*大森健司「あるべきものが・・・」=葱男


 
■大森健司
京都府京都市出身。同志社大学文学部卒業。母は俳人の大森理恵。
「河」所属。角川春樹に師事。俳人協会会員。
2012年、「森」設立、主宰。
 
1999年、第1回俳句現代賞を受賞
2007年、第一句集『あるべきものが…』(日本一行詩協会刊)を刊行。
2008年、同句集にて第1回日本一行詩大賞新人賞を受賞(日本一行詩協会主催、読売新聞社後援、選考委員は辻井喬、加藤郁乎、福島泰樹)。
 


* 

彼からこの句集が送られてきて、その封を解いたとき、不意に強い煙草の匂いが立ち上った。
それはまるで、この句集が煙の海の底に長い間ずっと沈んでいたかのように、深く、決して消えないものとしてページの隅々にまでこびりついていた。
 
それからもずっと、ページを開くたびにこの句集からは強い煙草の匂いが立ち上る。
頑固に消えない匂いは大森健司の固い意志と強い絶望を象徴しているように思えた。
 
句歴10余年、私はこれまでに多くの俳人たちの句と出会い、その素晴らしい才能に驚かされてきた。
しかし、その才能を羨ましいと思うことはあっても、それを悲しいと感じたのは大森健司が初めてかもしれない。
いや、もうひとり、寺山修司にも同じような匂いを感じる。
寺山の句に初めて接したとき、まだ句歴の浅い私はそれが「悲しき才」だとは認識できていなかったと思う。
しかし、大森健司の句に潜む諦観や絶望や欠落感、喪失感は「あらかじめ失われた時間の記憶」として寺山の幼少期青年期と重なるものがあるのを今は感じる。
 
つまりは「あるべきものが・・・」という欠落感なのだ。
 
句集を区切る一章一章に付されたタイトルにもそれは深く刻印されている。
「固い椅子」「誰もが通り過ぎてゆく」「生き人形」「TOKYO」そして「あるべきものがそこにある」
 
「あるべきもの」は在っただろうか?
私はそう思わない。
「あるべきもの」は此処には無く、別の場所に在ったのだ。
 
では、果たして彼の心象世界に、あらかじめ失われているもの、とは一体何か?
 
母の中にあるべき母性か?
父親の不在か?
 
そんな風に簡単に言ってしまうのはあまりにも浅薄だろう。
私はそのヒントを彼の「美形」の中に探ることができるような気がしてならない。
彼の風貌はすべてがよく整っている。
あるいはその「美形」は母の大森理恵が抱えている烙印とも符丁するかもしれない。
 
その美しさは、あるいは世間一般の凡庸な幸せの形を歪める要因のひとつとなったのではないか。
そして、その代償として文才が天賦されたのだとしたら、それはとても悲しい才能である。
 
世の中の美形がみなこのように「悲の器」として存在する訳ではない。
美が悲の回路に紛れ込むにはいくつかのボタンの掛け違いが起こる必要がある。
本線を走っていた列車が引き込み線に導かれて、ついにはガランとした保線区に辿り着くように、暖かいけれど虚飾に満ちた居場所から、透徹した悲しい真実の区域へと、大森健司は導かれたのだろうか。其処で、天空に向かって「存在の底に沈んでいる、遁れようのない、逸脱できぬ悲哀」を詠っているのだろうか。
 
魂の一行詩としての句集「あるべきものが・・・」は大森健司が二十六歳の青年だった平成十二年から七年間という短い間に詠まれたおよそ300句が収められている。
私の拙い力量ではとてもその全体を鑑賞することができない。
ここでは「生き人形」というタイトルで編まれた、平成十四年から翌年九月まで(つまり、彼が三十歳になるまでの一年間)の一章に絞って、どうしても捨てられない特異な句を思うままに鑑賞してみようと思います。
 
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●風船をはなしてしまふ昼の町
この句集には「昼」というキーワードを多く見かけるのだか、彼の詠む「昼」には全く温度を感じることができない。明るく、あらゆるものが目にはっきりと写って鮮明であるはずの「昼」とは少し様相が異なる。現実感の乏しい、不安感の伴う、温度や湿度のない「昼」である。
 
ほかに
葉鶏頭窓一枚に昼があり
炎昼やいつかは人のなき地球
炎天や生き人形が家を出る
月までのふたつの駅や昼蛙
光る蛾の閉ぢ込められし昼の蔵
 
●オーデコロン夢あるときもなきときも
もちろん、ここで瞠目すべきなのは「夢あるとき」と「夢なきとき」が等価である、という認識だ。ここではオーデコロンは心を化粧するひとつのツールと化している。
 
