*丘ふみ俳句:実験精神派=葱男


先月号の俳句談義の中で、「俳句作法」に関わる創造精神を、仮に5つのカテゴリーに分けて考えてみた。
すなわち「実験精神(面白さ)」「工芸精神(巧みさ)」「詩精神(美しさ)」「俳精神(深さ)」そして「諧謔精神(粋さ)」である。
無論、作者の創造的な表現にはこれら5つの要素がいくつも複合してからみあいながら存在していて、その句の中味を明瞭に腑分けすることなどできないのだが、とは言っても個々の作品にはその人なりの「句姿」というものがあり、それを鳥瞰的に眺めてみるならば、おおよそその人の俳句作法に対する傾向が見えてくるような気がする。

「丘ふみ100号」発刊にむけての一企画として、今回から「丘ふみ俳句」の全容を探る試みをはじめる訳だが、その一手段として会員諸氏の俳句をこの5つのカテゴリーに分けて論考してみようと思う。

まづは乱暴な組み分けをして、「丘ふみ会員諸氏」を5つの会派に振り分けてみることにする。(いろんな御意見や御不満もおありでしょうが、ここは「悪戯な遊戯」だと解釈してくだされ!)

■実験精神派:白髪鴨、ひら百合、入鈴、スライトリ・マッド
■工芸精神派:君不去、夏海
■詩精神派:雪絵、秋波
■俳精神派:水音、香久夜、資料官、五六二三斎
■諧謔精神派:喋九厘、メゴチ、前鰤

やはり、こうした単純なジャンル分けの試みには相当の無理がある。例えば、「白髪鴨」さんの俳句は自由律という可能性への実験段階を過ぎて、「詩精神」のデザイン化の方向に向かっているように思える。ただ、そのデザイン化の方法や技術はなお「実験的」なのである。
すべての俳人の作品には上記にジャンル分けしたような作句上の精神が混然としているということは、まずはじめに念頭に入れておいて下さい。

それでは「丘ふみ100号発刊」を1年後にひかえて、われらが「丘ふみ俳句」の8年をゆっくりと振り返ってみたいと思います。

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丘ふみ俳句/実験精神派

■白髪鴨(葱選10句)

すさまじき神の静寂に書をとぢる
バラライカゆかし悲しき狐の目
歴史からふとはみ出しぬ春の夜
さみだるる稲荷の森のGゆらぐ
プールにも海につながる惑ひあり
ふりむけば索具(リギン)奏でる神渡し
寒鰤の背から膨れる市の声
初東雲船首(ステム)をたたく硬き波
思ひきりかひなをとほす糊浴衣
天の川秋は右岸にありにけり

長い間ヨットの雑誌の編集に携わっていた白髪鴨さんの句には「海」や「ヨット」に関する作品が多く目立つ。
また、読書家で音楽好きの彼には「ヨット」以外にもしばしば、「文学、数学、音楽、哲学」上の固有名詞や専門用語が使われた俳句も多い。
専門的な分野を詠みこんだ俳句には必ず一長一短があるもので、一方では未知の世界に対するロマンをかきたてながら、もう一方で、あまりに専門的で特殊な世界に入りこみすぎると、今度は一般読者の共感が得られにくいということもある。10選に上げた「索具(リギン)」「船首(ステム)」などの語の使用は、一句に「浪漫」を生み出すことに成功した例だと言えるだろう。が、そこにはもうひとつの厄介な問題がひそんでいる。

老いてなおアポロンに奉ぐ冬苺
風ゆるやかに星月夜iをさがしに
百五十億年の対称性破れ星冴ゆる
裏白のフラクタルに問う自然律
ドゥルーズは白く語りぬ春を待つ
εなる極限おひて青き踏む
nomadic夢に裂かれし欝金香

あまり専門的な知識のない私にとっては、これらの句が表そうとする心象世界をイメージすることが難しかった。
未知なる世界への憧れと共感を生み出そうとする俳句実験には、深い海峡をみんなが安心して渡れるような「魅力的な言葉の架け橋」を上手く設計することが必要な条件になるだろう。


■ひら百合(葱選10句)

シルエット 枯れ木立編む 夕日の赤
気狂いも魔法も似合う弥生月(madnessも magicも似合うMarchかな)
芋掘りて掘り返されて耕さる
足どりもヒップホップの融雪期
長き夜くぼみのこしたソファかな
パンプキンごろり山なる店おもて
15パーセントあの日のままの秋
引き抜けばひとからげなり破れ蓮
幾億万声かけられし「オーイ,雲」
ボンジュール手習いの春躁と鬱

