*風悟さんの絶筆=葱男

〜吹き残る風のエチカや春の夢〜

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※二月二日(土曜日)に、由美子夫人より緊急の電話をいただいた。その折に「井月」句集にはさまれていた一葉です。
倒れる前日に、この手紙を郵パックでおくってほしい。急いで、と風悟さんは言っていたという。(二六斎・注)

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宗匠の主宰する「めじろ遊俳クラブ」の初期からの主要メンバーであった風悟さん(本名 大畑純一)がこの2月、蜘蛛膜下出血で倒れた。
年令も私とほぼ同年代、句会で何度も御会いしたことがあるが、ついに一度も親しくお話する機会は持てなかった。
彼は、強度の身体障害をかかえており、簡単には他者を寄せつけないオーラと、浅薄な同情を拒否する強い矜持を抱え持っているようにみえた。

遠のきつふと二胡に問ふ月の音  風悟

風悟さんの俳句の骨頂を示すようなみごとな回文である(とおのきつふとにこにとふつきのおと)
彼は二六斎宗匠の目指す俳句世界の最高の理解者であり、また、宗匠と深い俳句談義のできるたった一人の存在であった。(これは宗匠本人から私が直接聞いた話です。)

ふたりが愉しく語り合いながら夢見た「俳句世界」については、入院中の風悟さんから届いた手紙に対する宗匠の「拝復」の中にその片鱗がが窺える。

私のようなものに彼等ふたりが描いていた世界を想像することは全く不可能だが、以前、風悟さんが強く反発し、問題を提起した「葱男俳句」の倫理観事件というものがあった。その内容にについては下記の「俳句日々是葱々」の一文「俳句とエチカ」をご覧になってください。

私は今でも「俳句」の中で使ってはいけない言葉はないと思っているし、現代諷刺や死生観を句で表現することの「自由」を守りたい気持ちを持っているが、何故あんなに風悟さんや宗匠が「俳句のエチカ」にこだわるのか、少しは分っているつもりである。

今月号の雑栄部門の最初の句がはからずも「後足の一本なくて恋の猫」という水音さんの句になったのは「アイウエオ順」にノミネート句を並べるこれまでの「丘ふみクラブ」の出句方法のせいだが、宗匠の「め組」のシステムは違っていて、それは非常に高度なやり方であって、到底私には真似できな方法である。
宗匠は全ノミネート句を、アットランダムに並べ替えるのではなく、時節に見合ったストーリーを編集、構築しながら、その一度きりの句会にふさわしい順番に全句を並べてゆく。
今回の宗匠の「全身文学家」に書かれている骨子はそのようなものであった。

何も水音さんの句に問題があるのでありません、そのことは風悟さんの絶筆と下記の宗匠の手紙の内容を読んでもらえれば分ることだと、私は思っています。

拝復  風悟様

絶望は私達の日常の足裏に、濃く重くとどまっている。
軌跡は例えば風船をにぎる子供のにぎりこぶしの中にある。
貴方は、絶望と奇跡の綾取りのすき間に、一人凍えている。
貴方の絶筆が猫の一句であることを私は、悲しむ。
「蜘蛛膜下苦界に沈む猫の舌」
貴方は伊那谷を放浪した俳人「井月」の句集に、この句っを忍ばせて、忽然と旅立った。
否、眠っている。
残されたのは猫の鳴声。
私達が幾度も語り合った、俳句の未来。
そこには、あらゆる意味から遠ざかる反俳句があったはずです。
でも、貴方が残したのは、子供の手から離れて、虚空の一点をめざす風船の軌跡だけ。
いま残された私達を慰藉するのは、真に高貴なるものは、常に不在かつ不可視という、その一言です。
これから、野良ちゃんを見るのが、つらくなります。
猫ちゃんたちの声が、遠ざかる鶴の声にきこえるかも知れません。
井月の絶句のようにです。
『どこやらに鶴の声聞くかすみかな』

平成25年2月7日早朝  小山敬三郎 】

■絶筆

二六斎様

蜘蛛膜下苦界に沈む猫の舌 風悟

先日はお見まいありがとうございました。

「キミのカリカリ モラッテ 
早く元気にナルヨ!」

ひょっとして教壇に復帰することは
ないかもしれないので
俳句で復活したいものです


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最後に風悟さんの経歴を「慶応大学」のホームページから紹介します。

* 学習院大学独文学科 1974年卒業
* 学習院大学大学院文学研究科独文学専攻
* 1977年 修士号取得
* 慶應義塾大学大学院文学研究科独文学専攻博士課程
* 1980年 単位取得退学
* 担当科目:ドイツ語
* 専門領域:世紀末芸術
* 研究紹介:ホフマンスタールを中心とするオーストリア,ドイツの世紀末文芸及び周辺領域の状況を現代との関わりのなかで考察すること。

●吹き残る風のエチカや春の夢
●遠のきつふと風に問ふ闇の梅
●閉院の知らせひとひら梅真白
●汚れなき独りの時間紫荊    葱男