随想集「月下独作」/2004



●俳句道

これまでも、これは極めたいと思った「道」がいくつかある。
曰く「酒呑道」、曰く「旅師道」、曰く「花見道」、のたまわく「自由道」。
今ここに「俳句道」が加わった感がある。
もともとは小山二六斎という目白の元コピーライターのおじさんが自ら主宰する句会に誘ってくれたのがきっかけだった。
それまでにも何回か試みに句を詠んだことはあったのだが、どちらかというと、まだまだ現役バリバリで生臭い自分などは、俳句より、むしろ短歌のほうが似合っているんじゃないかと思っていた。俳句はいわば人生から一歩も二歩もリタイアした、好々爺がものするものだと思っていたのだ。
ところがやってみると、これがいかにも現役バリバリのもんだという事がわかってきた。 身を削り、凌ぎを削って血みどろになりながら詠むものなのである。

●まっすぐな道でさびしい・・
種田山頭火の句がここにある。 みっともないなあって思う。
●分け入っても分け入っても 青い山
自己コントロールできない酔っぱらいが、って思う。

でも、この俳句には、多くの人のこころを鼓つものがあった。
「〜道」とは案外そんなものなのかもしれない。そんなにかっこいいことばかりじゃないのかもしれない。
そう思うと少しだけ生きるのが楽になる。句を詠んだぶんだけ人生が軽くなっていくとしたら、それこそが「俳味」というものじゃなかろうか?少なくとも何かいい味出してるってことは間違いなさそうである。

●聖夜祈る レノンの声が 覆ふ街
Mr. JHON LENNON's voices over the town. That's waiting for Merry X'mas.
1980年12月8日、ひとりの偉大なミュージシャンの魂が天に昇った。毎年この頃になると、クリスマスを待つかように、彼の歌声がまた街に還ってくる。
24/DEC./2004

●仏陀の吐息

月下村の独白:生きてるって悲しいやろ?切ないやろ?それが素晴らしいって思うわけよ。それを教えてくれる人がいるわけよ。あと10年、ちゃんと生きてから死にたいって思う。だけんいい絵ば描くけんね。いい絵ば描いて、みんなを心から愛してそのまま眠りたいって思うわけ・・。

仏陀は末期の吐息に乗せて弟子にこう言ったそうである。
「この世は美しい」
この時仏陀はすべての存在=森羅万象と繋がっていたんだと思う。
変な言い方になるけど、森羅万象のほうも彼の事を愛していたんじゃないか?
「死」もまた彼の友達のようにそこに寄り添っていたんじゃないか・・。
「武士道とは死ぬ事とみつけたり」
自分の美学を構築し、それに殉ずる者のみが手にすることのできる心境だろう。

人は何を獲得するために生きているのだろう?
地位や名誉や財産や子孫を獲得するためにではない。畢竟人生とは、「穏やかな死」=「円い死」を迎えるために己がどんな生きざまを、いかに獲得してきたか、という事にすぎない。
「円い死」を迎えるものだけが「丸い再生」に循環する。
そして人は永遠のいのちの輝きを得るようになる。
マンジャーレ、カンターレ、アモーレ!
食べて、歌って、恋するがいい。恋い焦がれた揚げ句の崕(はて)に見えるものは、深く温かい、友愛に充ち溢れた至上の海に違いない。
11/DEC/2004

●丘の上(へ)に

筑紫丘高校「第23回期卒業生」同窓会が11月20日、福岡の「天神ガーデンパレス」で開催された。

福岡での楽しい夜を重ねている時も、心の奥底に瞬間、此処にはいない、幾人かの同窓の顔が浮かぶことがあった。
小千谷市に住んでいる、今度の中越地震で被災した西川君のことだけではない。天災の所以でもなく、様々な人生模様の中でこの場所に来れなかった人の事を思うと、今の自分がどれほどの幸せを抱いているのかが痛切に理解できた。その幸せは不意に涙が落ちるほどに鮮烈に悲しくもあった。
何人かの友とは実に35年振りの再会であった。説明できないほどの歓喜の交響楽が体の中を血とともに巡っていた。
そして、今だに再会を果たせない幾人かの友があることを思い起こして、彼等のために幽かに祈った。
人間、実に35年をかけて届くものがあるとするなら、これから何年が過ぎようとも光が差し込む未来は決して簡単に否定されるものではない。

