*丘ふみ俳句:詩精神派(雪絵・秋波篇)=葱男


本題に入る前に,10月の大阪百鳥句会で特選に戴いた森賀まりさんの句について少しお話したいと思います。
●十三夜お終まひに糸かみきつて  森賀まり
 大阪百鳥ではいつも25〜30人程度の俳句仲間が集まって月に1回句会をしている。
集まるのはベテランや才能豊かな俳人(一般に,大きな俳句結社の「同人」以上の人達がそう呼ばれる)ばかりで,私はいつまでたっても一番下っ端の「会員」である。
みなさん,熟練者ばかりでおよそ「俳句とは何であるか」については精通している方たちばかりだが,その中でまりさんのこの句を選んだひとがごく少数だったのは意外だった。その理由のひとつとして考えられるのは,この句がやや口語的な韻律を含んでいる,ということがあげられるだろう。
まりさんは,学生のころから詩を書いてきたそうだが,現代の若手俳人のなかにあってもとくに「ポエジーを感じさせる俳句」を詠む人である。
彼女の句には「俳句的スタイル」に囚われない,エモーショナルで流麗なリズムを持つ作品が多く含まれている。そういう意味で彼女は,夫の故田中裕明さんと並んで,今もっとも「詩精神」に溢れた俳人のひとりだと言えるだろう。

さきの句に戻って考えてみる。
この句,「お終まひに糸かみきつて十三夜」とすれば俳句に特有の「切れ」が生まれるところを,敢てそうしないのは作者が「月の表の顔」を見ているのではなく,月の裏側を覗いているからではないか。月の裏側に彼女が見ているもの,その幻,その面影にこそポエジーが存在している。 俳句の基本は,生きて在る,その今の一瞬を詠むことである。ただ,「一瞬」には「真実」は存在しても「詩情」は存在しない。「俳」は今,その一瞬を掴んでそれを「永遠」に敷衍するが,「詩」は過去から熟成する時間を漉いて「今,この時」を芳醇にする。ポエジーはいつも「時間」や「歴史」の側に存在している。
私達がもし,長い人生を過ごしてきた者であるなら,その経験の分だけ人と共有できる感情の幅は大きく広がっているだろう。歳とともに涙もろくなるのは,そんな理由があるからかもしれない。
俳句は「芸事」「習い事」でもあり,茶道や華道と同じような技術的側面を持っている。「形」から入ることはとても重要なことだが,もっと重要なことは「形」が決まるまでの「経緯」やその「本質」を見極めることである。まりさんが「俳句のカタチ」よりも詩性を優先できるのは,彼女が「俳人」や「詩人」であるまえに,まず「文学を志すもの」であるからだ。
「俳句の本質」「季語の本質」とは一体なんなのか,ただ「形式をなぞる」だけでは俳句は形骸化してゆくしかない。

それでは本題に入ります。
私が「丘ふみ俳句」の連衆のなかで,強く「詩性」を感じるのは雪絵さんと秋波さんである。
おふたりとも俳句歴はそれほど長くはない。言い換えれば,「どっぷりと俳句的修辞に浸かって抜け出せなくなったベテラン俳人」ではない。もしかしたらそのことが彼女達の「詩精神」を流麗に飛翔させているひとつの理由かもしれない。ただ,初学のものだけが「詩精神」を持つ,ということでは決してない。我等が砂太先生のように,何十年も慣れ親しんできた俳句的土壌から抜け出して,新しい天地を開拓しはじめるような怪物もいる。年令を重ねると人間,最後は赤ちゃんに戻るというが,先生の句の新鮮さ,若さは「俳句的スタイル」を踏襲した上でのことである。その,伸びやかな「詩精神」は無尽のように見える。まったくもって人の「好奇心」というのは無限だ。
若々しくて瑞々しい感性のことを「花伝書」では「時分の花」と云う。ただ,先生が喜寿にして生まれ直した新しい世界を想像するなら,「時分の花」というものが,年令だけのことではないのが分るだろう。
余談になるが,この度,名優,怪優で知られる「香川照之」が40代なかばにして初めて歌舞伎役者を目指すことになった。彼の出自を考えると,長かった「裏側の人生」から「表側の人生」への堂々たる転身である。彼の類い稀なる演技力が歌舞伎座の舞台でどのような花を咲かせるのか,大変に楽しみなことであります。

 話があらぬ方向へ飛びましたが,それでは「丘ふみ詩精神派」のおふたりの,鮮度の高い「時分の句」を選んでみましょう。

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■雪絵(葱選10句)

飛ぶ鳥のごと結ぶ帯卒業す
月曜の静かな桜中継車
平均台の上の青春花カンナ
流星や羽二枚舞ふ招待状
冬眠やキンダーブックのクマとリス
初桜空に一輪挿して来し
雛祭り小さき町の膨らみぬ
陽炎や石のきつねの動き出す
大阿蘇の夏に蹴り出すバイクかな
トロンボーン腕のぞかせて浴衣の子

 見たもの,感じたものと,その作句の間に全く距離がなく,なんの隙間も齟齬もなくその情景や情感を素直に表現できるというのはおどろきべき資質である。それは子どもたちが描く絵にも似ている。あざとさ,わざとらしさ,衒い,虚飾,押し付け,自己顕示欲などといった「どや顔」はどこにも見えない。喜怒哀楽がそのまま一句に立ち現われている。10選の句には彼女の生活のまわりにあった喜びや楽しさがそのまま素直に詠まれているが,以下のように,哀しみや怒りの場面でも同じような率直さがその句に表される。

