*俳句とエチカ=葱男



尾崎放哉の再刻の句集「大空」に井泉水のこんな前書があるようだ。
「その人の風格、その人の境地から産まれる芸術として俳句は随一なものだと思う。俳句はあたまだけではできない、才だけでは出来ない、上手さがあるだけ、巧さがあるだけの句は一時の喝采は博し得ようとも、やがては厭かれてしまう。作者の全人全心がにじみ出ているような句、若しくは作者の「わたくし」がすっかり消えているような句(この両極は一つである)にして、初めて俳句としての力が出る、小さい形に籠められた大きな味が出るのである。」

俳句には巧拙とは関係なく、その人の人格や気質や、人間としての品格が否応もなく映し出される。
一方、小説の世界を見ると、相当にきわどい、俗悪で野卑な趣向のものであっても、それはそれなりに表現の場所があり、社会的にも文芸的にも需要と供給のバランスを保ちながら、広く容認されているように思える。
「文芸」には純粋芸術的なものと大衆的なサブカルチャーが不可分に交じりあうのが定めだと思うのだが、はたして「俳句」の世界はどうなんだろう?

今月号の「俳句界」に掲載された酒井佐忠氏の文章を引用する。
酒井氏は廣瀬直人氏の「花咲くころ」を鑑賞して、彼の「こころ明るむ句の姿」について言及する。
「俳句には『格』がある。自由詩や現代詩はもちろん、短歌や小説ではあまり『格』の重さを問わなくなったのが現在だ。その中で廣瀬直人は、俳句の『格』を疑わない。いまの俳壇では、それが希少の存在になっていることにふと気づく。〜後略」

やはり、当たり前の話しではあるが、「俳句の善し悪し」には作者の「品格」や「風格」が大きな比重を占めている。
しかし、今が旬の現代俳句のリーダーたち(例えば金子兜太氏や中原道夫氏や櫂未知子氏)の句を読むとき、私達は決して上品とは言えない多くのモチーフに出会うことになる。
卑近な例では、敗戦後の混乱の時代を生き、アメリカ黒人兵との情交を詠んだ鈴木しづ子氏のような俳人も思いおこされる。
現代俳句に於いて、人間の本質である「リビドー」に生命エネルギーの輝きを発見し、表現の力をそこに追い求める行為は、決して「品格」云々の話だけで疎外されるべきものではないだろう。いや、そもそもモチーフによって品格が決められるわけでもない。14世紀のルネッサンスは女神たちを裸にすることによって芸術表現の豊かさと美を拡大してきた。
それならば果たして人間としての品格とは一体何か?

二六斎宗匠の「めじろ遊俳クラブ」で問題になった葱男の2句をここに紹介します。
その2句はエキセントリックで実験的な「め組」句会にあってさえも猶、「作者の倫理観」を問われるエチカのかけらもない「俳句前衛」(「前衛俳句」ではない)だと断じられたものである。

●如月やリストカットのバーコード
●手花火の向こうに末期癌患者

一句目は暗いコンビニの片隅で見る事ができるだろう現代若者たちの孤独。
二句目は末期癌患者との最後の交情を想像して詠んだものである。
二句ともに私の頭の中に生まれた、想像上の悲劇、現代人の持つ「無力感」を象徴した詠んだ句である。そして人間の生命エネルギーを迫害して来る得体の知れぬものに対する恐怖を詠んでいる。

このような句が読者に大きな不快感を増幅させるのだとして、これら、絶望の溜息のような短詩は「俳句」のジャンルからははみ出してしまうものなのか?それら17文字の一行詩は「日々の遺言」ではあっても、「俳句文芸」とは異なったものなのだろう。
1990年代から始まり、それ以後、2001年の「9,11」から今年2011年の震災までずっと継続して沈澱しつづけてきた「現代日本」「現代社会」の絶望感と無力感は震災後、どんな形でリメークされなければならないのだろう。

手花火の向こうに「末期癌患者」を押しやることは人としてあまりにも冷たい。
手花火の向かいに「末期癌患者」を感じ、彼に近づく「死」を自分のものとしてしっかりと対峙し、そこから逃げ出さないでいる「勇気」を持つことが今、一番大事なことである。

推敲句
●手花火の向かいに末期癌患者



■葱々集〈back number〉
現代カタカナ俳句大震災を詠む「遊戯の家」金原まさ子さらば八月のうた「ハミング」月野ぽぽな「花心」畑 洋子1Q84〜1X84「アングル」小久保佳世子ラスカルさんのメルヘン俳句「神楽岡」徳永真弓「瞬く」森賀まり『1Q84』にまつわる出来事「街」と今井聖「夜の雲」浅井慎平澄子/晶子論「雪月」満田春日 「現代俳句の海図」を読む:正木ゆう子篇 櫂未知子篇田中裕明篇片山由美子篇「伊月集」夏井いつき「あちこち草紙」土肥あき子「冬の智慧」齋藤愼爾「命の一句」石寒太「粛祭返歌」柿本多映「身世打鈴」カン・キドンソネット:葱男俳句の幻想丘ふみ倶楽部/お誕生日句と花