去年、同窓会で30年振りに再会した旧友の安藤君が、奇跡のように記憶してくれていた高校の時に作った歌をリメークして、今回の個展のオープニングパーティーで謳った。
その歌詞をわが同窓のすべての魂に捧げたいと思います。

***

誰が命の意味を知るの? 深い、暗い闇に閉ざされた夜も やがて朝日が昇るときに すべての命の 光りが見えるのさ
生きてることの訳も 死んでゆく理由も ただ命の香りの中で 漂っているのが人生さ
誰もがひとりじゃない けれど孤独を囲っている この体を流れる赤い河も いつかは 空へ帰るのさ
本当のことは誰も 言わないけれど 答えは風の中に 木々を渡って吹き過ぎてく
たとえあなたに 会えなくとも 心に大事な場所がある
熱く燃える命の限りに いま すべてのものが 此処にあるのさ 此処にあるのさ 今を生きている  あなたを愛してる 今を生きている 今を生きている
24/NOV/2004

●見星寺住職説法

母の三回忌、姫路城のすぐ西のとなりは、名刹「見星寺」を訪ねる。
もう4〜5回目の訪問になるだろうか。こじんまりとして風情のある、この禅宗のお寺と縁ができたのは、今考えると本当に偶然の事であった。
無神論者で一度も先祖の墓参りなどしたこともなく、菩提寺からも縁を切っていた父が亡くなった時、地方の葬儀社の人にどこの宗派の方に弔いのお経を頼みましょうか、と聞かれて、私は咄嗟に、父がその教義を敬愛していた「臨済宗」のお坊さんを頼んでいた。代々の浄土宗門下からの突然の改宗だった。
「見星寺」の住職は女性である。まわりの人は親しみを込めて「庵主さん」と呼んでいる。母が亡くなったときはお葬式もそのお寺でさせていただいた。まだまだ元気な母の三姉妹も、「私のお葬式もここでしたいなあ」などと口をそろえて言うのだが、まんざら、私へのべんちゃらだけでもなさそうである。法事が終わっても、手入れのゆきとどいたお庭や茶室、新しいアーティスト達の襖絵や書を眺めているだけでも、もう少しその空間にゆっくりとしていたくなる。庵主さんは近所の檀家さん達とコーラス部を作っていて、「おおきなのっぽの古時計」やら昔の唱歌などを毎晩唄っているそうだ。

詳しい事情はよく分からない。見星寺の庵主様が話してくださった説法である。
檀家先の、普通の女子高校生が語ってくれた言葉だそうだ。「私がこうして、ただ漫然と、ダラダラと過ごした今日という日は、昨日亡くなった人が、切に生きたいと願った明日なんだ。」

人間、前だけを見つめて、過去を振り返らずに生きる事はとても素晴らしい。けれども、失った人達の面影を自分の中に生かし続ける、という事がとても大切に思えるのは、私が今まさに中年の坂を下ろうとしているからなのか。それとも星見る寺に最後は眠りたいとふと、感じたからだろうか。
24/SEP/2004

●ベイツ・カンガルー

友人の女性の歌唄いの名前である。外人さんには見えない。
はじめてその動物を見たエゲレス人が「あの動物は何?」って尋ねたところ、アボリジニはこう答えた。「分からない(カンガルー)・・・」
たまにメールを交換するのだが、この前こんな事を書いてきた。「ベイツカンガルーです。朝カメの鳴き声?を聞きました(笑)。」
『亀鳴く』は春の季語になっている。
●亀泣けり 忘るなと はた忘れよと(佐藤明彦)
●亀鳴くや 深き森より巫女二人(戸田穂波)
歳時記の解説によると「亀は鳴かないが、うらうらした春の日にはそんな感じのするものとして使われる。」とあった。 そんな事を彼女にメールすると、返事が来た。
「私がウラウラしてたのか、アゥアゥアゥって3回(笑)みました。俳句おもしろいです。」 やっぱり彼女はカンガルーですね。国も民族も種も越えて・・・。 
01/SEP/2004

●980円の死(追悼ジャガマリン)

