむ     かよ
※きざまんといてくれ〜〜(>_<)
●皮むいて葱一本の光りだす     シナモン
※そろそろ髪が危うくなったきた。来た〜〜!(>_<)
●味わいは煮ても焼いても深き葱   重陽
※よかった、まだ食べられます。(^0^)
●葱こそが鍋の主役でありにけり   赤猫
※鴨を差し置いて身のほど知らずな私(>_<)
●京染めや葱には青と白があり    白馬
※葱的色彩はまさしく青と白が基本です、多分オ−ラは青でしょうね(^0ー)
●京より江戸へ紡ぐものそれは葱   ひつじ
※最近とんと江戸にも御無沙汰してますね、誰か、仕事持って来い!(`ε´)
●雨に負けず風にも負けぬ葱青し   顎オッサン
※こう見えて勝負事にはめっきり弱いんですよね(>_<)
●まず香り葱の幸福波を打つ     アラマ
※幸不幸も、善悪も、正否も自分で決めます(^0^)
●腰据えて下仁田葱のど根性     海苔子
※根性はありません、好き嫌いだけで生きてます。(^0^)
●我が家では葱が酢饅(すぬた)の主役なり  光源氏
※どうしても葱がないと物足りないものに納豆、ラーメン、お好み焼き、どて焼き、魚の煮付けに白髪葱。
●天地(あめつち)に性根のすわり葱となる  くりおね
※いつの日にかりっぱな葱となって鍋に貢献したいものです。
●葱の根の都の土をはらひけり        佳音
※根っこは九州、博多にありて「ちゃっちゃくちゃら」の系譜です。

そんな訳で私もなるだけみなさんのお誕生日にはお祝の一句を詠むように心掛けているのだが、ネットの上でお名前しか知らない「ぽぽな」さんのお誕生日(4月3日)にも、たまたまこんな句を詠んでお祝していたようである。(本人はぜんぜん覚えていない。)
ちなみにぽぽなさんのお誕生日季語もそのまんま「ぽぽな」であった。

●春河原ぽぽ菜ぽぽ菜と歩きをり     葱男(2008年4月3日)
●ぽぽ菜風かぐはしパパは上機嫌     葱男(2010年4月3日)

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月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)

・1965年 長野県生まれ。92年よりアメリカ合衆国ニューヨーク市在住。
・2002年 詩歌のウェブサイトにて連句・短歌・俳句と出会う。句作開始。
・2004年 「海程」入会。以来金子兜太に師事。
・2005年 「豆の木」参加。
・2006年 「青山俳句工場05」参加。
・2008年 海程新人賞受賞。「NY句会」・「方舟」(NY)参加。
・2009年 豆の木賞受賞。「卵の会」参加。
 現在、「海程」同人。「豆の木」「青山俳句工場05」「卵の会」「方舟」(NY) 「NY句会」「湯島句会」ほか多数のネット句会に所属。
現代俳句協会 会員。


それでは「現代俳句新人賞」を獲得したぽぽなさんの「ハミング」30句を御紹介しましょう。

●蛇穴を出て青空の青沁みる
※青空の中の「青」のみが沁みているのは蛇のみならず、作者自身であろう。「青空」からわざわざ「青」を抽出してみせるのは、例えば、世間(現象世界)に出たときに感じる生物の哀しみや寂しさを暗示しているのかもしれない。

●ふくらはぎの深さに藤の花咲けり
※私には少し難解な句であった。そのまま読めば、大きな藤房のかたまりが自分のふくらはぎのあたりまで垂れ込んでいる情景を詠んだとも考えられるが、どうしても「ふくらはぎの深さ」の「深さ」に立ち止まってしまう。「ふくらはぎ」はどのように「深い」のであろうか?官能として深いのか、情として深いのか? 藤の花はノーブルな表情をみせている花ではあるが、一度その藤棚の大きな花房の迷宮に迷い込んだら一生出口が見つからないような、底知れぬ怖さを持っている。

●白木蓮ときには濁るため歩く
※生きていくことは「濁って」いくことでもある。「白木蓮」の蕾の形は人が合掌しているようにも見える。合掌して、濁るための人生を歩んでゆくしかない。

●ぶらんこの鉄に戦歴あるだろうか
※戦歴とはここでは恋の戦歴のことであろう。七つの恋、十五の恋、二十歳の恋、志村喬が「命短し〜」と呟きながら歌うブランコには我が人生に恋して、我が人生にふられるさだめの「命」との戦いがあった。

●陽炎はとてもやわらかい鎖
※5・8・3の音律がやわらかい。やわらかく縛られていることに対する生物(あるいは人間)としての喜び、寂しさがこの句には感じられる。生物とは、つまりはどこまでゆけどもただの「陽炎」にすぎない。無常感とは大きな諦観とかすかな快感を足したものである。

●さんしゅゆの真昼は遠い風の地図
※言葉は意味ではない。俳句も意味ではない。俳句とは、あるいは詩情とは意味を越えたところに幻視する美しきイデアである。およそ客観写生とはほど遠いこの句に溢れる詩情はいったいどこにあるのか? 