●母の背は荒野に似たり春時雨
全く同じフレーズの短詩を私はずっと前から知っていて、どうしても理解できないままでいた。私がもっとも尊敬する存在のひとり、藤原新也氏の写真と詩の、コラボレーション「メメント・モリ」に収められた短詩だ。
「母の背は曠野に似る」
全く同じである。盗作だとかは思わない。ただ、私の中では藤原新也と大森健司とは存在として不思議なくらい重ならない。ふたりに共通する母の背中の荒野を、私にはイメージできない。だが、ふたりにならそれが分かるのだろう。本来は暖かく触れているだけで、頬を埋めているだけで心安らぐ母の背中である。
それが荒野だと、ふたりは言う。
考えてみるととても怖い断言である。もしかしたら「愛してる」という言葉と同じぐらい怖い言葉かもしれない。
 
母を詠んだ句はほかに
啄木鳥(きつつき)やこの暗がりに母捨てむ
新涼や母の手にのる化粧水
白玉や母から消ゆる術しらず
このひとの過去はなやかや南京豆
母の日や母を遠くに雨が降る
卯波立つ母にいくつの恋ありぬ
若水や淋しき母の顔うつす

●水引の先に故郷のしづみけり
水引は祝儀袋などに用いられるお目出度い紐なのだか、一方で血縁で繋がるもの同士を縛る束縛の紐の象徴でもある。自分を縛ってくる故郷なんぞは沈めてしまうのが良い。この句にはどうしても寺山修司の影が見えるように感じるのだがどうだろう。
 
●鳥の日や喫煙席に女来る
「あるべき〜」にはこの句のほかにも「鳥の日」を詠んだ句が二句ある。
鳥の日や地球儀といふかろきもの
鳥の日やたかぶる心何に触る
 
気になって調べてみたが、どうやらアメリカのバードウィークに因んだ記念の日で夏の季語になるらしい。
何かウキウキとした心の象徴として「鳥の日」はあるように思う。
だとすれば地球が軽く感じられる時こそ、彼の心は浮き立つのだろうか。大森健司には「鳥」を詠んだ句がいくつもあるが、それは、今現在の地点から飛び立つ、天空へのかりそめの飛行願望かもしれない。
 
ほかに
愛鳥日すぐに忘れてしまひけり
たましひの抜けたる鳥も渡りけり
郭公やはじめに誰の名を呼ばむ
つばくらめ緑も人も濡れてをり
春の鳶真青き空が落ちてくる
 
●いきいきと女が墓を洗ひけり
「女」と言って「母」を詠んだ句がいくつもある。あるいは「女」に「母」を投影させた句がいくつもある。
 
ほかに
兜虫いまは女の手にしづか
風鈴や女たましひ売りきれず
手鏡にをんなをさまる秋の昼
火取虫ナイフのごとく女来る
 
●下萌や悲劇の拍手はげしかり
「下萌」という季語がこのように取り合わせられた句はあまり見ない。一年中で一番良い季節を迎えようとしている頃、自然が、万物が萌え出ようとしている時、すでに彼の耳には悲劇の拍手の音が聞こえているというのだ。
 
●ねむる蚕(こ)の遠くの海が光りけり
「海」あるいは「水」というキーワードも大森健司の心象世界を覗くためにはとても重要なモチーフである。
「海」あるいは「水」は、自然界の持つ大きな懐を象徴していて、我々は皆、母の羊水の中に浮かんでいたころのような心の安らぎを得ることができる。
 
ほかに
金魚数匹暮れたる水に泳ぎけり
水餅や馴れざる水に沈みつつ
夜の海にかの冬の日の父がゐる
台風一過真つ赤なボート海を裂く
元日の空と海とが混じる音
父の日や絵本ひらけば海の音
短夜や枕にかよふ水の音
 
そのほかにも、「父」、「虫全般」、「肉体の一部 (指や耳)」も彼の俳句を語る上では重要なモチーフである。が、これらのキーワードを紐解くにはそろそろ力が尽きてきた。
この辺で、大森健司をめぐる不必要な冒険の旅を終えようと思う。
なぜ、不必要なのか?と問われるなら、彼の十七文字の一行詩をどのように読み解こうと、どのように鑑賞しようと、彼の才能が他を抜きん出ていることの凄さを説明することにはならないからだ。
 
その、あまりにも文学的な世界は、あるいは、現在の、生温い俳壇からは敬遠されるかもしれない、とさえ危惧する
。 それこそが彼の持つ力を「悲しき才」だと私が言うところの所以である。


■ 葱々集〈back number〉
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