ふと、観覧車の回る音が聞こえたような気がして目が覚める。
しかし、それは錯角でしかない。彼女はもうこの世界には存在していない。
去年の三月に購入してきたので、誕生石のアクアマリンにちなんで、「ジャガマリン」と命名した。売り場で一番ちっこい、よわっちい雌の子供を選んだ。ジャンガリアン・ハムスターは雌が一匹980円という値段だった。
元来が夜行性の動物でとても神経質。はじめは触ろうとすると、すぐに前歯を見せて怒った。暗くなると、夜中じゅう、一心に観覧車をまわしていた。カラコロカラコロと永遠に続く乾いた音の中で、私はいつのまにか眠りについた。

慣れてくると、機嫌のいい時には掌の中によじ登ってきて、ガジガジと皮膚に齧りついた。しかしその感触からはもう恐れの意識は伝わってこず、いわゆる、じゃれて、甘噛みをしているのである。
手からひまわりの種や、キャベツを食べる時と、こんな触れ合いだけが彼女との間で可能な、すべてのコミュニケーションだった。

ハムスターの寿命は、一般には2年といわれている。そんなに短い時間を彼女は観覧車を回し、ひまわりの種やキャベツを齧るだけの一生を終えるのだろうかと思うと哀れな気持ちが先にたった。篭から出して広い畳の上に置いてみても、オドオドとしてそこらをちょこっと廻ってみるぐらいで、すぐに自分の篭に戻りたがった。 そしてまた、元気よく観覧車を回すのである。

庭との間のサッシの扉が20cmほど開いていたのである。
家に帰って来た時はすぐに気がつかなかったけれど、ふと篭をみると、いつものティッシュぺーパーのふとんに血のようなものがたくさんこびりついていた。ほし草が少し乱れて飛んでいる。「マリンちゃん、マリンちゃん!」と呼んで篭の中をさらってみたものの、彼女の姿はもう、どこにも見えなかった。

寿命をまっとうさせてあげられずに、不意のアクシデントにみまわれて彼女は1年4か月で逝ってしまった。
ごめんなさい、マリンちゃん。怖かったろうね、痛かったろうね。
7月20日があなたの命日です。
21/JUL/2004

●窪塚ダイブ

TVドラマ「GTO」からの窪塚洋介ファンである。
私の好みの男優遍歴は「赤い鳥逃げた?」の原田芳雄から始まって、松田優作→豊川悦司→窪塚洋介→市原隼人、となにかとても歴然とした系譜がある。
「悪魔のように繊細に、天使のように大胆に」とは故黒沢明の言葉だったか?

ジェームス・ディーンを演じられる男優というのがその資格かもしれない。
外国人俳優ではあまりにも寡作(「天国の日々」、「ライトスタッフ」)なサム・シェパードぐらいしか思いつかない。
男前なのだが顔を見てるだけで、こちらがなぜか切なくなる。彼らが何を切り捨て、どう覚悟を決めているのかを理解したい。

松田優作は逝ってしまったが、窪塚は残った。豊川がそうしたように彼には芳雄さんからいろんなものを学んでもらいたい。そして、いつか市原隼人にそれを伝えてもらいたい。何か伝えたい事があって、伝える方法が分からない時、みずからに対して罰を下そうとする純粋な魂が哀れなのだが、元来「おとこの色気」とはそんなものなのかもしれない。

窪塚が落ちてゆく時に垣間みたであろう女神の事を想像してみる。
覚悟を決めて「印」を結んで目を閉じることができたら、「死」の間際に彼女は現れるのだろうか?
最後の女と恋に落ちる瞬間を持ちたいがために今、もがき苦しみながらもちゃんと生きようとしているのかもしれない。

何か一つの道を極めた人間は最後には男色にいきつくという話をどこかで聞いたことがあるが、どちらがいいかと問われれば、私の場合、やはり「道を極める」よりは「女神」かな?
01/JUL./2004