大仏の緑青痛し夏の雨
石文の文字読み難し草の花
木彫の顔に罅あり鎌鼬
課せられし錠剤の白冬に入る
落葉踏むほどの罪あり紅茶飲む
コスモスの揺るる数だけ寂しかり
つゆくさや東を向きて思ふこと
冷やかに睡眠薬の転げ落つ

 「遊んでいる子ども」と「ルールの中で遊んでいる子ども」の違いはどこにあるだろう。「遊んでいる子ども」は自然と一体化していてそこにはひとりひとり独立した固有の精神は見かけられない。「胎児」と「母親」が区別されないように,ひとりの子どもは他の子供達と区別されない。一方,「遊戯として,一定のルールに基づいて遊んでいる子ども」は個々に独立している。そしてゲームそのものを人間的に変質させてしまう。そこには個性的なスキルが生まれ,パフォーマンスには個々のキャラクターが生まれる。こどもたちはそれぞれのタレントにしたがって,各々が質の異なった輝き方をしはじめる。快楽のレベルは「鍛練」や「経験値」によって計られる。艱難辛苦を乗り越えてこそ光り輝くことができる。
 また人間は,いつか大人になり,やがては老いや病を得て,当たり前のようにそこに備わっていた「若さ」や「健康」を失うことになる存在である。人間は「胎児の夢」から覚めてはじめて「自然」を客体として眺める。そして,その時に初めて此の世の「現実」を見ることができる。奇蹟としか言い様のない,「この世界の美しさ」に初めて気づくのである。
「詩的」なものはすべて「経験的」である。「遊んでいる子ども(或いは子どもの描いた絵)」は,もはや無心に遊べなくなった大人(或いはデッサンを学んだ画学生)の側から見たときの「ポエジー」なのである。

それでは「詩の種」が「詩」に孵化する状態とは一体どんなものなのか,雪絵さんの句の中から次のような作品を上げてみます。

秋めくや阿蘇にベンガラ色の牛
ちちろ鳴く切絵の中の竜安寺
インカより目醒めし少女地虫出づ
早春の缶に七色ドロップス
駄菓子屋の天井低し花石榴
夕蛍闇増やしつつ舞ひにけり
鳥渡るここは門司港0哩(ゼロマイル)
「カステーラ」右書きの文字鳥雲に
古代地図新羅へ夏蝶飛びにけり
灯の波を寄せて山鹿の盆踊
石人の口なき声や昼の虫
寒空に貴婦人のごと麒麟の背
春風を掴んで風車回りけり
目ぢからのゴッホ自画像冴え返る
うづ潮は時計まはりに春惜しむ
たましひの見ゆるとすれば蛍の夜
鍵盤にど・れ・み・の文字や青蜜柑
原書読む老人力や竹の春

 我が身の内を過ぎっていった「時間」に対峙し,敢てそこに「詩」の1拍を置くことにより,たとえばオーク樽の中で熟成されたような彼女の「過去生」が芳しい香りを放ちはじめます。ヌーボーは美味し,されどヴィンテ−ジを待つこともまた愉し。

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つづいて,俳句をはじめてまだ二年半,初学の秋波さんの句を見てみます。

■秋波(葱選10句)

あまがえる幼き時よりぬらりひょん
今日はいくつ穴ぼこ数え蝉しぐれ
焼け砂の先で澄ました水平線
風あれど媚も売らずや彼岸花
コスモスと背丈を競う子どもの手
寒紅がはんなり開き寒おすなあ
桜道レースのごとく透ける空
ひつじ田のちくちく青き日の溜まり
人や人わっしょい実りの声や声
縄とびの縄のうちそと里の秋

 自己表現のたのしさ,むずかしさ,もどかしさ,おもしろさは其処に表現したい感動や共鳴があってこそ生まれるものだろう。「俳句を詠む」とは,感情を共感しあうことだと言い切っていいかもしれない。人と人が共感するには共通の伝達手段が必要である。たとえば,「仏蘭西」に恋をする少女はフランス語を学ぼうとする。カタコトのフランス語で話し掛ければ,母国語を流暢に話すマダムより,この少女のほうがパリジャンを夢中にさせることができる。なぜなら,自分の心を相手に伝えようと必死になっている姿こそが,とても愛おしく思えるからである。
秋波さんの俳句スキルはそれほど熟練したものではないかもしれない。しかし,自分の伝えたいものがはっきりとそこにあり,それを伝えようとする強い意志があるなら,言葉はきっと大きな共感を呼ぶだろう。自己を愛することが「俳精神」の核だとすれば,他者を愛することが「詩精神」の持つ大きな力であると言えるかもしれない。たとえ,その言葉の意味するところが十全に理解できなくても,発する声の響きには愛が含まれているものです。

万年青生け生命というものをおもう
草萌ゆる市井が放つポテンシャル
葵葉のいにしえの影御簾にゆらぐ
道祖神泣き笑ひたる緑雨かな
夏草ややんちゃ盛りの猫に似て
ぽいはポイ金魚こぼれてくやしくて
砂時計林檎は紅き海にあり
近道が迷い道なり十三夜
行く秋や流れを分かつ尾根に立つ