●鈴鳴らすように旅人汗をかく
※旅人の汗はいくつもの小さな発見と共にある。赤ん坊と旅人は、目に触れる新しい世界の一瞬一瞬と切り結びながら這い回り、歩き回る。新世界との交感は「神」との交感でもある。人は神と交感する為に、神をこの世界に臨在させるために、鈴を鳴らし、鐘を鳴らす。

●あめんぼう宇宙ぽろんとさざなみす
※「宇宙」と「あめんぼう」、現実に存在する大いなるものと小さきものが、「ぽろん」というオノマトペひとつでこの世界のすべてをファンタジアに変えてしまった。ファンタジアとはあらゆる存在が、動物も植物も鉱物も天体もすべてがお互いに交感している世界である。

●短夜のグランドピアノ獣めく
※作者はみずからがピアノを弾く人なのであろう。月の森の中で狐が小動物に飛びかかるように、彼女の指先は音楽という獲物を捕まえる。

●ピッチカート蛍ピッチカート蛍
※シンメトリーの形がまづ美しい。そして小さく輝いている、光が歌っているように見える。6・3・6・3の自由律はワルツになって踊っている。「詩情」という曖昧な定義にたいするひとつの答がここにある。それは「メロディ」を内に秘めている。

●先すでに草になりたる髪洗う
※「草になる」という措辞は動物系から植物系への移行を感じさせる。髪の根元と先にそれだけの誤差を生じるというのは、おそらく長い髪の持ち主ではないか。「草」になって「人」を離れてゆく髪の感覚は何に対する哀惜の念だろう? 失った時? 過ぎ去った蜜月?

●舌先の尖る泰山木の花
※珍しく写生的な句。泰山木の花を眺めながら舌先を尖らせて、作者はどんな風に自然と戯れてみせたのか? 悪戯っぽく小さく微笑んで・・・。

●夏の魚銀色よりも静かなり
※先月の「つかこうへい」氏の逝去に、私はこんな追悼の句を詠んだ。「しちがつのつかこうへいの銀と化す」。銀化現象というものがある。ローマングラスなど、古いガラス製品が砂や土中に長年置かれた場合にガラスの成分の珪酸や酸化アルミなどが周囲の鉄、銅、マグネシウム分などと化学変化を起こす。この句の「夏の魚」がタチウオなのかウオゼなのか、それとも名も知らぬ深海魚なのかはわからないけれど、釣り上げられてからそんなに長い時間が経ったわけではないだろう。しかし、作者はその短い死に永遠とも思えるような「静けさ」を敏感に感じ取る。

●その中に崩落の音花カンナ
※カンナほど、ひとの気配のない殺風景な場所が似合う花も少ない。その鮮やかな赤や黄の色がひとりの鑑賞者を得ることもなく、ただただ咲き誇っている姿はきっとひとの哀れを誘うだろう。「華やかさ」が実は自立的なものではなく、社会の眼、観客の眼に晒されてこそ成立するという事実に気が付くとき、「華やかさの崩壊」はもうすでに始まっている。

●泣くために溜めておく息夕花野
※「泣く」ための未来をあらかじめ想定しておくことの賢明さは多くの素敵な女性が持つ裏業である。それが何故素敵なのかと言えば、実は失恋や悲恋の涙は自己愛として少し甘味を含んでいるからだ。「夕花野」の季語がそのことを雄弁に語っている。

●手紙読む月の樹海をゆくように
※富士山の樹海ならいざ知らず、「月の樹海」ならば永遠に彷徨い歩いても永遠にロマンチックであろう。なんどもなんども読み返す手紙であるが、意味の裏の裏を覗き込むようにして、木々の裏から裏に回って森のオゾンをたっぷりと吸い込む。

●山里に霧の気配りゆきわたる
※山水画、水墨画にある幽境の世界がひろごる山里の景色。そこには霧や霞といった水の神の化身がいつも素晴らしい演出をほどこしている。それを「神の気配り」と捉えたところにこの句の上品(じょうぼん)がうかがえる。決して恋人同士の逢瀬というような下世話な話ではあるまい。

●母たちは朝顔色にほほえみぬ
※原始女性は太陽だったのだから、日の出とともに爽やかに、また瑞々しく咲く朝顔に喩えられるのもまた母性である。

●少年の扉やわらかキリギリス
※これも「少年」だったことのある私には少し難解な句。以前、「青臭きまま生きて来し螽斯」という句を詠んだことがあった。その句からも想像できるように私の少年時代の扉はおそろしく「硬かった」。だからこの句に出て来る少年はおそらく、私とは全く対照的な境遇に育てられた男の子なのだろう。 哀しいかな境遇は一生顔についてまわる。