●さよならだけが人生だ

御存じ、故寺山修司氏の言葉である。
6月12日、京都の精華大学に、浅川マキさんが来られた。
ライブではなく、精華の名物教授、大沢真一郎氏の特別ゼミナールという形でゲストに招かれたのである。(一般の人間も無料でその講議に参加できるというわけである。)
1970年代、大学をなんとか卒業してフーテンをしていた頃、彼女の唄は自然と自分の周りに流れてきた。唐十郎のアングラ芝居やATGの映画を観て、『遊』の松岡正剛の思考に必死についていこうとしながら、彼のエディトリアルアートをなにも理解できなかった。自分を表現する方法はただ、大酒を呑んで町中をストリーキングすることぐらい、全く創造的な仕事はできず、原田芳雄に憧れて無頼にアドリブを遊んでいたあの頃。

『遊撃の思想』という本の中で大沢氏は60年安保から現在に至るまでの時代の空気を社会学として著述している。
68年、東京の「銀巴里」で彼は初めて浅川マキに出会い、その魂の歌声を感じたのである。2004年、真面目な学者肌の男の熱い願いがついにその日に叶う。
ふたりは全く異なった環境の世界で年令を重ねながらも今、この時に出会い、互いに互いの人生の生きざまに感応している。
講議の途中、マキさんが作った自主プライベートフィルム上映では10年前の彼女と原田芳雄の姿が映っていた。
そのあとのフリートークで私はマキさんと「京一会館」(昔あった、有名なシネマ館)や、芳雄さん、優作さんの話をした。
「今でもマキさんは原田芳雄さんに惚れてますか?」って私の問いに「あなたって、ナニモノ?」と微笑みながら尋ねる彼女に「京一会館が好きで好きでそれで京都に移り住んで、50を過ぎた今でも学生みたいな暮らしをしています」って答えたら、サングラスの奥で優しく笑っている幸せそうな彼女がいた。
30年前と全然変わっていない。
「もう。私にはそんなに時間がないから・・」と仰言るのだが、年令が全く分からない。というかとてもとてもお若く見える。
全くなんの伴奏もなしに10〜20分も「ロンググットバイ」を語りかけるように唄い、 暗黒舞踏家のような独特のせむしスタイルの動きで「セント・ジェームス病院」を唄い、 寺山のこと、昔の新宿や渋谷のことを愛おしそうに語る彼女は今、とても幸福そうに見えた。
「そうね、一度好きになった人のことはいつまでも、いつでも興味あるわね」 そう答えてくれた浅川マキさんが一番深く理解している言葉こそ、と私は思う。
=さよならだけが人生だ=
「ひとは皆、不完全な死体として生まれ、やがて時を経て完全な死体となるのである。」
これもネフローゼとともに生きて、そして亡くなった寺山修司の言である。
14/JUN/2004

●草木にも、知られぬ風のかよひ来て

詠人不詳。江戸時代、京都上七軒は「瀧川」という芸妓か誰かの句だともいう。下の句は判別できないらしい。
友人の神経科医がそう教えてくれた。
時々、精神的に「どんつき」まで追い込まれたら、カウンセリングをしていただいている。
わたしがこれまで、もうだめじゃないかと、心の絶望の危機に遭遇した時、幾度かいのちを掬っていただいた何人かの貴重な友人のひとりである。
常識では考えられない想像を絶する助言に、私の培って来たひ弱な意識軸みたいなものがいっぺんに吹っ飛ぶ。

個展の前にはいっつもこんな悲惨な情況が訪れる。
何も、自分からは作りだせない。今までに作った事のあるものをコピーする情熱など全くない。今までに作った事のないものが、怒濤のように我に押し寄せてくれることを待つしかない。それがやって来てくれるのかどうかはなんの保証もない。そのくせみんなからは褒められるものを作ってみたいのだ。(やだねえ!)

草木にも、知られぬ風のかよひ来て

11月3〜7日は京都、花園の「ギャラリー妙芸」で、11月18〜21日には福岡、赤坂の「ギャラリーおおくぼ」で、学生時代の地元では初めての個展を計画している。
もう、いい加減年寄りなんだから、九州は筑紫の丘に、誰にも知られないでもいいから、なんだか「あれっ」てな風をおくれたらそれでいいんじゃないのん? =ふらここに 同窓の君 揺れる宵
21/APR./2004