ひら百合さんは遠くイリノイ州の空から俳句を投じてくださっている。彼女がイリノイ州の何という町で暮らしているのかよく覚えていないが、その土地の景色は日本の風景とどのように違っているのだろうか。ひら百合さんの句を読むと、イリノイはどうやらまだ多くの自然が残る雪深いところのようである。
前から感じていることだが、ひら百合さんの俳句の感覚、言葉の感覚にはどこか日本人離れしたところがある。海外での生活が長いからだろう、日本人の箱庭的な自然観とはすこし異なった、もっと原始的で桁のはずれた自然がアメリカ中西部のこの土地の背景にあるのだろう。
「轢かれたる栗鼠と掃かれて花楓」「ヘリが飛ぶ絹層雲の9.11(ナインイレブン)」「はねかえるチタンの白さはなみずき」、例えばこれらの写生句には日本人に共通する俳句観では測りきれない感覚がうかがわれある。その感覚はおそらく、青い目の俳人達にも共通した面白さなのではないか。


■入鈴(葱選10句)

雨打ちて木肌芯より桜めく
校庭の蝦蟇どっかりと白線上
潰れ寺石に還りて冬麗(うらら)
春の雨中年ジーンズに容赦なき
大夕焼ドゥオーモのごと雲のたつ
夕焼空コーナーキックなぜ逸れる
白神のあまたの雪の眠りかな
潜水のプールの底にカフカかな
立待の月手をつなぐ程のこと
寒紅やいっこ姉さん有休とる

一応「実験精神派」に仕分けした入鈴さんの俳句だが、上記の葱選10句を見てみると彼女の俳句のデザイン性(工芸精神)の高さがよく分る。また、「絵筆など小春日和に調べをり」「古き梅ちろりちろりと咲きにけり」「寒泉やクレソン農夫の鋤に湧く」「大根干す雲ひとひらの筑波かな」「運慶の玻璃の目はしき半月夜」「春の夜の貝のボタンのかけ違ふ」のような句を取り上げるなら彼女の「詩精神」の豊かさを計ることもできる。けれどもこれらの秀句は俳句実験を重ねる彼女にとってみれば、言わば「息抜き」の句にすぎないのかもしれない。
思うに、彼女の俳句ワークに於いては佳句、秀句の類いはすでに倦怠をもたらすだけの「習い事俳句」にすぎないのではないか。
おそらく、彼女の自選10句は私のものとは全く異なるだろう。例えば次のような句に、彼女が探そうとしている「革新的な前衛俳句」の一端を垣間見ることができる。

輪唱をさせてくれないか 半月夜
凩の到りしか オリオン瞬く
オリオン夜 黒々と林乾きぬ
青やかしなにやらなにやら蝌蚪群れり
薔薇色のバラに青きを問ふてみる
koに充てる故胡古拳賈個やかまびすし
聖バレンタインの日の猫の髭 男まえ
オーボエの音いろ栗いろ雨しとど
へりおとろーぷほおづえつきしまましじま
海の家焼そばそーす濃くてあれ
日暮やゴリラのこじん主義終る
百日紅匂うなら好きにならない
街の花粉症の背広のふーと伸ぶ
曖昧のぼーるの白や日の遅く
露草やよこがほの瑠璃かしぐ瑠璃


■スライトリ・マッド(葱選10句)

来世では鯨か冬の金魚かな
かざりわらひかりかげなふたなごころ
春の山息吹き入れる硝子工
うかれ猫身体でつくるL-O-V-Eの文字
サフランのご飯の美味し胎児蹴る
ウナ電の「コンヤユケヌ」ク蜜柑むく(向田和子「向田邦子の恋文」2002)
おかあさんとてもきれいねのちのつき
紫雲英畑に大の形を残しをり
シェパードの胸の満タン夏来たり
ハンモックここはあおぞら一丁目

今風に飛んでいるスライトリ・マッドさんの俳句は、実は「実験精神」というような作為的なところから出発しているものではない。自由奔放な発想と天真爛漫なアイデアと底抜けの生命力に満ちた、彼女の童心が結果として句を自在にさせているのである。そのような内部エネルギーの総体のことを「アート」というのだと思う。俳人にもいろんなタイプがあって、学者タイプ、実業家タイプ、職人タイプ、などいろいろがあるけれど、スライトリ・マッドさんはまぎれもなく「芸術家タイプ」である。とにかく彼女の俳句には人に元気や勇気を与えるおおらかさと楽しさ、明るさが備わっている。

10句以外にも痛快無比な17音があたかも五線譜の上に並んだオタマジャクシのようにたくさんの愉快なメロディを奏でて、私達を爽快な気分にさせてくれる。

着ぶくれのバイクのサンタ駆け抜ける
撒水車通りて笑ふ田ん神さあ
遠足や列ののびたりちぢんだり
小噺や足袋の鞐のすつと入る
思い切り寄り目の枝雀万羽鶴
落葉焚き四角く眠る箱の猫
シーサーと目が合ひました風邪癒ゆる
遠泳の子ら護りをりさくら島
春爛漫家にリボンの巻かれをり
蟷螂が坂道の真ん中で待つ
秋高くでんでらりゆうば輪唱す
抱瓶の魚笑ひて日向ぼこ
放たるるシェパードの群れ風光る
ウェディングキッスさわやか校門前