●黄落す光が重たすぎるとき
※ぽぽなさんの句に見られる「落ちる」感覚が好きだ。私にも(は)きっと転落志向があるのだと思う。ただし、転落したところに黄金 郷を想像してしまう悪い癖がある。(これは私自身のことです。) 銀杏の葉が黄をきらめかせながら舞い踊るようにひらひらと落下する。秋の夕暮れの光はあまりに美しいので、その光に重量さえ感じるのだろう。なぜだか少し「幸せすぎて怖い」というフレーズに似ていなくもない・・・。

●まひるまの淡き骨格秋しぐれ
※「まひるま」のひらがなが愛おしい。作者にとって「まひるま」の時間はあまり重要性を持たないかのようである。まひるまの秋はおまけに時雨れはじめた。もう完全に我が身をシャットダウンしてしまう。

●自らに逆らうかたち稲光
※稲妻の光の痕を写真で見てみても、なぜ、その道が選ばれたのか、素人眼には全く不自然に思えることがある。しかし、科学者にとってみれば、そこには99%の必然があるのだろう。ただし、残り1%の偶然もあるのではないか? その1%はもしかしたら、自分が自分であることに対する理由のない反発、自己欺瞞ではあるまいか。

●爪で剥がした痕であり朝の月
※月の照り返しはあまりにも薄く、弱々しい。

●狼の目に中世の風ありぬ
※中世の暗黒には弱肉強食のむき出しの欲望が見える。丘の上の城壁にはいつも黒い雲がかかっていて、見渡せば遠くの丘には敵の軍勢があり、その足音はしだいに近づいてくるように思える。

●毛皮より短きいのち毛皮着る
※他の獣の皮を我が身に纏うとき、男はいくぶん猛り、女は少しだけ鎮まる。

●傷口に触れないように山眠る
※雪は山に降り摘み、山を隠し、里に降り摘み、里を隠し、太郎も次郎も花子も美子も苦しかったこと、辛かったことをみんな忘れて眠りにつきます。

●みずうみは凍てて翼の昏さかな
※光は氷に反射するとき、鈍い屈折をくり返し、本来光が持っている清浄さ透明性を損なうことになる。北から渡ってきた鳥たちは疲れきっている。着水するはずのやわらかな水面は見あたらず、翼にはもう寸分の力も残っていない。

●春の鳥水平線をつまびくよ
※羽を震わせながらも両足で水面を駆ける鳥たちの楽しそうな声。そのリズム感は彼等の心拍数に比例して16ビートから32ビートへと早まるだろう。

●桜咲く乳房あることたしかめて
※私の友人に「(株式会社)をんな」を自称する俳人がいるが、それほど「をんな」でありつづけることは日々に自助努力の要ることらしい。 「桜咲く」のの強いs音は「をんな」でありつづけることのきっぱりとした決意表明に思える。この「をみな宣言」は30句の「花の座」を意識した一句でもある。

●佐保姫のハミングをするときは風
※挙句は春の女神、ボッチチェリの「春」を彷佛とさせる絵画的象徴的な句。西風ゼフユロスのふくらんが頬から暖かいメロディが生まれる。


私は大学では西洋哲学を専攻し、卒論はルドゥビッヒ・ウィットゲンシュタインに挑んだのだったが、彼の哲学における「言語」に対する考え方はおおよそ次のようなものであった。
「言葉の意味とは、つまり『言葉』とはその使われ方である。」

分かりやすい彼はそれをみっつのカテゴリーに分けて、「ロキューション」「イロキューション」「パラロキューション」と説明していた。

仮にA君がB君にこう言ったとする。
「おいB君、C君が風邪をひいたらしいぜ。」
この呼び掛けは一体、A君にとってどんな意味をもっていたのだろうか?
ウィットゲンシュタインはこう説明する。
ひとつにはその事実(C君が風邪をひいたという事実=ロキューション)を伝え、ひとつにはその時の感情(C君が風邪をひいて、とても心配だという感情=イロキューション)を伝え、最後にその事実から敷衍されるB君への問いかけ(C君が風邪をひいて、とても心配だから、一緒に見舞いにいかないか?という期待)を伝えている、と。

勿論、その3つを同時に伝えようとした言葉であったのかどうか、また、それが実際にB君に伝わったかのかどうかはまた別の問題である。ただ、言葉とはその「使われ方」によってさまざまな可能性を含み得るものである、ということを彼は教えてくれた。

このウィットゲンシュタインの言語哲学を俳句に敷衍してみると面白い。
つまり、客観写生の句がどこまで読者にその作者の気持ちを伝えることができるかどうか、が秀句と駄句の境目なのである。
ロキューション:つまり、事実だけしか伝わらない句は単なる説明の句となってしまうだろう。
イロキューション:その句が生まれた瞬間の作者の感情が読者にも伝わればそれは佳句とも言えるだろう。
パラロキューション:その句によって読者をいかようにか、動かすことができればそれはすなわち秀句であるに違いない。

私は、ぽぽなさんの俳句を詠んで、新しい表現の可能性があることを実感し、それをみずからの句作に応用できないかと模索しはじめている。ぽぽなさんの句は私を大きく動かしたのである。

●筆色は鼬か馬か今朝の秋  葱男


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