●夕暮れのキャッチボール

陽が西に傾き、影が長く伸びる頃、「そろそろ帰らなきゃっ!」って大好きな子はお家に帰ってゆく。そのうしろ姿に「ま・た・あ・し・た」って呼びかけて、とっても楽しかった一日が終わる。
でも、彼女は女の子だし、野球はそんなに好きじゃないし。高学年になったから遊んでばかりはいられない、家でお勉強しなければならない。
夕暮れのキャッチボールは『永遠』のストップモーションでしかない。
セ・ラ・ヴィ! それが人生だ。

人生にはそれぞれ時期というものがある。出逢ったり、重なったり、離れたり、別の川を下り、いつかまた遠い未来で合流したり、それは誰にも分からないこと。
嘆いても仕方がない。そう理解することが生きるってことだ。
物語りは映画のようにくり返し脳裏に写し出されるだろう。それを現実に置き換えるために人は日々に心を費やしている。

誰かがこう囁いている。「野球選手になれる訳でもないのに・・」と。
こちらがボールを投げて、相手がそれを受け取る。相手がボールを投げ返して、今度はこちらがそれをしっかりと受け止める。こんなにシンプルで素敵な行為って他にあるだろうか?
野球選手になろうなんてつもりはない。相手がもし野球選手なら、もう、彼とはキャッチボールできないだろう。それは仕事でもないし、ゲームでもない。点は入らないし、勝敗はない。
その相手と共にあること以外、何も意味を持たないのが『夕暮れのキャッチボール』なのだ。
01/MAR./2004

●ヤマトンチュぬ宝

僕が生まれた この国の四季を 僕はどれくらい知ってるんだろう〜♪
または
僕が住んでる この京都の町を 僕はどれくらい知ってるんだろう〜♪
加茂川も 小径の疎水もララ〜ララ〜ララ〜ラ〜♪リラ〜ラ〜ララ〜♪(BIGINの『島人ぬ宝』のパクリです。)
比嘉栄昇君が羨ましいなあ〜〜。彼は故郷の石垣島を心底照れずに愛せるんだもん。

「日本人」である事になんだか嫌気がさしてる誰かのために一言。
日本人である事が本当に必要なのかどうかは分かりません。愛国心とか簡単に言うけど、そんなものは「自分にとって必要な人だけが必要」なのかもしれない。日本を日本として同定することができたのは、紫式部の「源氏物語」から敗戦までの千年かもしれない。
はっきりと言っちゃえばそれ以前は中国、それ以後はアメリカである。
不満を言ってるのではありません。個人個人にはむしろ国家はいらない。「市場があれば国家はいらない」とは私が私淑する『メメント・モリ』=藤原新也の名言です。
言いたいのはそう言う事じゃない。日本の四季の事です。この国に住んでいて本当に良かったなあ〜という感謝の気持ちの事です。春、夏、秋、冬。当たり前って思うかもしれないけどこんなに縦長で四季を楽しめる土地ってそうはないよ(毎日、加茂川を90分ジョギングしててそう思う)。ま、よその国では、ニュージーランドぐらいかな?

人の性格ってその土地の風土が作るって理解できるでしょ? 日本人が日本人特有の美意識を持てるのは此処に住んでる人達が日本の四季の中に暮らしているからだと思います。
同じ環境にいて、同じ自然に感動、共感してる者同志が理解し合えるって、本当に素敵な事だと思うけど、皆さんはどうでしょうか?当たり前すぎてわざわざのたまうのってウ・ザ・イ・かなあ〜?

「ヤマトンチュぬ宝」。全く文化の違う土地をひとりで(日本関連全く抜きで)一週間も旅してると、まずはじめに日本語に飢えてくる。誰とも日本語が喋れないなら、今度は馴染みの食い物が喰いたくなる。それもだめならとりあえず何か香りだけでもオリエンタルなものにすがりつく。それが日本人である私の旅の経験則なんですね。一回、一年ぐらいかけて異郷を旅してみると日本の事がよく分かるかもわかりません。日本ってほんと穏やかでいい土地柄なんだと言う事が実感できるから、それから「日本人」って改めて考え始めるのかもしれません。グローバルスタンダードも市場原理も自己責任も必要無いって!!アジアなんだから日本は!、っっとっと、何を熱く語ってるんだろうか俺は?
一体誰に喋ってるんでしょうか?(あ〜〜あ、ロスタイムで偶然がみっつぐらい重なった久保のゴールだったけど、ほんと、勝ってよかったあ!) チャンチャン!
18/FEB/2004

●永遠の旅人

これまで多くの旅をしてきた。仕事は「絵付け師」(画家とはちょとニュアンスちゃうんよ)だが、ほんとは「旅師」というような職業でありたいと思う。なにも地球の上をあっちに行ったりこっちに来たりするだけが「旅師」の仕事ではない。つまり、「遠くにあるものに、こちらから逢いに出かける。」というような事のすべてが「旅師」の使命である。

昔、「遠くへいきたい」というTV番組があった。♪〜知らない町をあるいてみた〜い。何処か遠くへいきた〜い。 郷愁を誘うメロディーから想像できるのは実際の地域上の旅ではなくこころの旅のほうである。合掌して深く頭を垂れるような出逢いの旅は、この京都の町をぶらついているだけでも、私のこころに不意を装って訪れる事がある。
10年程前に「染織α」という月刊紙に載せていただいた文章から、一部をここに転記します。さまざまな旅に感謝の気持ちをいっぱい込めて・・。

『旅にはいつも心慰めてくれる「なにものか」が同伴しています。町から町へと移動する長距離バスや汽車の中では、車窓から吹き込んでくる風と、時折、何処からか聞こえて来る音楽。暗い闇の中、ヘッドライトが照らし出す一本の長い道ばかり見続けている時、例えば後部座席の異郷の少女が鈴の鳴るような小さな声で、けれども透き通った声で歌を唄い始めると、うらぶれた寂しい心根にポッと灯りが点るような気がします。
その時、其処にあって新しく出逢ったものと心なごむような共感を持つ事ができる。あやふやで不確かなものと共鳴できるのは、逆に私が、何か古い確かなものと繋がっているからかもしれません。遠く離れていても決してほどけることのない確かな絆のようなものを、いくつも抱いているからかもしれません。今日のこの日は限りなく新しい出逢いに満ち満ちています。そして同時に、ひとりきりの孤独で十分な時間が今、此処にあるのです。』
13/FEB./2004

●いちもつの寂しさ

鉄道マニアの友人からのメールで、廃止になる路線を惜しむ文章の後、「いちまつの寂しさ」とするところ間違えて「いちもつの寂しさ」と打ち込みがあった。
はじめ思いっきり笑っちゃったんだけど、そのうちになんだかしみじみとそのフレーズが浸み込んで来た。
女の人の事を評して、よく「子宮でものを考える」という言い方をするけど(あまり好きな言い回しじゃないなあ)それなら男のほうは「いちもつで寂しさを感じる」と言ってもあながち的外れとは言えないだろう。
むかし「交接のあと生物はみな哀し」と謳った詩人がいました。
男というものは言うならば「種族保存本能の奴隷」でもある。
「肚にいちもつ」という言い方をする事もある。丹田(?)あたりに強く抱いている信念のようなものか。人間として自らの存在の有り様を見つめ、その宿命を生ききる信念を持とうとする時に、やはり存在はどこかで遺伝子の寂しさを感じている。
立て髪を亡くした獅子は、やがて奴隷から解放されてサバンナの本当の美しさを知ることになるんだろうか?

空から降る いちもつの寂しさ
空から 思いもかけず 綿の花のはじけるごとく
清楚を結晶にして 舞い降りる 寂しさ

生まれ来て 他力のゆえに幾多を経験し
夢見し時を重ねて よわい五十にして舞い落ちるうたかたの
老いは迎えなむ いちもつの寂しさ

そは汝が宝か 肚にいちもつの思いあり
誇りもて歩む かのダンディーの極北に やがて死は訪れむ

さもありなむと じねんの諦観の中を 降りしきる いちもつの寂しさ
美しき 事 ありて 今にとどまっている その寂しさ
05/FEB./2004

●50歳のオクラホマミキサー

去年の高校の同窓会、33年振りに友人達と再会してそれからずっーと興奮していたせいか、大切な事を忘れていた。今年も大分過ぎてから急に思い出しました。
総会の最後にどなたの御発案か、同窓生みんなでフォークダンスを踊ったのであります。50歳のオクラホマミキサー。
なんかすごいなって思いません?。ワクワク気分が魂の底から湧き上がって来た。嬉し恥ずかし昭和のおっさんだ。
いろいろな女性と唐突に手を握り合った。知ってるひと知らないひと、もっとよく知りたいひととも公平に数秒間を共にする。
手を繋ぐとその女性の傾向を感じる事ができる。「快=愛」は近づく傾向、「不快=憎悪」は離れる傾向である。手を取り合った瞬間に了解することがたくさんある。何故かホッとしたり、どうってことなかったり、熱いなって思ったり、いろいろだがそのいろいろがすこぶる楽しい。
頭はビールでクラクラしてるのに、確かに伝わって来る気持ちを「手ごたえ」で直接感じている。その醍醐味といったら・・。楽しいだけじゃない。ちゃんと人生の真実をも垣間みせてくれる。タララリラリラン♪タララリラリラン♪ う〜ん、ん〜んと、もうすぐ〜、もうすぐッ! しかし非情にも音楽は寸前で鳴り止むのである。

=待ち焦がれている時、<そこ>に天使が顔を見せることは絶対にない(人生の第一命題)。大いに幹事さんの創案と勇気を褒め讃えたいものである。

気持ちがニュートラルに入り、なんの気構えるところもなく、たいして期待もしていない時にこそ「天使」は微笑む。そう、「天使」は本当は何処にでもいる。セブンティーンの女の子だけが天使じゃない。オクラホマミキサーを一緒に踊ったひとも、そうじゃないひとも、とりあえず一時期、同じ時間と場所を共有し、同じ歌を歌ったことのあるひとは全員が天使です。この世界はあ・た・り・ま・え・のことが・き・せ・き!
ある意味、50歳になってもワクワク、ドキドキできるのが・き・せ・き!
27/JAN./2004

●刻意の日々

おじさんである。酒呑みで、李白に共感を憶えるからと言う理由で李白のきもの(山水調の訪問着や色留)を作ったら、これが受けたらしく小紋着尺にまで注文依頼が伸びた。
『書』を柄にするのもありふれてるんで、一回、『落款』で紋様をデザインしちゃえと思い付き、「月下村」やら「李太白」やら酒瓶、月の絵模様をおりこんだ肖生印やら、やたらめったらに大小の石を彫りまくった。
おじさんなのである。『篆刻』の世界をちょっと垣間見ただけなのに、これがやたらと面白くて仕方がない。仕事がらみとはいえ、えらく深遠な文字宇宙の世界にはまりこんでしまった感じである。

「ものを作る」という、どんな職種にも、いかなる場面においても共通する法則というものがある。すなわち「滋味」と「雅味」。味わいのことである。すなわち「刻意」と「卒意」。表現の心持ちとでも言おうか。『篆刻』というアートに欠くことのできないテクニックとオリジナリティーはここから生まれ出ずる。

名前が「雅幸」なのでなんとか「雅味」ぐらいはものしたいものだ。ものものしくて御免なシャイ!。
「滋味」が気品、自然(じねん、と呼びたい)、無我の幽境を彷徨うのなら「雅味」はインテリジェンス、洒落感、美意識の発露だろう。「滋味」には職人としてのテクニックが、「雅味」には芸術家としてのオリジナリティーが不可欠である。勿論、やっと刀を手に取ったばかりの新米にとってゆく先は遠い。でも急ぐことはないのである。 それが、「刻意」なのである。
「刻意」をじっくりと学ばなければいけません。一刻一刻に意を込める。もう、若かった頃の体力、瞬発力、頭の回転の早さは衰えてしまっているのだ。鏡に映すと頭のてっぺんは瀟々薄くなっているじゃないか。ただ、応用力、気力、傷付いてもへこたれない柔軟性は少しでも身に付いたんじゃなかろうか。「卒意」でかまして、カッコよく「風の又三郎」は気取れないけど人生、今が旬だと思いたい。

あ〜〜あ、これじゃまだまだ悟れませんなあ。「滋味」のある渋い『篆刻』をものできるはずがありまっしぇんわ。

おじさんは 落款彫るも 油汗=月下村
16/JAN./2004

●自由

今、夢の映画作りのシナリオを書き下ろす為に「大杉栄」関連の本を読んでいます。
一般にはアナキストと呼ばれている栄ですが、ほんとは無政府主義の「主義」にも反駁した。「はじめに行為ありき」「美は乱調にあり」「思想も行為も自由であれ、その動機でさえも自由であれ」。自由を切望してやまない、沙漠で喉がからからに乾き切ったもののごとく彼は叫びます。
坂本竜馬と栄は近代革命家としてよく比肩されることがありますが、竜馬がほんとに手に入れたかったものも「わしはフリーじゃきに!」の地平だったのではないでしょうか?

彼等が生きた明治、大正の頃にくらべると一見、自由そうにみえるこの現代社会。けれども今、人々の間に蔓延しているこの逼塞感は一体何だろう? また、この時代に、真に自由を獲得しているようにみえるのは一体誰だろう?
卑近な例で申し訳ないですが(全部、偏見と独断)。まず、芸能人でいうと、さんま、吉田拓郎(たけし、桑田君の方が好きだけど、自由って意味では前者)。スポーツ選手なら中田と新庄(ゴンちゃん、イチローではない)。文化人なら美輪明宏に小林よしのり(寂聴さんでも唐十朗でもない)。彼等が自らの人間力、生命力を駆使して体現しているものに幾許かの「自由」を嗅ぎとります。
究極までいくとバグワンや、ダライ.ラマになるのかなあ?あんまり遠くにいらっしゃるんでよく分からないですけど・・・。

それでは彼等のどこが他の人と違うのか?それを言っちゃうとたいへんな事になるのでやめときます。ん?ずるい? じゃあ、ひとつだけヒント。彼等全員が(規模の大小はあるけど)なんらかの誹謗、中傷、迫害を受けてるってことでしょうか?竜馬や栄は実際に暗殺されてしまいました。
それぐらい体制にとって「自由」は怖いものなのです。分かります?言うこと聞かないから。コントロールできないから。為政者の思うように動かせないから。
もっと言うと、僕ら自身がそれを恐怖している。自分で自分を保全し束縛をかけて、不自由を囲っているんだと思われます。奴隷でいた方が楽。自分で責任とらなくていいし・・・。会社で仕事何もしてない社長がいるでしょ?社員はぶつぶつ言ってるけど、それでいいんです。何故なら彼が全責任を負うことのできる唯一の人間だから。
真の「自由」を手に入れ、味わう為には「敵」とじゃなくて「自分」と戦い続けなければならない。未知なるものに飛び込んでいく勇気が不可欠。だから映画を作る。
う〜〜〜ん、力はいってるなあ〜〜!これ、さらっといかなきゃダメなんだけどね。
失礼致しましたあ。
07/JAN/2004

●戦後は終わった

新春、「朝まで生テレビ」をちらと見る。
私淑している某氏(無政府主義的リベラリスト無手勝派)のお顔を拝見するためだったが、いかんせん正月のめでたいお神酒のせいか30分ほどで眠ってしまった。だからほとんど出席者のディベートに参加する事はできなかったのだが、とても印象に残ったのが冒頭、田原総一郎が宣言した言葉である。
「2003年で戦後は終わった。2004年はそれとは全く違う新しい年である。」
勿論、非常に怖い言葉である。新しいと言っても、バッグや靴を新調した訳ではない。世界の秩序が再編成され、次なる戦争の前兆が垣間見られる、謂わば、「戦前」の時代を迎えたと彼は言いたかったのかもしれない。

今年も何人か友人達を招いて「書き初め」を行いました。高血圧でぶっ倒れて入院を余儀なくされた先生に代わって、私が「にわか講師」となって授業をした。藤蔓や鶏、人間の赤ちゃんの毛等の筆触を味わった後、それぞれが自分の書きたいお題目を披露する。
「すべて、裁きの時代を超えて、彼を赦したまふ」
半切の余白がなくてあとに「吾に殉じたまふ」の文字を書けなかった。
友人が書いた=「ふらここに 揺れつつ草履 ぬぎにけり」(内田百間) ※ふらここ=ブランコ
本来ならのどかな句なのかもしれないのに、時代に提言する事の無力さばかりが実感されるのは私のひとりよがりだろうか。

あけましておめでとう。閉めましてさようなら。
子供のころ無邪気に口ずさんだ言葉遊びである。
04/JAN./2004

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月下独作/2003